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第6話 中編 残す豆、数える手 ② イルマの帳面

第6話 中編 残す豆、数える手


① 畑から戻る札


② イルマの帳面


③ 豆の選別


④ 数を見たあと


【アユミ視点/異世界生活三日目・朝〜昼前】


② イルマの帳面


 顔だけがこちらを向いた。


 目はマリナさんの手元へ移る。けれど、帳面の上に置かれた指だけは、細い線の上を押さえたままだった。話を聞くために顔は動く。でも、今見ていた場所は逃がさない。そんな手つきだった。


 整った顔立ちの人だった。けれど、そこへ長く目を置く余裕はなかった。


 爪は短く切られていて、指先には豆の粉か、袋の繊維なのか、薄い白っぽいものが少しついていた。袖は肘の少し下まで上げられ、布が邪魔にならないように紐で軽く留められている。髪も後ろでまとめられていて、飾るためというより、手元へ落ちないようにするための結び方だった。


 帳面の前にいる人。


 まず、そう見えた。


「豆畑ですね。見る札と、種に残す札は分けてありますか」


 イルマさんは、マリナさんの手にある札を見て言った。


 声は柔らかい。けれど、ふわっとはしていない。共同炉の湯気の中で聞く声ではなく、木札と帳面の前で、少し細く整えられた声だった。


「ああ、分けてあるよ。こっちが見るだけ。こっちは種に残す方。ニルスの籠にも、まだ分けてある」


 マリナさんが答える。


 イルマさんはすぐには札を受け取らなかった。


 帳面を押さえた指をそのままにして、もう片方の手だけを布の上へ動かす。作業台の端に広げられた布は、少し豆の粉の色を含んでいた。白い布ではない。何度も使われ、払われ、それでも細かな粉が繊維の間に残っている布だった。そこへイルマさんは、まず何も置かないまま、手のひらで軽く一度だけ布の表面をならした。


「先に置きます。書くのは、そのあとです」


 言い終える前から、イルマさんの手は布の上に戻っていた。


 帳面へ向かうのは、まだ先らしい。イルマさんはマリナさんの手から札を一枚ずつ受け取り、布の上へ置いた。見るだけの札は左側へ。種に残す札は、少し間を空けて右側へ。土のついた札は、他の札に触れないように、布の端へ寄せる。


 置く。


 分ける。


 向きを揃える。


 そのあとで、やっと帳面の行へ目を戻す。


 私は思わず、帳面の方へ少し身を寄せかけた。


「近い」


 トルヴァンさんの声が横から落ちた。


「あ、はい」


 私は一歩だけ戻った。


 危ない。また、体だけが先に行きかけていた。


 見たいものがあると、私はすぐ寄る。畑の土でも、木札でも、帳面でも同じらしい。なんも分からないまま手を出したら、絶対わやになる。今の私は、意味は読めても、置いていい場所も、触っていい順番も知らない。


 私は両手を前で重ね直した。


 イルマさんは、こちらを責めるでもなく、ただ布の上の札を見ていた。トルヴァンさんの一言も、作業台の上では余計な波にならない。みんな、そういう距離に慣れているのだと思う。


