第6話 前編 リョースとセイズ、畑へ向かう朝 ② バルトの畑へ
第6話 前編 リョースとセイズ、畑へ向かう朝
① 月の名前
② バルトの畑へ
③ 土を見る手
④ ニルスと豆畑の風
【アユミ視点/異世界生活三日目・朝】
② バルトの畑へ
戸口を抜けると、朝の匂いが足元から上がってきた。
火床の灰、黒パンの皮、豆の汁、ほんの少しの霜香草。さっきまで私の手元にあった朝食の匂いは、戸をくぐった瞬間に背中側へ残った。代わりに前へ出てきたのは、湿った土と草と、まだ高くなりきっていない日差しの匂いだった。
草の先に残っていた細かな湿りが、朝の光で少しずつほどけていく。風が動くたび、鼻の奥に青い匂いが触れた。
私は、思わず空を見そうになった。
さっき知ったばかりの名前が、まだ口の奥に残っている。白い方がリョース。青い方がセイズ。前の夜、まぶたの裏に残った青い月には、セイズという名前。
けれど、戸口の向こうで先に気になったのは、空ではなく足元だった。
畑へ行くなら、家の床とは違う。エリナさんにそう言われたばかりだ。土のへこみもあるし、石もある。私は借り靴の中で足を踏み直し、布の当たりを確かめた。痛くはない。少しだけ、いずい。けれど、そのいずさが、今は変にありがたかった。
上ばかり見るな。
足元からそう言われているみたいだった。
エリナさんは、戸口のところで私の袖を一度だけ見た。
「裾、そこまでなら大丈夫だね。畑の中へ入る時は、引っかけないように」
「はい」
「今日は見るだけだよ。勝手に畝へ入らない。葉も土も、触る前に聞く」
「分かりました」
「分からなかったら止まる。共同炉と同じ」
エリナさんの手は、私の袖を直したあと、もう別の布へ伸びていた。家の中へ戻る準備をしながら言っているのに、声だけはちゃんとこちらへ届く。甘やかすというより、外へ出る時の紐を一本結んでくれる感じだ。
私は頷いてから、もう一度足元を見た。
止まる。
聞く。
触る前に確かめる。
言葉にすると簡単だけど、実際はかなり難しい。見たいものがあると、目だけじゃなく身体も寄る。共同炉で鍋の湯気へ近づきそうになった時も、倉の前で木札を見すぎた時もそうだった。畑なら、たぶんもっと危ない。土も葉も、見た目だけでは触っていいか分からない。
手をどうしておこうか、と迷って、私は両手を軽く前で重ねた。
気になるものが多い時ほど、手が先に出そうになる。だから、先に置き場を決めておく。自分の手なのに、知らない場所ではちょっこし信用ならない。興味を持った瞬間、勝手に前へ行きそうになるから。
アーミヤは、私より先に戸口を出ていた。
いつの間に。
茶色い毛並みが朝の光を受け、王冠の縁が小さく光る。本人はそれを気にする様子もなく、戸口のすぐ脇に座って、外の匂いを嗅いでいた。朝食の別皿をもらったせいか、しっぽの先がゆるく動いている。
満足してる。
絶対、満足してる。
顔を読まなくても分かる。皿の端を最後まで舐めた猫のしっぽだ。
「アーミヤ、畑で勝手にちょさないでよ」
小声で言うと、アーミヤたんは耳だけ動かした。
聞いている。
けれど返事はない。
その態度、ほんとに都合がいいんね。
トルヴァンさんは、私たちより少し先に立っていた。歩き出す前に、村の方へ一度目をやる。急かすわけではない。けれど、こちらが準備できたのを見てから、短く言った。
「行くぞ」
「はい」
私はエリナさんへ軽く頭を下げ、トルヴァンさんの後ろへついた。
家を離れると、朝の村が少しずつ広がっていく。
前に見たはずの場所も、朝食の後に歩くと違って見えた。共同炉の前では、火の勢いが落ちたあとの空気が漂っている。人の出入りはまだあるけれど、朝の大きな山は越えたのだろう。黒パンを運ぶ籠の数は減っていて、代わりに空の籠や使い終えた布が戻ってきていた。
女の子が一人、布を抱えて小走りになりかけ、すぐに足をゆるめる。火のそばでは走らない。それが身体に入っている歩き方だった。
井戸の方では、水を汲む音がした。
桶が石に軽く当たる音。引き上げる縄の音。水が別の桶へ移される音。そこへ、誰かの短い声が重なる。聞き取れない。けれど、急いで怒鳴る声ではなかった。朝の作業の中に入る声だ。
初めて村へ入った時は、それらを全部「村の朝」として一塊に見ていた気がする。
今は少しだけ、手順の残りが見える。
黒パンの籠がどこかへ行く。
空の籠が戻る。
布は洗うものと乾かすものに分かれる。
木札は勝手に動かさない。
知っている、と言えるほどではない。でも、共同炉の火も、倉の木札も、霜香草の匂いも、二つの月も、この朝の匂いの中へ少しずつ混じっていた。
トルヴァンさんは、振り返りすぎない。
それでも、私が少し歩幅を詰めると、前の足がほんの少しだけ遅くなる。偶然かもしれない。けれど、たぶん偶然ではない。私の歩き方と、足元の様子を見ている。見ているけれど、いちいち「大丈夫か」とは言わない。
その距離が、ありがたかった。
私も、足が気になるたびに大げさに止まるわけにはいかない。土のへこみを避け、石を踏まないように歩く。家の床と違って、足の裏に返ってくる感触が場所ごとに変わる。硬いところ。少し沈むところ。草の根が靴底に当たるところ。借り靴の中の布が、ときどき指の付け根を軽くこする。
リョースとセイズは、まだ頭の上の方にある。
でも、足元の土は、今まさに靴底へついている。
そっちの方が、今はずっと近い。
アーミヤは、道の端を歩いていた。
最初は私のすぐ横にいたのに、気づくと少し前へ出ている。草の匂いを嗅ぎ、時々立ち止まる。小さな虫でも見つけたのか、草の先を目で追うことがある。王冠つきの大きな猫が、何でもない足取りで村の道を歩いている。何でもないわけがないのに、村の人たちはもう、驚きながらも通り道を譲るくらいには慣れ始めている気がした。
いや、慣れるの早くない?
