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第6話 中編 残す豆、数える手 ① 畑から戻る札

第6話 中編 残す豆、数える手


① 畑から戻る札


② イルマの帳面


③ 豆の選別


④ 数を見たあと


【アユミ視点/異世界生活三日目・朝〜昼前】


① 畑から戻る札


 マリナさんの手の中で、木札が小さく鳴った。


 さっきまで豆畑の端で風に揺れていた札だ。薄い木片に細い紐が通されていて、端には少し土の色がついている。杭に掛かっていた時は、葉の下を抜ける風に合わせて軽く揺れていた。けれど、マリナさんの指の間に挟まれると、その動きがぴたりと止まる。


 かち、と乾いた音がした。


 その音で、豆畑の前にいた時間が終わった気がした。


 豆の葉の間を抜ける風。土の上を細く動く影。ニルスさんの持っていた小さな籠。バルトさんの短い「軽い」という言葉。全部がまだ目の前に残っているのに、札だけはもう、次の場所へ行く準備をしている。


 私は靴底を少し動かした。


 芋畑の土がまだついている。豆畑の道を歩いたせいか、さっきより少し乾いてきた。足を踏み替えると、靴底の下で細かな粒がかすかに擦れた。土は勝手についてきたものなのに、いざ気づくと妙に気になる。


 畑を離れても、畑のものが少しだけ足元に残っている。


 そんな感じだった。


「戻す」


 バルトさんが言った。


 やっぱり短い。


 でも、今のは少し分かる。少なくとも、木札のことだろうと思えた。豆畑の前で見たものを、ここに置きっぱなしにはしない。札を持って戻す。たぶん、そのための「戻す」だ。


 ニルスさんが頷いた。


「奥の種に残す方と、見るだけの札は分けてある。こっちは崩さず持っていくよ」


 そう言って、足元の小さな籠を持ち上げる。籠の底には布が敷かれていて、その上に木札が数枚、重ならないように置かれていた。さっきマリナさんが受け取った札とは、紐の色が少し違う。意味は頭に入る。見る場所。種に残す場所。後で確かめる場所。けれど、やっぱり線の形は手に残らない。


 読めるのに、書けない。


 そのいずさはまだある。


 でも、今は文字そのものより、札の置かれ方の方が気になった。ニルスさんは、札をただ籠へ放り込んでいるわけではない。紐が絡まないように、木片の角が欠けないように、布の上へ向きを少しずつ変えて置いている。


 ニルスさんはその場で、一度だけ籠の中を見直した。


 指先で木札の端を軽く押さえ、紐の色を確かめ、土のついた札を布の端へ寄せる。湿った土がほかの札へつかないようにしているのかもしれない。小さな動きなのに、手順がある。札をしまうだけでも、しまい方がある。


 札一枚なのに、なまら丁寧だ。


 そう思ってから、すぐに言葉を飲み込む。


 札一枚、ではないのだろう。そこには、どの列を後で見るのか、どの豆を残す候補にするのか、誰がまた畑へ戻るのかが乗っている。木片は軽いのに、持っているものは軽くない。


 マリナさんは、手の中の札を見てから、豆畑へ一度だけ目を戻した。


「この分は、私が持っていくよ。ニルス、籠の方は崩さないで持っておいで」


「ああ」


「紐を混ぜないようにね」


「分かってる。こっちまで混ぜたら、畑まで戻る足が増えるからね」


 ニルスさんはそう答えたあと、少しだけバルトさんを見た。確認するような目だった。バルトさんは豆畑の奥へ視線を向けている。返事をするでもなく、頷くでもない。ただ、もう一度だけ葉の間を見た。


「俺は、もう少し見る」


「分かったよ」


 マリナさんは、それだけで受け取った。


 バルトさんはその場に残るらしい。前に芋畑を見た時もそうだったけれど、バルトさんは、人と一緒に移動するより、畑の中に残ったものを見る方が自然に見える。豆の葉の間へ目を戻した横顔の方が、こちらを向いている時より落ち着いていた。


