第6話 中編 残す豆、数える手 ③ 豆の選別
第6話 中編 残す豆、数える手
① 畑から戻る札
② イルマの帳面
③ 豆の選別
④ 数を見たあと
【アユミ視点/異世界生活三日目・朝〜昼前】
③ 豆の選別
マリナさんの指は、すぐには紐をほどかなかった。
袋の上に挟まれていた古い木札をもう一度見る。イルマさんが布の端に置いた新しい札と並べ、紐の色と、木片に刻まれた線を確かめる。古い札は、角が少し丸くなっていた。何度も袋の口に挟まれ、指で押さえられてきた木片なのだろう。新しい札の方には、畑の土が端に残っている。
袋はそこにある。口紐もそこにある。マリナさんの指も、もう紐へかかっている。
けれど、まだ開けない。
なまら焦らす。
いや、焦らされている場合ではない。これは作業だ。豆袋相手に何を思っているんだ、私は。
マリナさんは、古い札を袋の上へ戻すと、ようやく口紐をほどき始めた。紐は思ったより固そうだった。何度も結ばれ、引かれ、湿りと乾きを繰り返したのか、表面が少し毛羽立っている。指でつまむと、細かな豆の粉がほろりと落ちた。
袋の口が少し緩む。
乾いた匂いが立った。
畑で嗅いだ青い匂いではない。草でも、湿った土でもない。もっと乾いていて、少し粉っぽくて、でも古びた嫌な匂いではない。袋の中で豆が長く休んでいた匂い、とでも言えばいいのだろうか。黒パンの粉とも違う。豆の皮と、乾いた布と、倉の奥のひんやりした空気が混じっていた。
マリナさんは袋を大きく開けなかった。口を片手で押さえたまま、浅い木皿を近づける。
「全部は出さないよ。見る分だけ」
袋の口から、豆が少しだけ出た。
ぱら、ぱら、と木皿の上で跳ねる。
小さな音だった。けれど、さっきまでの木札の乾いた音とは違う。豆同士が当たる、軽くて丸い音。木皿の底で二、三粒が転がり、端に当たって止まった。
私は、思わず息を止めて見た。
豆だ。
当たり前だけど、豆だ。
丸いもの、少し平たいもの、色がきれいに揃っているもの、端が欠けているもの。皮に薄い筋があるもの。小さな黒い点があるもの。思っていたより、全部が同じではない。光の当たり方で、皮の筋が白く見える豆もあった。端が欠けているものは、そこだけ少し粉を吹いたように見える。
色も、元の世界で見慣れた大豆そのものではなかった。薄い黄土色のものもあれば、灰色がかった茶色のものもある。皮に細い縞のような筋が入った豆は、光を受けるとそこだけ白く浮いた。どれも小さな豆なのに、皿の上で見ると少しずつ違う。
食べ物として見るなら、どれも豆に見える。
でも、マリナさんの手は、もう同じものとして扱っていなかった。
指先で一粒を転がす。次に別の一粒を寄せる。欠けたものは木皿の手前へ。皮が割れているものは、さらに端へ。色が揃い、形のよいものは、皿の奥側へ少しずつ寄せていく。
豆にも、置き場所がある。
まただ。
この村、分けるものが多すぎるんね。
札の次は豆。紐、帳面、札、袋、豆。全部、同じ場所へ置いたらいけない。私は分類ノートを作るのは嫌いではないけれど、ここまでくると少し笑いたくなる。いや、笑えない。豆にも成績表があるのかもしれない、と思いかけて、すぐにやめた。嫌な発想をしてしまった。自分の受験脳がこんなところで顔を出さなくていい。
悪いものを見つけたら弾く。良さそうなものを残す。そういう簡単な採点なら、私にも少しはできる気がしていた。
でも、マリナさんの指は、丸だけでも罰だけでも動いていなかった。
マリナさんは、皿の奥へ寄せた豆を見て、イルマさんの方へ少しだけ皿を傾けた。
「これは種に見る」
種。
私は、皿の奥の豆を見た。
粒が揃っていて、皮もきれいで、色も良い。私の目には、いかにも美味しそうな豆に見えた。汁に入れたら、ほっくりしていそうだ。黒パンと一緒に食べたら、たぶん普通に嬉しいやつだ。
それを、食べる方ではなく種に見る。
え、そっち?