 ニルスさんが、小さな籠を作業台の近くへ置いた。


 籠の底に敷かれた布が、少しだけ沈む。中の札は、歩いている間も崩れていなかった。ニルスさんは膝を少し曲げ、籠の中身をイルマさんへ見せる。


「見るだけが二つ。種に残す方が一つ。奥の三列だ」


「奥の三列」


 イルマさんは、帳面の行を押さえたまま繰り返す。


「端の方だ。中より少し乾きが早い」


 ニルスさんはそう言いながら、籠の縁を親指で押さえ直した。畑で見た場所を、帳面の前に置ける形へ直しているようだった。


 イルマさんは札を見た。


「端なら、これは見るだけですね。種に残す方は、こっち」


 夫婦の会話というより、畑側から帳面側へ渡す声だった。ニルスさんの目は籠の中を見ていて、イルマさんの指は帳面の行を押さえたまま動かない。


「土のついた札は、あとで拭きます。今は混ぜないでください」


「分かってる。ここで混ぜたら、俺がもう一度畑へ戻る」


「分かっているなら、籠を傾けないで」


 ニルスさんが、少しだけ籠の角度を直した。


 そのやり取りで、二人が同じ家の中で何度もこんな声を交わしてきたのだと分かった。


 けれど、作業台の上では、その近さも手順を飛ばす理由にはならないらしい。ニルスさんは言い返さず、イルマさんに言われた角度へ籠を直した。


 イルマさんの指が、札の紐へ触れた。


 紐の色を見る。木札の刻みを見る。布の上で、札同士の間を少し空ける。札を重ねない。紐を絡ませない。見るだけの札と、種に残す札を同じ列に置かない。


 たったそれだけに見える。


 でも、見ていると、たったそれだけではなかった。


 一つ置くたびに、イルマさんの目が帳面と札を往復する。帳面の行を押さえていた指は、まだそこを離れない。もう片方の手だけで札を分けている。私は両手が空いているのに何もできないのに、イルマさんは片手で、私よりずっと迷わず札を動かしている。


 帳面の紙の端は、何度も開かれて少し丸まっていた。


 紙そのものは、私が元の世界で使っていたノートほどなめらかではない。繊維の粗さが残っていて、行の線も少し太さが揺れている。けれど、何度も指で押さえられた場所だけ、紙がわずかに柔らかくなっているように見えた。


 豆畑。見る札。種に残す。奥の列。朝の確認。


 文字の意味は、頭に入ってくる。


 けれど、イルマさんの指が押さえているその線を、私の手で同じように書ける気はしなかった。


 それだけじゃない。


 どの札をどの布へ置いて、どの行を押さえたまま、いつ書くのか。その順番も、私にはまだ分からない。帳面を読めても、布の上の札は動かせない。昨日から何度も思っているのに、帳面の前へ来ると、それがまた別の形で戻ってくる。


 帳面の行、見るだけでちょっこし目が迷う。


 私は、目だけで追うのを少しやめた。


 代わりに、イルマさんの手を見る。


 札が布の上へ置かれる。木片が、こつ、と小さな音を立てる。紐が布に触れる。豆の粉の匂いが、ふっと上がる。倉の奥からは、乾いた袋と古い木の匂いが流れてくる。畑の風とは違う。ここでは風ではなく、人の手がものを動かしている。


 札、紐、帳面、袋。


 見るだけの札。種に残す札。土のついた札。あとで戻るかもしれない札。


 口では絶対に言えないけれど、なまら地味だ。


 豆の話なのに、頭の中まで豆腐になりそうだった。


 いや、今のはなし。ここでそんなことを考えている場合じゃない。


 私は、棚の整理は嫌いではない。ノートも分類するし、ラベルを貼るのもわりと好きだった。でもそれは、自分の机の中だからだ。最終的に「あとでどうにかする箱」へ押し込むという、非常に現代高校生らしい奥義も使えた。ここでは、それができない。あとでどうにかする箱に入れた瞬間、たぶん豆も札も人も迷子になる。


 そう思ったところで、マリナさんが袋の方ではなく、まだ布の上の札を見たまま言った。


「地味だろう?」


 私は、一瞬固まった。


 声に出していない。


 出していないはずだ。


「え」


「袖をつまむ指に出てるよ」


 マリナさんは少しだけ笑った。責める笑いではなかった。どちらかというと、そうだろうね、と先に知っている人の笑いだった。


「地味なんだよ、こういうのは。札を置く。紐を見る。袋を開ける前に、また札を見る。面白いことなんか、ほとんどない。でも、ここで混ぜると、あとで畑まで戻ることになる。袋を開けてから違うってなったら、豆を戻して、札も戻して、畑も見直しだ。地味なところで混ぜると、あとが派手に面倒になるんだよ」


 マリナさんが話している間にも、布の上は少しずつ変わっていった。


 見るだけの札は左へ、種に残す札は右へ。土のついた札は、ほかの札に触れない場所へ寄せられる。帳面の行へイルマさんの指が戻る。私は、言葉を聞きながら、その動きを追っていた。


 地味なところで混ぜると、あとが派手に面倒になる。


 それは格好いい言葉というより、たぶん何度も面倒な目に遭った人の言葉だった。


 豆を戻す。


 札を戻す。


 畑を見直す。


 それが面倒だと分かっているから、今ここで地味に分ける。


 そう思うと、布の上の三枚の木札が、さっきより少しだけ違って見えた。左の札。右の札。端の札。全部同じ木片に見えるのに、置かれる場所が違うだけで、もう同じではない。もし私が何も知らずに一枚動かしたら、きっと元に戻せない。札の意味は読めても、置き場所の意味までは、まだ手で覚えていない。