 トルヴァンさんも、特に何も言わなかった。


 兄弟だから通じるのかもしれない。あるいは、畑ではバルトさんの残り方が普通なのかもしれない。私はまだ、その普通が分からない。


 マリナさんが、私の方を見た。


「アユミ、戻るよ。足元、気をつけて」


「はい」


 私は頷いて、来た道へ向き直った。


 豆畑の風は背中側へ回る。さっきまで前から来ていた青い匂いが、今度は服の後ろを少し押すように流れた。芋畑の葉の重い匂いと、豆畑の軽い匂いと、靴底についてきた土の匂いが混じっている。どちらがどちらか、もうはっきり分けられるわけではない。


 それでも、来る時とは違う。


 手ぶらではない。


 私が持っているわけではないけれど、マリナさんの手には札がある。ニルスさんの籠にも札がある。畑で見たものが、木片になって一緒に戻っている。そう思うと、歩く道まで少し違って見えた。


 トルヴァンさんは、私の少し後ろ側へ位置を変えた。


 前を歩くのはマリナさんとニルスさん。二人の手には札と籠がある。トルヴァンさんは、私がそれを目で追いすぎて足元を忘れないようにしているのか、道の端をちらりと見る。


「足元」


「あ、はい」


 短い。


 でも、今の私には十分だった。


 木札ばかり見ていて、道のへこみを踏みかけていた。畑の端から戻る道は、村の真ん中の道ほど踏み固められていない。小さな石があり、草の根があり、車輪の跡の縁が少しだけ崩れている。札は逃げない。足は、今ここで出さなければいけない。


 私は靴の中で足を踏み直した。


 布が指の付け根へ少し当たる。痛くはない。けれど、気になる。いずい。そのいずさが、また足元へ戻してくれる。


 マリナさんは歩きながら、手の中の札を一度だけ揃えた。


 木片同士が触れて、かち、と鳴る。


 それを聞いて、私はまた見そうになった。けれど、今度は先に足元を見る。土のへこみを越え、草の端を踏まないようにしてから、マリナさんの手へ視線を戻した。


「その札は、全部一緒に持っていくんですか」


 聞くと、マリナさんは歩調を変えずに答えた。


「一緒には持つけど、一緒には扱わないよ。見るだけの札と、種に残す方の札は違う。畑で混ぜたら、戻ってから余計に分からなくなる。札は軽いけど、間違えた時に戻る足は軽くないからね」


 マリナさんは、指の間の札を少しだけ開いて見せた。


 紐の色が違う。木の表面に刻まれた線も違う。意味は分かる。けれど、私にはぱっと見ただけで扱いの違いを判断できるほどではない。何度も見れば覚えるのだろうか。いや、覚えたとしても、実際に使えるかは別だ。昨日からずっと、私はそういうものばかり見ている。


 意味は頭に入る。


 でも、どの札をどの布の上へ置くのかまでは、まだ入ってこない。


「見ただけで済むなら、札はいらないんだよ」


 マリナさんが言った。


「あとで別の人が見るから、札がいる。自分だけ覚えているなら簡単でも、人に渡すなら印がいる」


 その声は、教えるために大きくしているわけではなかった。歩きながら、指の中の木札を揃えながら、当たり前のことを言っている。だからこそ、少し重かった。


 自分だけ覚えているなら簡単。


 人に渡すなら印がいる。


 私は、昨日の紙を思い出した。自分だけなら、日本語でメモをしてもよかったのかもしれない。数字や矢印なら、私だけには意味が残る。でも、それを村の人に渡すことはできない。読めることと、渡せることは違う。


 豆畑の札も、たぶん同じだ。


 マリナさんやニルスさんが覚えているだけなら、札はいらないのかもしれない。でも、あとで別の人が見る。倉の前で見る。帳面を見る人が見る。袋を分ける人が見る。そうなると、木片に印を残す必要がある。