良い豆なのに?
思った瞬間、袖をつまむ指に力が入った。
マリナさんがこちらを見た。
「良い豆を食べないのが、不思議かい」
「あ……はい。少し」
正直に答えた。
ここで分かったふりをしても仕方がない。私の中では、良いものは食べる方に行くと思っていた。良い野菜、良い肉、良い魚。基本的には、良いものほど食卓で喜ばれる。もちろん、種に残すという話は頭では知っている。でも、目の前で粒の揃った豆を「食べる方」ではない場所へ寄せられると、やっぱり不思議だった。
マリナさんは、皿の奥に寄せた豆を指で一粒転がした。
「大きくて揃った豆は、見ていて気持ちいいよ。食べるなら、そういう豆は嬉しい。鍋へ入れても煮え方がそろう」
マリナさんの指が、丸い豆を二つ、皿の奥へ寄せた。
「でも、畑へ返す豆を大きさだけで選ぶと危ない。皮が割れていないか、乾きすぎていないか、傷みや虫の跡がないか、どの畑で持った豆かを見る。揃ったものばかり残すと、同じ天気で同じように弱ることもある。来年の空が、今年と同じとは限らないからね」
同じように大きく見えた豆が、一粒だけ手前へ戻された。皮に細い割れが入っていたらしい。さらに、小ぶりだけれど表面が締まっている豆を、別の場所へ置く。
「食べる豆は腹に聞く。種にする豆は土に聞くんだよ」
その間にも、マリナさんの指は、大きな豆を一粒だけ皿の手前へ戻していた。
戻された豆は、皿の手前で小さく転がって止まった。さっきまで奥の豆と同じに見えていたのに、場所が変わっただけで、もう別のものに見える。私なら、たぶんそのまま奥へ置いていた。
大きい豆。
揃った豆。
皮が割れていない豆。
畑の端で持った豆。
今の私には、ほとんど同じに見える。けれど、マリナさんの指先では、同じではなかった。
食べる豆は腹に聞く。
種にする豆は土に聞く。
その言葉には、豆の粉がついた指と、畑へ戻る足の重さが残っていた。
倉の奥はひんやりしているのに、皿の上の豆だけが、急に外の畑へ戻るものに見えた。
今朝、私は豆の汁を食べた。腹へ落ちる温かさは、まだ身体の中に少し残っている。でも、土へ返す豆のことは知らない。私はずっと、食べる側からしか豆を見ていなかったんだと思う。
多分、人生で「豆」という単語を、こんな短い時間にここまで考えたことはなかった。
納豆。豆腐。油揚げ。味噌汁の味噌。醤油。枝豆。節分の豆。
豆は、私の元いた世界でもずっと近くにあった。けれど、それは食卓やスーパーの棚に並んだ後の豆だった。農家さんや、運ぶ人や、加工する人の手を通った後の、私がただ食べるだけでよかった豆だ。少なくとも私は、納豆のパックを開ける時に、この豆がどこの畑でどんな風を受けたかなんて考えたことがなかった。
今、木皿の上にある豆は、まだどの器にも入っていない。
納豆でも豆腐でも味噌でもない。もちろん、この世界にそれがあるのかも知らない。ただの豆だ。
でも、その「ただの豆」を、マリナさんは一粒ずつ別の場所へ寄せていた。
こっちは、今夜か明日の鍋に入るかもしれない豆。
こっちは、袋へ戻って、来年の畝に埋められるかもしれない豆。
こっちは、まだバルトさんかニルスさんに見せる豆。
同じ木皿の上にあった豆なのに、マリナさんの指が動くたび、置かれる場所が少しずつ変わっていく。皿の奥、手前、布の端。豆は一粒ずつ、別の場所へ寄せられていった。
私なら、さっきの大きい豆をそのまま皿の奥へ置いたと思う。
でも、マリナさんの指は、何も言わずに手前へ戻した。
それだけで、私の中の「良い豆」という棚が、ちょっとだけ勝手に開いた。食べる棚。残す棚。畑へ返す棚。今まで一つだった「豆」という引き出しに、急に仕切りが増える。
整理好きとしては、少し悔しい。
こっちの棚、知らなかった。
