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第6話 前編 リョースとセイズ、畑へ向かう朝 ④ ニルスと豆畑の風

第6話 前編 リョースとセイズ、畑へ向かう朝


① 月の名前


② バルトの畑へ


③ 土を見る手


④ ニルスと豆畑の風


【アユミ視点/異世界生活三日目・朝】


④ ニルスと豆畑の風


 ニルスさんは、こちらへ歩いてくる前に、自分の足元を一度見た。


 それから、豆畑の端に置いていた小さな籠を少しだけ横へ寄せる。道を空けるためらしい。木札を持った手は下ろしたままで、急いでいる感じはない。けれど、ぼんやり待っていたわけでもなかった。私たちが芋畑の端でバルトさんの手元を見ている間から、こちらの動きは見えていたのだと思う。


 豆畑の風が、ニルスさんの膝のあたりを抜けた。


 芋畑の風とは違う。


 さっきまで見ていた芋畑は、葉が土の上へ広くかぶさっていた。風が吹いても、揺れるのは葉の表面で、その下の土は隠れたままだった。バルトさんが棒で少し起こさなければ、畝の肩も内側の湿りも見えない。


 けれど、豆畑はもう少し透けている。


 細い茎が立ち、その間に隙間がある。葉は重なっているけれど、土を完全には隠していない。風が低く入り、葉の裏をすり抜け、茎の影を細く動かしていく。畑そのものが、芋畑より軽い音で揺れているようだった。葉のこすれる音も、小さい。ざわっというより、ささっと細く走る。


 匂いも違った。


 芋畑は土の湿りと葉の重さが近かった。豆畑は、それより少し青い。草の匂いと、乾きかけた土の匂いが混じっている。朝の風が通るたびに、鼻の奥へ細く残った。靴底についた芋畑の土が、豆畑の道へ来て少し乾き始めたのか、足を動かすたびに粒のこすれる音も変わる。


 同じ畑なのに、ぜんぜん違う。


 そう思いかけて、すぐに止めた。


 同じ畑、ではないのだろう。たぶん。


 私から見れば、どちらも「畑」だ。けれど、バルトさんたちにとっては、芋畑と豆畑は、見方も手の入れ方も違う場所なのだと思う。共同炉で、黒パンの籠と鍋と保存の袋が別々だったように。


 ここで一緒くたにしたら、またばかばかしいだ。


 私は靴底の土を感じながら、豆畑の端で足を止めた。


 ニルスさんは、バルトさんに軽く頭を下げた。


「こっちは朝の分、見ておいた」


 声は若い。けれど、浮いてはいない。カイルさんのように今すぐ走り出せそうな若さとは少し違う。畑の前で声を張りすぎない人の声だった。大人の側に片足を置きながら、バルトさんやマリナさんの言葉をまだ受け取る側にもいる。そんな立ち位置に見えた。


 バルトさんの返事を待つ間、木札を持つ指だけが少し動く。


 緊張しているのかもしれない。


 でも、怖がっている感じではない。慣れているけれど、流してはいない。バルトさんの短い言葉を聞き漏らさないようにしている手つきだった。


 バルトさんは、豆畑を見た。


「風」


「昨日より通ってる。端の方は少し乾きが早い」


 ニルスさんはそう言って、豆畑の列の一番外側を指した。


 バルトさんの言葉は、やっぱり短い。


 風。


 それだけで何が分かるのか、私には分からない。けれど、ニルスさんはちゃんと受け取っていた。バルトさんの一語に、豆畑の列や葉の下を添えてくれる。余計に飾るのではなく、私にも見える場所を少しだけ増やしてくれる感じだった。


 助かる。


 なまら助かる。


 芋畑で「素直」「急いでる」「下はまだ見えん」を浴びたあとだ。こちらの頭も、少し休みたがっている。


 トルヴァンさんは、少し離れた場所で止まった。今回も口を挟まない。私が畑道を外れない位置にいるかを一度見て、それから黙っている。ここはバルトさんとニルスさんの言葉を聞く場所なのだと、トルヴァンさんの立ち方で分かる。


 マリナさんは、ニルスさんの木札へ目を向けた。


「朝の分って、どこまで見たんだい」


「こっちの三列と、奥の種に残すところ。食べる方へ回す予定の列は、まだ触ってない」


 種に残すところ。


 私はその言葉に反応した。


 豆は食べるものだと思っていた。もちろん、植えるための種も必要だとは分かる。分かるけれど、畑の前で「食べる方へ回す予定の列」と「種に残すところ」が分けて言われると、急に豆が食材だけではなくなった。


