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第6話 前編 リョースとセイズ、畑へ向かう朝 ③ 土を見る手

第6話 前編 リョースとセイズ、畑へ向かう朝


① 月の名前


② バルトの畑へ


③ 土を見る手


④ ニルスと豆畑の風


【アユミ視点/異世界生活三日目・朝】


③ 土を見る手


 その先へ足を出す前に、バルトさんの手が動いた。


 畝の肩を見るように少し身体を傾けたまま、バルトさんは片膝を軽く折った。しゃがみ込む、というほど深くはない。けれど、立ったまま眺めるよりもずっと低い位置へ目線を落とす。芋の葉の下、畝の丸く盛られた土の端、朝の光が当たっている場所と、葉の影がかかっている場所。その境目を見ているようだった。


 私は、まず自分の足元を見た。


 借り靴の底に、畑の端の土が少しついている。家の前の踏み固められた道より、色が濃い。靴の縁に薄くまとわりついた土は、乾ききってはいないのに、泥というほど重くもない。足を少し動かすと、靴底の下で細かな粒がこすれる感触がした。


 ここから先へ出たら、踏んではいけない場所に近づきすぎる。


 そう思っただけで、足の指に力が入った。


 アーミヤは、ここにはいない。


 さっき共同炉の方へ、迷いのない前足で行ってしまった。横にあった茶色い毛並みがなくなったせいで、畑の緑が少しだけ近く見える。頼りにしていたつもりはない。ないはずなのに、猫一匹分の空白が妙に大きい。


 なんも、王冠猫に置いていかれて心細くなってる場合じゃないんだけど。


 私は両手を前で重ねたまま、指先を握り直した。


 バルトさんは、手にしていた細い棒を畝の肩へ入れた。


 突き刺すのではない。掘るのでもない。土の表面を、そっと横へなでるような動きだった。乾き始めた薄い膜みたいな土が、棒の先でぽろりと崩れる。その下から、もう少し濃い色の土が見えた。


 表面は、朝の光を受けて少し白っぽい。


 でも、その内側は違う。


 黒に近い茶色。湿りを含んで、光を吸うような色。けれど、べたついているようには見えない。土の小さな粒が、寄り合って形を保っている。バルトさんは棒を横へ置き、今度は指でその土をつまんだ。


 親指と人差し指で、ほんの少し。


 それを指の腹でこする。


 土は、すぐ粉にはならなかった。最初だけ、指の間に少し残る。けれど、べったり張りつくほどでもない。バルトさんがもう一度こすると、ぽろぽろと細かく崩れて、畝の肩へ戻った。爪のきわに、黒い筋が薄く残る。


 その手つきが、妙に静かだった。


 土を押さえつけている感じではない。土がどう崩れるかを、手の方が待っている。私なら、柔らかいか硬いか、湿っているか乾いているか、そのくらいで分けようとすると思う。でも、バルトさんはその間を見ているようだった。


 崩れるまでの遅さ。


 指に残る量。


 落ちた粒の大きさ。


 そういう小さな違いを、ひとつずつ拾っているのだと思う。


 紙なら、意味が頭に入ってきた。


 木札も、布札も、書かれている意味だけなら分かる。けれど、線の形は手に残らない。読めているのに、書けるわけではない。昨日、紙の前で感じた変な落ち着かなさが、まだ少し残っている。


 でも、土はそれよりもっと遠かった。


 目の前にある。匂いもする。靴底にもついている。なのに、意味は入ってこない。書かれていないから当然なのに、私は少し戸惑った。土は、こちらが勝手に読める形にはなっていない。


 バルトさんは、その読めないものを、指先で見ている。


「下は重くない」


 バルトさんが言った。


 下。


 重くない。


 私は、起こされた土の内側を見る。表面より濃い。湿っているように見える。でも、重くない。そう言われても、何をもって重くないのか分からない。土なのだから、ある程度は重いに決まっている。いや、そういう話ではないんだろうけど。


 マリナさんは、手元の木札を見ずに、バルトさんの指先を見ていた。


「水を抱えすぎてはいないってことだよ」


 それだけ補った。


「水を」


「畑の土は、乾きすぎても困るし、抱えすぎても困る。詳しいことは、今ここで全部覚えなくていいよ」


 マリナさんは、私が頷くのを見てから、それ以上は続けなかった。説明の扉だけ開けて、奥へは引きずり込まない。共同炉で干し海老の袋を見せてくれた時と似ている。全部は教えない。でも、どこを見ればいいかは少し置いてくれる。