今までの私は、決まった名前の箱へ入れることを整理だと思っていたのかもしれない。けれど、この皿の上では、名前を貼る前に見るものが多すぎた。
皿の上では、知らない棚の中身が、まだぱらぱらと小さく鳴っていた。さっきまで一つの袋に入っていた豆なのに、奥へ寄ったもの、手前へ戻されたもの、布の端で止められたものでは、もう見え方が違う。場所が変わるだけで、さっきまで同じに見えていた豆が、もう同じ顔をしていなかった。
親戚の畑を手伝った時も、最初だけは面白かった。葉の形、土の匂い、軍手につく細かい土。けれど、同じ列を見て、同じように腰をかがめているうちに、頭の奥がだんだん眠くなる。
あの時の私は、途中からかなり飽きていたと思うんね。
でも今は、皿の上で豆の場所が変わるたびに、袖をつまむ指へ力が戻った。
マリナさんの指は、迷わないわけではなかった。
時々、一粒の上で止まる。転がす。別の豆と見比べる。ニルスさんへ少しだけ皿を傾ける。それから置く。機械みたいに分けているのではない。豆に少し話を聞いているような手だった。
ニルスさんが、皿の奥の豆を見て言った。
「種に残すなら、そっちだと思う。大きさは少し控えめだけど、皮が割れてない」
「大きい方じゃないんですか」
私が聞くと、ニルスさんは少し考えてから首を横に振った。
「大きいだけなら、食べる方でいいよ。畑に戻すなら、割れていないことを先に見る。土に入れたあとで、割れたところから傷むと、次が弱くなる」
「次が弱くなる」
「あと、端の畑でちゃんと持った豆は、少し小さくても見る。端は風も乾きも受けやすいから」
ニルスさんは、皿の中の豆を一粒だけ指先で転がした。皮がほんの少し割れている。私は言われるまで気づかなかった。光の当たり方で、ただ筋が入っているだけに見えた。けれど、ニルスさんが転がすと、その線が、ただの筋ではなく小さな割れ目だと見えた。
見えていた。
でも、見落としていた。
私にも豆は見える。でも、マリナさんやニルスさんが見ているのは、ただ豆があるということではない。どの豆を皿の奥へ寄せるのか。どの豆を手前へ戻すのか。どの豆を布の端へ置いて、あとで誰かに見せるのか。豆を見るたび、その次に置く場所まで一緒に見ている。
イルマさんが、帳面の行を押さえたまま、皿の奥へ寄せられた豆を見た。
「種に残す方、仮で受けます」
「まだ決め切らないよ」
マリナさんが言う。
「バルトが戻ってから、もう一度見る」
「はい。仮で」
イルマさんは、帳面の端へ小さな印を入れた。
さっきより短い線だった。意味は入る。仮。種候補。朝の分。けれど、やっぱりその線は手に残らない。意味は入るけれど、イルマさんの代わりにその線を引けと言われたら、指は止まる。
ちょっこし悔しい。
でも、悔しがる前に見るものがある。
マリナさんの指が、欠けた豆を手前の小皿へ寄せる。ニルスさんが、皮の割れた豆を別にする。イルマさんが帳面の行を押さえる。皿の奥、手前、布の端。豆が一粒ずつ、違う場所へ置かれていく。私はその一つ一つを追うだけで、もう精一杯だった。
豆の進路相談みたいになってきた。
食べる方。
残す方。
もう一度見る方。
いや、豆に進路とか言ってる場合ではない。でも本当にそんな感じがする。どの豆が今夜の鍋へ行くのか。どの豆が袋へ戻るのか。どの豆が来年の畑へ渡されるのか。豆一粒ずつに、勝手に小さな札がぶら下がって見えてくる。
マリナさんが、黒い点のある豆を一粒つまんだ。
「これは食べる方でもないね」
「捨てるんですか」
「すぐには捨てないよ。見せる」
「誰にですか」
「バルトか、ニルス。虫か、乾きか、袋の中でついたものか、畑で出たものか。そこを見てから」
マリナさんは、その豆をすぐ布の端へ置かなかった。