 なんも、札ってただの札じゃないんだな。


 そう思ったけれど、声には出さなかった。


 ニルスさんは、籠を両手で持っていた。大きな籠ではない。けれど、札がずれないように少し腕を固めている。豆畑にいた時より、指先の力の入れ方が変わっていた。


「ニルスさん、その籠、重いですか」


 何となく聞くと、ニルスさんは籠の縁を親指で押さえた。


「重くはないよ。けど、落としたら面倒なんだ。紐が混じるし、どの札がどの列だったか、もう一回畑へ戻って確かめることになる。軽いからって、雑には持てない」


 面倒。


 その言い方が、妙に実感があった。軽いからこそ雑に持てそうなのに、ニルスさんの手は逆だった。籠の底の布がずれないように、親指と手のひらで縁を支えている。


「それは……確かに大変ですね」


「子どもが触った時も大変だった。まあ、あれは俺の置き場所が甘かったんだけど」


「お子さん、いるんですか」


 聞いてから、少しだけ慌てた。


 失礼だっただろうか。こっちの世界では、年齢や家族のことをどこまで聞いていいのか、まだよく分かっていない。日本でも相手によっては気をつける話題だ。けれど、ニルスさんは特に気にした様子もなかった。


「いるよ。七人。上が七つで、下が一つだ。みんな手が早い。木札も豆も紐も、面白そうに見えたらすぐ触る。ひとりが見つけたら、下の子も寄ってくるからね」


「なな……」


 七人。


 私は、言葉を途中で止めた。


 頭の中で、数字だけが先に並ぶ。七、六、五、四、三、二、一。まだ年齢を聞いたわけでもないのに、勝手に階段みたいな数字が立ち上がる。靴底の土が擦れる音も、ニルスさんの籠で揺れた木札の音も、一瞬だけ遠くなった。


 ニルスさんは、どう見ても若い。


 若いと言っても子どもではない。豆畑での声も、札を持つ手も、ちゃんと働く大人のものだった。整った顔立ちのせいで、なおさら父親というより、まだ若手の実務担当に見える。そのニルスさんに、七人。


 え、その歳で。


 いや、この村では十五で大人。


 頭では分かっている。何度も聞いた。分かっているはずなのに、身体の方が追いつかない。


 七、六、五、四、三、二、一。


 今度は年齢つきで数字が階段みたいに並んだ。私の知っている二十二歳は、大学生だったり、働き始めたばかりだったり、まだ自分の生活を組み立てている途中の人という感じが強い。そこへ、七歳から一歳までの子どもが並ぶ。


 情報量がわや。


 口の中で何かが出かけたけれど、私は飲み込んだ。驚いた勢いで変な声を出すところじゃない。ここではそれが、ニルスさんにとって普通の話なのだ。普通の話として、籠の中の札が崩れないように持っている。


 私は足を踏み直した。


 止まるところじゃない。道の途中だ。足元。トルヴァンさんに言われる前に、自分で戻す。


「七歳から、一歳まで……ですか」


「そう。だから、手の届くものは全部見られると思った方がいい。前に一度、見るだけの札と種に残す札を混ぜられたことがある。俺が置き場所を甘く見たんだ。イルマには、まあ、しっかり怒られたよ」


 怒られた、という言葉なのに、ニルスさんは子どもっぽく肩を縮めたりはしなかった。籠の中の札を親指で押さえたまま、自分の失敗をそのまま持っている声だった。


「イルマさん……奥さんですか」


「そう。二十二だ」


 イルマさん。


 さっきマリナさんが、帳面を見る人として名前を出した人。これから会うはずの人。


 その人が、ニルスさんの妻なんね。


 二十二歳。


 子ども七人。


 その七人の家で、帳面を見るのがイルマさん。


 まだ会っていない人の名前が、さっきより少し重くなった。子ども七人分の声と手と足がある家で、数を落とさない人。そう聞くと、帳面という言葉まで、ただの紙ではなくなる。