 私は、バルトさんの指先へ視線を戻した。


 土が落ちたあと、指の腹にはまだ少し湿りが残っている。バルトさんはそれを服で拭かず、指を軽くこすり合わせただけで、次の場所へ目を移した。土がついた手のまま、葉の下へ視線を入れる。汚れている、という感じがしない。畑の前では、それがそのまま目の延長みたいだった。


 バルトさんは、起こした土をそのままにはしなかった。


 指の腹で、畝の肩へ軽く戻す。完全に元通りではない。けれど、めくったままにもしておかない。少しだけ見て、少しだけ戻す。その動きまでが、ひと続きの手順に見えた。


 見るだけでも、土は動く。


 なら、見たあとにも手がいる。


 そう思ったけれど、口には出さなかった。いま言葉にしたら、また自分の中で大きくなりすぎる気がしたからだ。


「まだ素直だ」


 バルトさんが言った。


 短い。


 そして、やっぱり難しい。


 土に、素直とかあるんですか。


 異世界三日目、青い月の次は土に「素直」と言われた。情報量が、朝の黒パンより重い。


 でも、茶化していい場面ではない。


 バルトさんの指先には、土が残っている。マリナさんは木札を持ったまま、その手元を見ていた。トルヴァンさんも口を挟まない。三人とも、今の「素直だ」を笑わない。


 つまり、これはちゃんと意味のある言葉なのだ。


「素直、というのは……」


 聞きかけて、最後まで言えなかった。


 聞いていい。聞いていいはずだ。分からないなら聞く。昨日から何度もそうしてきた。それなのに、土の前では質問の形まで分からない。何をどう聞けばいいのか分からない。素直とは何ですか、と聞いたら、たぶん答えは返ってくる。でも、それで分かる気がしない。


 マリナさんが、私の途中で止まった言葉を拾った。


「今のところ、悪くはないってことだよ」


 マリナさんは、木札の紐を指で押さえながら言った。


「表だけが乾いてるわけじゃない。中は湿りが残ってる。でも重すぎない。指で崩した時に、ちゃんとほどける」


「ほどける」


「そう。握ったまま固まる土もあるし、ばらばらに逃げる土もある。これはまだ扱いやすい」


 扱いやすい。


 その言葉で、ほんの少しだけ形が見えた気がした。


 素直、というのは、たぶん人間に都合よく従うという意味ではない。湿り、崩れ方、指先の残り方。土が今どんな状態かを、人が手で確かめた時に、変な抵抗をしないこと。いや、勝手にまとめるのは危ない。まだ、そんな気がする、くらいだ。


 私はバルトさんの指を見る。


 爪の際に残った土。


 親指の腹で崩れた粒。


 落ちた土が畝の肩へ戻る時の小さな音。


 意味は勝手に入ってこない。でも、違いがあることだけは、指先から落ちた土で分かった。


「……紙より難しいですね」


 思わず小さく言うと、マリナさんがこちらを見た。


「紙?」


「あ、いえ。紙なら、読めば意味は拾えます。でも、土はそうじゃないので」


 言ってから、少しだけしまったと思った。


 本当は、意味が頭に入ってくる、という方が近い。けれど、それをそのまま言っていいのか、私はまだ決められていなかった。会話は通じる。書かれたものも意味は分かる。けれど、線の形は手に残らない。読めるのに書けない。紙の前で感じた落ち着かなさが、畑の端でまた少し戻ってくる。