 今ある豆を、全部食べるわけではない。


 次へ残す豆がある。


 当たり前なのに、豆畑の風の中で聞くと、その当たり前が少し重くなる。


 マリナさんは、ニルスさんの持つ木札を一枚受け取った。札には細い紐がついていて、色が少し違う。意味は頭に入る。種用。後で残す分。けれど、やっぱり線の形は手に残らない。読める。意味は分かる。でも、同じものを書けと言われたら無理だ。


 昨日の紙と同じ落ち着かなさが、また胸の奥を少しだけ押した。


 けれど、今は札の文字より、札がどこへ行くかを見る。


「これはまだ畑につける札かい」


「奥の列だよ。見た目はいい。でも、全部を食べる方に回したら、後で足りなくなる」


「分かった。あとで私も見るよ」


 マリナさんは札を戻さず、自分の指の間に挟んだ。


 畑で揺れていた木札が、マリナさんの手に入ると、ぴたりと止まる。風の中では軽く揺れていたものが、人の手に渡った瞬間、別の場所へ運ばれる準備を始めたみたいだった。豆畑の風を受けていた札が、これから倉や帳面の方へ行くのかもしれない。


 そう思って、私はまた考えすぎそうになった。


 だめだ。


 まだ畑。


 まだ風。


 私は豆の葉へ視線を戻した。


 ニルスさんが、私の方を見た。


「アユミ、でいいんだよな」


「あ、はい。アユミです」


「俺はニルス。豆の畑を見てる。全部じゃないけど、このあたりはよく来るんだ。」


 言い方は柔らかい。けれど、かしこまりすぎてはいない。私にどう説明すればいいか、少し測っているような間がある。その間が、逆に安心した。最初から完璧な説明をされるより、相手もこちらの分からなさを見てくれている方が、まだ聞きやすい。


 ありがたい。


 言葉が、私の届く長さで返ってきた。


 いや、バルトさんの言葉も届いてはいる。いるんだけど、こちらの理解が追いつく長さという意味で、今のニルスさんの言葉はものすごくありがたい。


「豆畑は、芋畑と見るところが違うんですか」


 私は聞いた。


 言ってから、少しだけ身構える。


 初歩的すぎる質問かもしれない。でも、ここで分かったふりをする方が危ない。さっきバルトさんの手元を見て、私はそれを何度も思った。見えている緑が同じに見えても、下にあるものも、見るところも違う。


 ニルスさんは、バルトさんを一度見た。


 バルトさんは、豆畑の葉を見ている。


「違うよ」


 ニルスさんが答えた。


「芋は土の中を見ることが多い。葉も見るけど、下に何ができるかが大事だから。豆は、葉の下に風が通るか、茎が倒れていないか、あとでさやがつく場所が詰まりすぎていないかを見る」