 なんも、触らないのが一番だ。


 そう思った時、共同炉の方から子どもの声がもう一度聞こえた。


 イルマさんの耳が、ほんの少しだけそちらへ向いた。


 けれど、帳面の行を押さえた指は動かなかった。さっき聞いた七人という数に、声がついた気がした。あの声が一つでは済まない家で、イルマさんの指は帳面の行から動かない。


 イルマさんが、ニルスさんへ目を向けた。


「奥の三列、昨日より乾きが早いんだよね」


「うん。端の方だけ。中はまだ軽い」


「バルトさんは?」


「もう少し見るって」


「じゃあ、これは朝の分だけで置きます。昼前にもう一度見るなら、札は戻さずにここで受けます」


「分かった」


 ニルスさんが頷く。


 夫婦の会話なのに、そこには家の中の柔らかさより、畑と帳面の間で交わす短い確認があった。けれど、冷たいわけではない。ニルスさんの「分かった」は、イルマさんの手順を信じている声に聞こえた。イルマさんの方も、ニルスさんの畑の言葉を疑っているのではなく、帳面へ置くために必要な形へ直しているだけなのだと思う。


 マリナさんは、そのやり取りを遮らなかった。


 手元の札を見ながら、必要な時だけ言葉を足す。


「種に残す方は、まだ袋へは動かさないよ」


「はい」


 イルマさんがすぐに答える。


「見るだけの札は?」


「帳面へ仮で置きます。あとで戻るなら、決めた行にはまだ入れません」


 決めた行には、まだ入れない。


 その言い方に、私は少し引っかかった。


 書くか、書かないかだけではないのだろうか。


 イルマさんの指が、帳面の行の端へ移った。決まった分を入れる場所より、ほんの少し外れたところ。細い余白のような場所に、爪の先で位置を確かめる。


 ここへ置くけれど、まだ奥までは入れない。


 そんな場所が、帳面の上にもあるらしい。


 仮で置く。あとで戻る。見ただけで済ませないけれど、決めきりもしない。帳面の中にも、途中で留めておく場所がある。


 わやだ。


 でも、イルマさんの手元はわやではない。


 布の上の札は三つに分かれ、帳面の行は指で押さえられ、マリナさんの手は豆袋ではなく、まだ札の近くにある。ニルスさんの籠は傾かないように置かれている。私だけが、頭の中で少し散らかっている。


 イルマさんは、帳面へ細い筆記具を近づけた。


 その瞬間、私は息を止めた。


 いよいよ書くのかと思ったからだ。


 でも、イルマさんはすぐには書かなかった。筆記具の先を帳面の上で一度止め、もう一度だけ札を見る。紐の色を見る。マリナさんを見る。ニルスさんを見る。


「奥の三列。見るだけ二つ。種に残す一つ。朝の分」


「そう」


 マリナさんが頷く。


「それでいいよ」


 イルマさんは、そこで初めて帳面へ印を入れた。


 細い音がした。


 紙の上を、筆記具の先が短く走る音。私の知っているペンの音とは違う。もっと乾いていて、紙の繊維を少し撫でるような音だった。長く書き連ねるものではなく、短い印と、少しの文字。意味は頭に入る。でも、やっぱり私には同じように書けない。


 線が、手に残らない。


 それが少し悔しい。


 いや、今は悔しがるところじゃない。


 書けないことより、書く前にどれだけ確認しているかを見るところだ。イルマさんは、ただ文字を書いているのではない。札を置き、紐を見て、畑側の言葉を聞き、マリナさんの確認を受けて、それから書いている。


 もし私がここで「読めます」と言ったところで、何の役にも立たない。


 読めているのに、私の手はまだ作業台の上へ出せない。


 私は、借り靴の中で足の指を軽く動かした。


 布が当たる。


 いずい。


 でも、そのいずさが、また私を作業台の前へ戻してくれる。勝手に落ち込んでいる場合ではない。見る。聞く。触る前に止まる。今日は何度もそこへ戻っている。


 イルマさんは、帳面に小さな印を入れ終えると、筆記具を置いた。


 次に、布の上の札を一枚だけ持ち上げる。


「これは、ここへ置きます」


 作業台の端に、小さな重しのような石があった。丸く削られているわけではないが、手になじむ形の石だ。その横に、見るだけの札を置く。石のそばには、すでに別の小さな木札が二枚置かれていた。