 マリナさんは、そこへ深入りしなかった。


「土は手間がかかるよ」


 それだけ言った。


 あっさりしている。


 でも、助かった。


 マリナさんはたぶん、私が言葉の話をしようとしているのも、土の話をしようとしているのも、どちらも混ざっていると分かっている。それでも今は、土の方へ戻してくれた。


 バルトさんは、指先の土を払った。


「こっちはまだいい」


 そして、少し離れた別の株へ視線を移した。


「こっちは急いでる」


「急いでる?」


 思わず聞き返した。


 バルトさんは葉を指した。


「葉が先に出てる」


 終わった。


 また終わった。


 私は指された株を見る。確かに、さっき見た株より葉が少し多い気がする。茎の立ち方も強い。葉の広がり方も、周りよりわずかに大きい。朝の光を受けて、緑がよく見える。


 普通に考えれば、元気そうに見える。


 いいことに見える。


 でも、バルトさんの声は、喜んでいなかった。


 私は、言いかけた「元気そうですね」を飲み込んだ。


 葉が大きい。


 緑が濃い。


 いかにも育っている。


 ここまでが、私にも見えていることだった。


 良い株なのかもしれない、と思ったのは、まだ私の考えだ。


 見えたことと、思ったことを混ぜない。


 昨日から何度も教えられたはずなのに、目の前に濃い緑があると、私はすぐに引っ張られる。私の目が、ものすごく素人の目をしている。


 親戚のおじさんの声が、頭の隅でふっと揺れた。


 葉っぱばかり元気でも、下がついてこないことがある。


 たぶん、そんなようなことを聞いた気がする。夏休みか、親戚の家へ行った時か、母の料理話のついでだったか。記憶が曖昧すぎる。肥料がどうとか、茎葉がどうとか、もっと具体的な話をしていた気もする。でも、今ここでそれを当てはめていいのかは分からない。


 葉っぱが元気でも、下が変な時がある。


 あれ、今まさにそれ?


 いや、決めるな。


 私は自分の内心に釘を刺した。


 バルトさんは、畝の肩へ手を置いた。今度は土を起こさず、葉の根元近くを見る。指先は葉へ触れない。葉の下の影を見るように、少し顔を近づける。


「見た目は、元気そうに見えます」


 私は、そう言うに留めた。


 バルトさんが、少しだけこちらを見た。


「見える」


 それだけだった。


 でも、否定ではなかった。


 見える。つまり、そう見えること自体は間違いではない。でも、それだけではない。たぶん、そういう意味だと思う。違うかもしれない。違うなら後で直すしかない。今は、バルトさんの「見える」をそのまま置いておく。


 マリナさんが、手元の木札へ視線を落とした。


「その株は、あとで印をつけるかもね」


「印を」


「見る場所に入れておく。今すぐ掘る話じゃないよ」


 今すぐ掘る話ではない。


 その言い方で、少しだけ息が戻った。葉が急いでいるからといって、すぐに掘るわけではないらしい。見る。印をつけるかもしれない。あとでまた見る。畑の判断にも、共同炉の黒パンみたいに順番がある。


 バルトさんは、葉の根元を見たまま短く言った。


「今は掘らん」


「はい」


「下はまだ見えん」


 下はまだ見えない。


 それは、私にも分かる。


 ここで言う下は、ただ地面の下という意味だけではないのだと思う。葉に隠れた土の湿り、茎の根元、そしてそのさらに下で育っている芋や根の状態。葉の上から見ただけでは分からないものが、いくつも土の中にある。


 芋は土の中にある。見えているのは葉と土の表面だけだ。地面の下に何がどれくらいあるのか、私には分からない。スーパーの袋に入ったジャガイモなら、大きさも数も見える。料理の前なら皮を剥ける。けれど畑の芋は、まだ見えない。


 葉は、私にも見える。


 大きいとか、濃いとか、元気そうだとか、そのくらいなら言える。


 でも、バルトさんが見ようとしているのは、葉の下に隠れた土の湿りと、そこから先の、まだ掘らなければ見えない芋の育ち方だった。私の目は、見えている緑にすぐ引っ張られる。


 その違いが、少し怖かった。


 その想像を、バルトさんは毎年やっている。


 いや、毎年どころではないのかもしれない。芽が出る前から、葉が茂る途中から、雨が続いたあとも、朝の光が変わった日も、何度も何度も見てきたのだと思う。そう考えると、急に畑の広さが変わって見えた。さっきまでは緑が広がっているように見えた。でも、その緑の下には、見えないものが一列ずつ埋まっている。