 さや


 豆が入るところ。


 まだその形は見えない。少なくとも、私には分からない。葉と茎だけに見える。でも、ニルスさんはもう、その先の形まで考えているらしい。


「まだ、豆は見えないですよね」


 私が言うと、ニルスさんの口元がほんの少しだけ緩んだ。


「まだだな。今見えてるのは、後で豆をつけるための準備みたいなものだよ」


 準備。


 その言葉は分かりやすかった。


 黒パンの生地も、焼き上がる前にいくつもの順番があった。紙に書かれる前に、荷や籠や札があった。畑も同じで、食べ物として見える前の時間が長いのだと思った。


 ただ、その言い方をそのまま口にすると、またまとめすぎになる。


 私は代わりに、豆の茎の間を抜ける風を見た。


 葉が少し揺れる。


 その下に、まだ何も見えない場所がある。


 何もないのではなく、これから何かができる場所。


「風が通らないと、だめなんですか」


「だめ、というより、困りやすい。葉が詰まりすぎると、下が湿ったままになる。湿るだけならいい時もあるけど、蒸れると葉が傷むし、虫も見つけにくくなる」


 ニルスさんは、豆畑の中へは入らず、畑の端から一本の列を指した。


「虫」


 つい声が少しだけ上がった。


 ニルスさんの口元が、またほんの少し緩みかけた。


「虫はいるよ。いない畑は、たぶんない」


「ですよね……」


 そうだよね。


 畑だもんね。


 虫がいるよね。


 分かってはいる。北海道の夏にも虫はいる。家の中に出た時、私はだいたい距離を取る係だった。


 つまり、なんもしてない。


 でも、畑では虫もただの「いやなもの」では済まないのだろう。葉を食べる虫。土の中にいる虫。いてもいい虫。困る虫。たぶん、いろいろあるんね。


 ここで聞き始めたら、今日が終わる気がした。


 私は虫の話を深掘りしないことにした。今は豆畑の風。虫は、また別の箱へそっと入れておく。できれば蓋つきで。


 共同炉の方から、子どもの笑い声がかすかに届いた。


 アーミヤたん、今ごろ何食わぬ足取りでごはん営業してるんだろうな。


 そう思うと少し気が抜けそうになって、私は慌てて豆の葉へ視線を戻した。


 今は豆畑。


 足元の土。


 ニルスさんの木札。


 豆の葉の間を抜ける風。


 それを見ないと、また頭だけどこかへ行く。


 バルトさんが、豆畑の一部を指した。


「詰まる」


 ニルスさんはすぐそちらを見た。


「そこは少し詰まってる。昨日より葉が重なった」


「見る」


「印、つける?」


 ニルスさんが木札を一枚持ち上げる。


 マリナさんは、その札の紐の色を確認した。


「見るだけの札なら、それでいいよ。種に残す方と混ぜないで」


「分かってる」


 ニルスさんは、畑の端の細い杭へ札を掛けた。土の中へ直接刺すのではなく、畑の外側に立てられた短い杭へ紐を通す。札が風で揺れた。さっきより音が小さい。木の薄い札が、かすかに、かた、と鳴る。


 見るだけの札。


 種に残す札。


 食べる方へ回す予定の列。


 まだ触らない分。


 豆畑には、豆そのものが見える前から、いくつもの分け方があるらしい。


「札、多いですね」


 思わず言うと、マリナさんが答えた。


「多いよ。でも、札がないと忘れる。忘れたら、あとで探す手間が増える」


「探す手間」


「そう。畑で迷うと、倉でも迷う。倉で迷うと、食べる分も残す分も迷う」


 マリナさんは、そこで言葉を止めた。


 それ以上は言わない。でも、十分だった。


 畑の札は畑だけのものではない。


 昨日、共同炉で見た干し海老の袋や、倉の前の木札と同じだ。ひとつ置く場所を間違えると、あとで誰かが探す。誰かの手が増える。食べるもの、残すもの、回すものがずれる。


 私は、豆畑の端に立つ木札を見た。


 風に揺れている。


 でも、ただ揺れているだけではない。


 どこを後で見るのか。どこを残すのか。何を食べる方へ回さないのか。そういうものを、薄い木片が持っている。


「同じところに、毎年同じものを植えるんですか」


 聞いてから、少しだけしまったと思った。


 急に話が大きい。


 でも、豆と芋と畑の順番が気になってしまった。親戚のおじさんが、同じものばかり植えると土がくたびれる、と言っていた気がする。言葉はそんなにきれいではなかった。もっと、「土が嫌がる」とか、「疲れる」とか、たぶんそんな言い方だったと思う。


 ニルスさんは、バルトさんを見た。


 バルトさんは短く言った。


「疲れる」


 やっぱり。


 土が疲れる。


 現代の言葉なら、もっと別の言い方がある。連作障害とかね。土の成分とか、病気とか、虫とか、そういう話に分けられるのかもしれない。でも、この畑の前では「土が疲れる」の方がずっと分かりやすかった。


 ニルスさんが、少しだけ補った。


「同じものばかり続けると、土が偏る。虫も覚えるし、病も残りやすくなる。だから、畑は順番を見るんだ。芋の後、豆の後、休ませるところ、草を入れるところ。家ごとにも違うし、年によっても変わる」


 説明はそこで止まった。


 たぶん、もっと先がある。詳しく聞けば、土を休ませる方法や、草を入れる意味や、どの畑をいつ使うかの話が出てくるのだろう。でも、今それを全部聞いたら、頭の中が豆畑どころか村じゅうに広がってしまう。


 わやになる。


 絶対わやになる。


 私は、今聞いた分だけを持つことにした。


 土は疲れる。


 畑には順番がある。


 豆は食べるだけではなく、残すものもある。


 それだけでも、もう十分多い。


「アユミのところでも、畑はあったのか」


 ニルスさんが聞いた。


 私は一瞬考えた。


「ありました。でも、私は畑の人ではなかったです。親戚に、少し詳しい人はいました。聞いたことはありますけど、ちゃんと分かっているわけではないです」


 自分で言って、少し安心した。


 ちゃんと分かっているわけではない。


 その一言を先に置けたのが、今は大事だった。親戚のおじさんの記憶は使えるかもしれない。でも、それはこの村の土の答えではない。せいぜい、遠くで鳴る小さな鈴みたいなものだ。似てるかも、と思わせてくれるだけで、ここで鳴っている音そのものではない。