 ニルスさんの籠の中で、木札の紐が小さく揺れた。


 私は、その紐を七人の小さな手が触ったところを想像してしまう。イルマさんは、それを戻す人なのだ。


「イルマさんが、帳面を見るんですね」


「俺は畑なら見る。けど、帳面はイルマの方が早い。あの人は、子どもが横で騒いでいても、どの札がどこへ行ったか落とさないんだ」


 そこに、恥ずかしそうな響きはなかった。


 ただ、自分が見る場所と、イルマさんが見る場所を分けているだけに聞こえた。ニルスさんは豆畑を見る。イルマさんは帳面を見る。マリナさんは、その間をつなぐ。誰が偉いとかではなく、どこを見ているかが違う。


 マリナさんが小さく笑った。


「そりゃ怒られるよ。小さい手は、豆も札も同じに見えるからね」


「うん。こっちが置き場所を決めていないと、すぐ持っていかれる」


「子どもに限らないよ。大人でも、置き場所が決まっていないと混ぜる」


 マリナさんはそう言って、手の中の札をもう一度揃えた。


 その言葉は、子どもの話から出たのに、そこで終わらなかった。


 置き場所が決まっていないと混ざる。


 豆も、札も、人の手も。


 私は、共同炉の籠を思い出した。空の籠、戻す籠、布を入れるところ、まだ触らない袋。あれも、置き場所が決まっているから動いていたのだろう。畑の札も同じだ。決まっていないものは、混ざる。混ざると、誰かが探す。


 ニルスさんの籠の中で、木札の紐がまた少し揺れた。


 ニルスさんは、それを親指で軽く押さえる。


 たったそれだけなのに、さっき聞いた子どもの小さな手まで一緒に見えた気がした。七歳、六歳、五歳、四歳、三歳、二歳、一歳。札を触りたがる手。豆をつかむ手。怒るイルマさん。困って札を拾い直すニルスさん。


 帳面に書かれる前の数が、ニルスさんの家では走り回っている。


 そう思うと、木札の細い紐まで少し違って見えた。


 村の中って、数えるものがあちこちにあるんね。


 いや、変な言い方かもしれない。


 でも、畑の列にも、木札にも、豆袋にも、家の中の小さな手にも、数がついて回る。数という言葉だけなら、紙の上に並んでいる時の方がずっと軽い。ここでは全部、誰かの手で動くんね。


 そう思って、私は少しだけ息を吸い直した。


 私はまだ、この村では完全に子どもでも大人でもない。外から来た、預けられている人間だ。だからこそ、余計なことを決めつけない方がいい。驚いてもいい。でも、勝手に分かったことにしない。


 前に、バルトさんとマリナさんの目の置き場所が違ったことを思い出す。


 土を見る人。


 札を見る人。


 帳面を見る人。


 そして、私はまだ、そのどれもちゃんと見られない。


 なんも、焦らなくていい。


 そう自分に言い聞かせたけれど、少しだけ焦る。見たいものが増えるほど、自分が見られないものも増えていく。これ、どう考えても終わりがない。異世界、情報量が多すぎる。


 村の方へ近づくにつれて、音が変わってきた。


 畑の葉がこすれる音が少し後ろへ遠ざかり、代わりに人の声が混じる。井戸の方で桶が鳴る音。共同炉の方から、誰かが短く笑う声。木の何かを置く音。鶏の羽音は遠いけれど、完全には消えない。


 共同炉の方から、子どもの声が一度だけ上がった。


「だめだよ、そこ!」


 誰に向かって言ったのかは、考えなくてもだいたい分かった。


 アーミヤたん。


 アンタ、今度は何をしてるんね。


 思わずそちらへ目を向けそうになったけれど、私はなんとか前を見た。今そちらへ気を取られたら、絶対に足元がおろそかになる。しかも、共同炉には人がいる。シアもいる。年配の女性もいる。トルヴァンさんも行かせておけと言った。