私より早くない?
そう思ったところで、共同炉の方から小さな声が飛んだ。
「あ、アーミヤ」
昨日、布を受け取った小さな子だった。たしか、シア。手には空の袋を持っている。袋の口を両手で握ったまま、こちらを見ている。近づきたいけれど、勝手には触らない。その体勢のまま、足だけが少しそわそわしていた。
アーミヤは立ち止まった。
しっぽの先が、ゆっくり動く。
シアは触らない。けれど、目が完全に猫へ吸われている。いや、気持ちは分かる。王冠つきの大きな毛玉が朝の道を歩いていたら、そりゃ見ちゃう。私だって、初見なら三度見くらいする。
「アーミヤ、行くよ」
小声で呼ぶ。
アーミヤたんは私を見た。
それから、シアを見る。
さらに、共同炉の方へ鼻先を向けた。
火の残り、布、たぶん何かの食べ物。ほんの少しだけ、昨日の干し海老に似た匂いも混じっている気がした。
嫌な予感がした。
「アンタ、まさかそっち行く気?」
返事はない。
かわりに、前足が一歩、共同炉の方へ出た。
アーミヤは共同炉の方へ鼻先を向け、迷いのない一歩を出した。
その足取りに、猫としての目的意識がありすぎる。
畑? 知りません。
火のそば? 行きます。
そんな背中だった。
自由。
なまら自由。
共同炉の方から、年配の女性の声がした。
「シア、袋を置いてからだよ」
「うん」
シアが返事をする。
その声に、アーミヤの耳が動いた。次に、鼻が動く。たぶん、声の方より匂いの方へ反応している。
アーミヤたん、完全にごはん営業へ向かっている。
共同炉。子ども。年配の方。食べ物の匂いがする場所と、撫でてくれそうな人を、順番に押さえていく気配がある。
いや、アンタ営業部長なの?
私は反射的に追いかけそうになって、止まった。
今、私はトルヴァンさんについて畑へ行くところだ。勝手に道を外れて、アーミヤを追いかけていい立場ではない。そもそも、共同炉の方には人がいる。エリナさんも家の中にいる。アーミヤがいきなり鍋へ突撃するならともかく、今の足取りは、少なくとも走ってはいない。
トルヴァンさんが、少しだけ振り返った。
「行かせておけ」
「いいんですか」
「村の中だ。火の近くで邪魔をすれば、誰かが止める」
「それは、そうですけど」
「畑へ連れていっても、葉を嗅ぐだけだろう」
たぶん、そう。
たぶんだけど。
アーミヤたんは、こちらの不安などまったく気にせず、共同炉の方へ歩いていった。シアが袋を抱え直し、少し離れてその後ろを追う。触りはしない。ただ、ついていく。年配の女性の声がまたして、今度は少し笑っているように聞こえた。
私はその背中を見送った。
急に、横が軽くなる。
頼りにしていたつもりはない。ないはずだ。アーミヤがいたから何かが解決するわけでもないし、むしろ問題を増やす可能性の方が高い。王冠つきの大きな猫なんて、普通に考えたら歩く不確定要素でしかない。
それでも、さっきまで横にいた毛並みがいないだけで、少しだけ心細かった。
なんも、猫に置いていかれて心細くなってる場合じゃないんだけど。
私は両手を前で重ねたまま、もう一度足元を見た。
今は畑。
アーミヤは共同炉。
私はトルヴァンさんの後ろ。
その三つを頭の中で並べると、少しだけ落ち着いた。
アーミヤの背中が共同炉の方へ小さくなっていくと、道の音が少し変わった気がした。
さっきまでは、草の先を嗅ぐ鼻息や、しっぽが揺れる気配が横にあった。今は、トルヴァンさんの足音と、私の靴底の音が前に出てくる。村道の土を踏む音。布が靴の中でわずかにこすれる感触。遠くの鶏舎から重なってくる羽音。
横が軽くなった分、前を見るしかなくなる。
私は、トルヴァンさんの背中を追った。
大きな背中だ。けれど、こちらを囲い込む感じではない。前を歩きながら、道の端、石のある場所、ぬかるみかけたところを自然に避けていく。私がそこへ近づく前に、足の置き方で教えてくれているようだった。
言葉ではない。
でも、これもたぶん手順だ。
トルヴァンさんが歩く場所を見る。そこから少し遅れて、自分の足を出す。知らない道では、それだけでも頭を使う。日本で歩いていた時、こんなに地面を見ていただろうか。駅の階段や凍った道なら見ていたかもしれない。でも、村の道の土のへこみや、草の根や、車輪の跡までは見ていなかった。