 ニルスさんは頷いた。


「聞いたことがあるなら、早いところもあると思う。けど、ここの土はここの土だ。分からないところは、父さんに聞くのが一番だな」


 それを聞いたバルトさんは、豆畑を見たまま言った。


「見ればいい」


 いや、その「見ればいい」が一番難しい。


 私はまだ、どこを見ればいいのかを探しているところだ。


 ニルスさんが少し困ったように息をこぼす。


「父さんは、だいたいそう言う」


「見る」


「分かってる。見るよ」


 そのやり取りで、場の空気が少しだけ軽くなった。


 バルトさんは、真面目に言っている。ニルスさんも、それを分かって返している。短すぎる言葉を、短すぎるまま受け取れる関係がそこにある。ニルスさんは、バルトさんの言葉を否定しない。代わりに、私にも届くように少しだけ足す。


 その「少しだけ」が、ありがたかった。


 全部説明されると、たぶん私はまた頭で畑を作り始める。けれど、少しだけなら、目の前の葉や風と一緒に持てる。


 バルトさんは、豆畑の葉の間を指した。


「軽い」


「ここは、だな」


 ニルスさんが言う。


「風が通って、葉の下が軽い。土の表面も今は悪くない。朝のうちは、このくらいでいいと思う」


「ん」


 バルトさんは短く頷いた。


 今の「ん」は、たぶん肯定だ。


 たぶん。


 たぶんは抜き、とエリナさんに言われたのを思い出して、私は心の中で慌てて訂正する。


 今のは、肯定っぽい。


 いや、それもたぶんじゃん。


 むずかしい。


 でも、全部を確定させなくていい。バルトさんの「ん」は、ニルスさんの言葉を止めなかった。それだけは見えた。


 マリナさんは、豆畑の札を二枚、手元の板へ重ねた。


「昼に戻ったら、これも見せるよ」


「私に、ですか」


「そう。畑でつけた札が、倉の前でどう扱われるか。見ておいた方がいいだろう?」


 私は、すぐ返事をしそうになって止まった。


 見たい。


 とても見たい。


 けれど、見たいだけでうなずいていいのか、一瞬迷った。昨日も今日も、見たいものほど近づきすぎる。手を出しそうになる。倉の前には木札も袋もある。触っていいものとだめなものが、畑よりさらに多いはずだ。


 それでも、見たい。


「見たいです。でも、触る前に聞きます」


 そう言うと、マリナさんは木札の端を指でそろえた。


「それならいい」


 バルトさんは、豆畑を見たままだった。


 トルヴァンさんが、そこでようやく一言だけ言った。


「昼までは、見るだけだな」


「はい」


「腹が減る前に戻る」


 その言い方があまりに現実的で、少しだけ気が抜けた。


 そうだ。畑も、札も、土も、月の名前も大事だけれど、朝から動けば腹は減る。第4話からずっと、私はそこへ戻され続けている。喉。足。腹。眠り。紙より足が先。畑より、まず踏む場所。考える前に、食べたものが身体を動かしている。


 空気の中に、豆畑の青い匂いが残っている。


 私は、豆畑の端をもう一度見た。


 芋畑の葉は、土を隠していた。豆畑の葉は、風を通していた。バルトさんの手は土の湿りを見て、ニルスさんの木札は風の通りや種に残す場所を示していた。マリナさんの指は、畑で揺れていた札を受け取り、昼の別の場所へ持っていく。


 リョースとセイズの名前を知った朝に、私はまた別の名前を知った。


 ニルスさん。


 豆畑。


 種に残す豆。


 畑の順番。


 言葉は増える。けれど、言葉だけでは足りない。豆の葉の間を抜ける風や、靴底についた芋畑の土や、木札が揺れる小さな音が一緒でないと、たぶんすぐに手からこぼれる。


 ニルスさんが、マリナさんへ木札を一枚差し出した。


「これは戻す?」


「いや、私が持つ。昼に数を見る時、一緒に出すよ」


「分かった」


 マリナさんは札を受け取ると、紐の結び目を親指で確かめてから、手元の板へ重ねた。


 豆畑の風で揺れていた木札が、彼女の手の中で止まった。


 私は、靴底についた芋畑の土を落としきれないまま、その札を見ていた。


 まだ、土も読めていない。


 芋の葉がなぜ急いでいたのかも、豆の後で土がどう変わるのかも、分かったとは言えない。


 それなのに今度は、数を見るらしい。


 豆畑の風は軽いのに、朝の続きはまだまだ軽くなりそうになかった。

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