 アーミヤは共同炉。


 私は札。


 今はそれでいい。


 たぶん。


 マリナさんは、共同炉の声にも大きく反応しなかった。ちらりと目をやっただけで、すぐ手元の札へ戻る。どの札をどの順で渡すか、頭の中で確かめているようだった。


 やがて、倉の近くが見えてきた。


 広場の端、井戸から少し離れた場所に、低い作業台が置かれている。昨日も見たはずなのに、今日は違って見えた。台の上には、いくつかの木札と、小さな布袋、紐の束が並んでいる。倉の扉は開け放たれていない。けれど、入口の近くには人が出入りできる分だけ空けられていて、奥から少しひんやりした匂いが流れてくる。


 土の匂いとは違った。乾いた袋の匂い、木の匂い、少し古い豆や穀物の匂いが、倉の入口の方からゆっくり流れてくる。朝の火から離れた場所の、落ち着いた冷たさも混じっていた。


 私は、思わず息を吸った。


 畑の風とは違う。ここには葉の音がない。代わりに、袋が擦れる音と、木札が置かれる音がある。


 作業台の近くでは、若い男性が袋を一つ持ち上げて、別の台へ移していた。袋の口は結ばれていて、上に木札が一枚挟まっている。彼はその札を落とさないように指で押さえ、台に置いてから、もう一度札の向きを直した。


 ただ運ぶだけではないらしい。


 置く時にも、向きがある。


 その向きが違うと、あとで誰かが迷うのだろうか。そう考えたところで、私はまた自分の足元を見た。考えすぎると、すぐ頭だけ先へ行く。今はまだ、倉の前に着いたところだ。


 台の端には、まだ何も載っていない布が一枚広げられていた。


 白ではない。何度も使われて、少し豆の粉の色がついた布だ。端は擦れているけれど、真ん中はきちんと払われている。これから何かを置く場所なのだろう。空いているのに、空っぽではなく、待っているように見えた。


 マリナさんは、その布の前で足を止めた。


「ここで受けるよ」


 その一言で、ニルスさんが籠を少し持ち直す。私は反射的に手を出しそうになって、すぐに止めた。


 危ない。


 今の私は何も分かっていない。木札の置き方も、紐の色の意味も、どの布に置いていいかも分からない。見たいと思うと、手が勝手に出ようとする。さっきから何度もやっているのに、またやりかけた。


 私は両手を前で重ね直した。


 トルヴァンさんが何も言わず、私の横に立つ。


 その沈黙が、少しありがたかった。止められる前に止まれた。今はそれだけでいい。


 作業台の前に、若い女性が一人立っていた。


 背は私より少し高いくらいだろうか。髪は作業の邪魔にならないようにまとめられていて、袖もきちんと上げられている。顔立ちはかなり整っている。けれど、私の目はそこへ長く留まらなかった。


 片手で帳面の端を押さえ、もう片方の手で、並んだ木札の向きを揃えていたからだ。


 その指の動きが、早すぎない。


 一枚ずつ、角を合わせる。紐を避ける。札同士が重なりすぎないように、少しだけ間を空ける。木札を触っているのに、豆の袋を動かす前から、もう何かを数えているような手つきだった。


 帳面は、私が昨日見た紙より厚そうだった。


 紙の端が少し丸まり、何度も開かれた跡がある。表面には細かな線が並び、ところどころに短い印がついている。意味は頭に入る。でも、やっぱり線そのものは手に残らない。帳面の行が、目で追うには細かすぎて、少し緊張した。


 この人が、イルマさん。


 さっきニルスさんが言っていた妻で、二十二歳で、七人の子どもの母。


 その情報が頭に並ぶ前に、目の前の指は木札の向きを直していた。


 二十二歳。


 さっき聞いた数字が頭の中でまた立ち上がりかけたけれど、目の前の指はその間にも木札を一枚動かしていた。


 若い。


 そう思うより先に、手が正確だった。


 マリナさんが、手の中の札を少し持ち上げた。


「イルマ、豆畑の札だよ」


 若い女性が顔を上げた。


 けれど、その指は帳面の行から離れなかった。

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