まず、木皿の明るい方へ寄せる。指先で豆を少し転がし、黒い点がついている側を上にした。小さな点だった。私なら、見つけても「汚れかな」くらいで済ませてしまいそうな大きさだ。
ニルスさんが顔を近づけた。
指でつまむのではなく、爪の先で豆の向きだけを変える。黒い点のある場所を見て、豆の皮の筋を見て、次に袋の口を見た。
「袋の底から出た?」
「いや、今のは口に近い方だよ」
「じゃあ、まだ分からない。底にも同じのがあれば、あとで見る」
袋の底。
そこまで見るのか。
私は、思わず袋の方を見た。まだ口が少し開いているだけの布袋だ。中には豆が入っている。それだけに見える。でも、ニルスさんは今の一粒だけではなく、その豆が袋のどこから出たのかまで見ているらしい。
黒い点のある豆一粒。
それだけで、袋の中まで話が戻る。
わや。
豆一粒なのに、範囲が広がるのが早すぎる。
イルマさんは、帳面にすぐ線を入れなかった。筆記具を持った手を少し止め、帳面の行を指で押さえたまま待っている。書かないことも、たぶん作業のうちなのだ。ここで書いてしまうと、あとで袋全体を見ることになった時、また戻す線が増える。
マリナさんは黒い点のある豆を布の端へ置いた。
「これは、まだ決めない」
「はい」
イルマさんが答える。
「バルトさんかニルスさんに見せる分で置きます」
「そう。食べる袋にも、種の袋にも入れない」
布の端に、一粒だけ豆が残った。
皿の奥の豆とも、手前の豆とも離れている。種候補の小さな布袋にも入らず、食べる方の木皿にも戻らない。黒い点を上に向けたまま、その一粒だけが、作業台の端で待たされていた。
食べる豆でもなく、種にする豆でもなく、捨てる豆ともまだ言われていない。ただ、誰かに見せるための豆だった。
私は、その一粒を見ながら、少しだけ息を吸った。
黒い点があるから捨てる。良さそうだから残す。欠けているから食べる。そんなふうに、すぐ決めていいわけではないらしい。
もし私が、黒い点があるからといって先に捨てていたら。
そう思って、袖をつまむ指に力が入った。
床へ放った豆が、乾いた音を立てるところを想像してしまった。かつん、と一度だけ鳴って、どこかへ転がる。拾えるかもしれない。でも、その豆がどの皿から来たのか、どの袋の口に近かったのか、黒い点がどちらを向いていたのかは、もう戻らない。
捨てた豆は、もう誰にも見せられない。
それは、ちょっと怖かった。
黒い点のある豆は、作業台の端で黙っていた。小さすぎて、目を離せばすぐにほかの豆へ紛れそうなのに、黒い点を上に向けられた途端、そこだけ妙に目立つ。捨てるでも、食べるでも、残すでもない。誰かがもう一度見るために、そこへ置かれている。
マリナさんは、皿の奥へ寄せた豆を小さな布袋へ移した。全部ではない。ほんの数粒。布袋の口はまだ閉じない。種に残す候補、と言われた豆たちは、袋の中で軽く当たって、小さな音を立てた。
食べる方の豆は、木皿の手前に残っている。
欠けた豆もある。少し小さい豆もある。でも、食べられないわけではないらしい。今夜か、明日か、どこかの汁へ入るのかもしれない。黒パンの横で、湯気を立てるのかもしれない。
種に残す方の豆は、今日の鍋には入らない。
でも、食べない豆ではない。
土に戻って、葉を出して、また誰かの器へ戻ってくるかもしれない豆だった。
布の端には、黒い点のある豆が一粒だけ残っている。
それはまだ、どこへも行かない。
でも、どこへも行かないことにも意味があるらしい。
私は、その一粒と、木皿に残った豆を交互に見た。
木皿の上には、食べる方へ寄せられた豆がまだ残っていた。皿の底で、少なくなった豆が小さく転がる。
次に動く一粒を、私はさっきより少しだけ近いものとして見ていた。
イルマさんの指が、帳面の次の行へ移った。