 布の上とは少し離れている。いま決めた札とは、混ぜない場所なのだろう。


「まだ戻るかもしれない札は、こちらです。決めた札と混ぜません」


 マリナさんが頷く。


「そうだね」


 イルマさんは、種に残す札を別の布の端へ置いた。


「これは袋を見る時に一緒に出します」


 袋。


 その言葉で、マリナさんの目が作業台の横へ動いた。


 そこには、いくつかの布袋が並んでいた。大きさは少しずつ違う。口紐が固く結ばれているものもあれば、すぐ開けられるように緩く結ばれているものもある。袋の表面には、豆の粉が薄くついていた。触っていないのに、乾いた粉っぽい匂いが鼻へ上がってくる。畑の青い匂いとは違う。こちらは、干されて、しまわれて、何度も袋の中で動いた豆の匂いだった。


 マリナさんは、すぐ袋を開けなかった。


 まず、イルマさんが置いた札を見た。次に、袋の口紐を見る。袋についている古い木札を指で押さえ、そこに刻まれた印を確かめる。口紐へ指をかけたのに、まだほどかない。その動きが、私には少し不思議だった。


「袋を見るって言っても、いきなり開けるわけじゃないよ」


 マリナさんが、私の方を見た。


 たぶん、私の視線が袋の口に吸われていたのだと思う。


「先に札を見る。どの畑の豆か、食べる方へ回すのか、種に残すのか、そこを間違えたら、中身を見ても迷うだけだからね。袋の口をほどくのは、そのあとだよ。中を見れば分かるものもあるけど、中を見る前に分けておくものもある」


 マリナさんはそう言いながら、口紐をほどく代わりに、袋の上に挟まれていた古い札を少しだけ持ち上げた。古い札と、いまイルマさんが置いた札を並べる。木の色が少し違う。古い方は手の脂で角が丸くなり、新しい方は畑の土が端に残っている。二枚の札が並ぶと、畑から来たばかりのものと、倉で待っていたものが同じ台の上に乗った。


 私は、そこでようやく少し息を吐いた。


 帳面で終わらない。


 でも、袋を開ければ終わるわけでもない。


 札を見る。袋を見る。口紐を見る。まだ開けない。ひとつずつ、待つ場所がある。


 急いだら、たぶん混ざる。


 急がなくても、見落としたら迷う。


 なまら細かい。


 でも、その細かさがなければ、さっきニルスさんが言っていた「種に残す方」と「見るだけ」が、一緒の袋へ転がってしまうのかもしれない。


 イルマさんは帳面の行を指で押さえ、マリナさんは袋の口紐に指をかけ、ニルスさんは空になりかけた籠を少し脇へ寄せていた。トルヴァンさんは、私の横で何も言わない。けれど、私がまた袋へ近づきすぎない位置に、さりげなく立っている。


 私は、その全部を見ていた。


 見ているだけなのに、目が忙しい。


「アユミ」


 イルマさんが、帳面の行から指を離さないまま私を呼んだ。


「はい」


「見てもいいです。でも、札はまだ触らないでください」


「はい。触りません」


 即答した声が、少し強くなった。


 今の私は、本当に触らない方がいい。帳面の意味は読めても、札の置き場所は分からない。布のどちら側へ置くか、どの札を重しの横に置くか、どの札を袋と一緒に出すか。どれも、私の手にはまだ入っていない。


 イルマさんは、帳面の行を押さえたまま小さく頷いた。


「見るなら、手を置く場所だけ決めておいてください」


 手を置く場所。


 私は自分の両手を見た。


 前で重ねている。少し力が入っている。指先が気づかないうちに袖をつまんでいた。これでいい。今の私の手は、袖をつまんでいるくらいでちょうどいい。


「ここに置いておきます」


 そう言うと、イルマさんの指が帳面の行を押さえたまま、ほんの少しだけ緩んだ。


 マリナさんが、作業台の横に置かれていた豆袋へ視線を戻した。


「じゃあ、札はそれで受けたね」


「はい」


 イルマさんは帳面の行をもう一度見て、布の上の札を確認した。


「札は合っています」


 マリナさんの指が、豆袋の口紐にかかった。

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