 私はまた考えが遠くへ行きかけて、足元を見た。


 靴底についた土。


 まだ、ここから。


 勝手にまとめない。


 マリナさんが、木札の紐を一本指にかけた。


「印をつけるなら、こっちの端だね。今すぐじゃなくていい?」


 これはバルトさんへの問いだった。


 バルトさんは少しだけ葉を見てから、首を振った。


「あとでいい」


「分かった」


 マリナさんは木札を戻した。


 その一連の動きが、ものすごく小さかった。札を出す。聞く。戻す。ただそれだけ。でも、今の「あとでいい」で、作業が一つ先へ置かれたのだと思う。先送りというより、順番に入ったのかもしれない。畑の中では、何も起きていないように見えて、見たものがこうやって少しずつ残されていく。


 私は、木札の紐を見た。


 紙より粗い。けれど、畑では紙より使いやすいのだろう。雨や土、手の汚れ。そういうものの中で使うには、紙より札の方が強いのかもしれない。意味は分かる。でも、私はまだそこに何かを書くことはできない。線の形は手に残っていない。


 木札の意味は頭に入ってくるのに、線は手に残らない。


 目の前の土は見えているのに、今度は意味の方が手に入らない。


 今日の私は、そればかりだ。


 でも、不思議と前より嫌ではなかった。


 嫌ではない、というより、やり方が少しだけ分かってきたのかもしれない。分からないものを分かったことにしない。見ないふりもしない。青い月を見た夜から、何度も戻ってくる感覚だ。


 土も同じ。


 ただし、月より近い。


 靴の底についてくるくらい近い。


「アユミ」


 トルヴァンさんの声で、私は顔を上げた。


「近づきすぎるな」


「あ、はい」


 気づかないうちに、ほんの少し前へ出ていたらしい。


 危ない。


 ほんと危ない。


 自分の足、言うこと聞いて。さっき手を信用できないと思ったけど、足もなかなか信用できない。好奇心というやつは、全身で前のめりになってくる。はんかくさいにも程がある。


 私は一歩、確実に戻した。


 靴底の土が、軽く擦れる。


 バルトさんは、別の場所へ移った。


 今度は畝と畝の間の影を見ている。手は出さない。ただ、葉の重なりと土の見え方を追う。マリナさんはその後ろで、木札を持ったまま待つ。トルヴァンさんは私の少し後ろに立っている。


 アーミヤがいないぶん、場が静かだった。


 共同炉の方では、たぶん今ごろ、あの王冠猫が何食わぬ足取りで誰かの足元にいる。


 それを想像すると少し気が抜けそうになったので、私は慌てて土の匂いを吸った。


 今は畑。


 今は、バルトさんの手。


 湿り。


 葉の青さ。


 朝の光。


 指先についた黒い土。


 それらを一つずつ置いていく。意味は勝手に入ってこない。だから、置く。見る。聞く。止まる。


 バルトさんが、ひとつ息を吐いた。


「豆も見る」


 その言葉で、芋畑の空気が少しだけ切り替わった。


「もう行くんですか」


 思わず聞くと、マリナさんが頷いた。


「芋は今見たいところを見たからね。次は豆。ニルスも来てるはずだよ」


「ニルスさん」


「豆畑の方は、あの子の方が少し聞きやすいかもしれないね」


 少し聞きやすい。


 その言い方で、私は思わずバルトさんを見た。


 バルトさんは否定しなかった。


 しないんだ。


 そこは否定しないんだ。


 トルヴァンさんも何も言わない。マリナさんは木札の紐を指にかけたまま、いつもの調子で立っている。つまり、この村の中では、バルトさんの説明が短いことは共有済みなのだろう。なんか、ちょっと安心した。私だけが置いていかれているわけではないらしい。


 バルトさんは立ち上がり、指先についた土を軽く払った。


 黒い土が、畝の肩へ戻る。


 それを見てから、私は自分の靴底をもう一度見た。畑の端の土が少しついている。家の前の土とは違う、芋畑の土。


 たったそれだけなのに、昨日より遠くへ来た気がした。


 バルトさんが歩き出す。


 マリナさんが木札を持ち直す。


 トルヴァンさんが、私の足元を一度だけ見てから先を促す。


 私は畝へ入らないように、来た時より少し慎重に足を運んだ。


 芋畑の向こうから、少し違う風が来る。


 葉の高さも、土の匂いも、今見ていた場所とは少し違う。その先の畑の端で、若い男性が一人、こちらへ気づいたように身を起こした。


 マリナさんが、短く言った。


「ニルスも来てるね」

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