この世界では、地面も初対面だ。
そう思うと、足裏が少しだけ緊張した。
村の家々の間を抜けると、畑の匂いが強くなった。
土だけではない。葉の青い匂い。朝露が乾き始める前の湿り。どこかで切られた草の匂い。遠くの鶏舎の羽音もまだ聞こえるけれど、だんだん背中側へ回っていく。代わりに、前方へ広がる緑が濃くなった。
畑。
その言葉だけなら知っている。日本にも畑はあった。親戚の家の周りにも、畑らしい場所はあった。けれど、今の私の前にあるものは、写真や車窓から見た畑とは違う。ここでは、誰かの手が今日も入る。食べるものが育つ。残すものも育つ。たぶん、見えないところに、まだ私が知らない手順がいくつもある。
そこまで考えて、私は慌てて思考を止めた。
また先へ行きすぎている。
まず歩く。
まず足元。
エリナさんの声を思い出しながら、私は道の端から外れないようにした。
畑の前に、二人の大人が立っていた。
一人は、トルヴァンさんとどこか似た体つきの男性だった。背丈や肩の形に、少しだけ同じ家の気配がある。けれど、雰囲気は違う。トルヴァンさんが外の気配や人の流れを見ている人だとしたら、その人は、立っている時から視線の半分を地面へ置いているように見えた。
こちらへ視線を向けても、すぐ畑の方へ戻る。挨拶より先に、畑の朝を逃したくない人みたいだった。
その隣に、マリナさんがいた。
共同炉で見た時のような干し海老の袋ではなく、今日は紐のついた木札をいくつか持っている。腰のあたりには小さな袋。手元には薄い板のようなものも見えた。火の前の湯気の中で見た時とは少し違う。けれど、袋の口や札の向きを雑にしない手つきは同じだった。
マリナさんは、私たちが近づくと、まずトルヴァンさんを見た。
次に私の足元。
それから、私の横にアーミヤがいないことへ気づいたらしい。視線が一度、来た道の方へ向く。
「猫は?」
「共同炉の方へ行きました」
「そう」
マリナさんは、それだけ言って頷いた。
驚かない。
追いかけろとも言わない。
村の中で、すでに誰かが見ている場所へ行ったのだと分かっているのかもしれない。あるいは、王冠猫が一緒に来ないなら畑の葉を嗅がれずに済む、と判断したのかもしれない。どちらにしても、ここで話を止めない。
マリナさんは、そういう人なのだと思う。
トルヴァンさんが、短く言った。
「バルト」
男性がこちらを見る。
「来たか」
声も短い。
私は慌てて頭を下げた。
「おはようございます。アユミです」
「ん」
それで終わった。
え、終わり?
と一瞬思ったけれど、マリナさんがすぐ横で少し息をこぼした。
「バルトは畑の前だと、だいたいこうだよ。悪気はないからね」
「はい」
たぶん、悪気はない。
というか、悪気を出す前に畑を見ている。そんな感じだ。バルトさんは私を無視しているわけではないのだろう。けれど、私が誰かを確認することより、今この朝の土を見る方が先にある。そういう順番の人なのだと思った。
バルトさんは、また畑へ目を戻した。
何かを言うでもなく、ただ見ている。眉間に力を入れているわけでも、分かりやすく喜んでいるわけでもない。そこにあるものを、先に受け取っている。私から見れば、ただ緑が広がっているだけの場所に、バルトさんはもう何かを見つけているのかもしれない。
マリナさんは、私へ軽く頷いた。
「また会ったね」
「はい。昨日はありがとうございました」
「お礼はハンナにも言っておきな。あの子の鍋だから」
「はい」
共同炉の湯気が、少しだけ頭の中へ戻る。干し海老の袋。香草を入れるタイミング。木の匙で味を見るハンナさんの手。マリナさんが「使い切るんじゃないよ」と言った声。
今日は、その人が畑の端で木札を持っている。
共同炉では、マリナさんの手は袋の口と鍋の位置を見ていた。今日は、その手が木札の紐を押さえ、畑の方へ何度か向く。火の前ではないのに、やっぱり「今見るもの」と「あとで残すもの」を同時に見ているような手だった。
「今日は見るだけだよ」
マリナさんが言った。
「札をつけるかどうかは、バルトが見てから。あなたは、まず畑の道を外れないこと」
「分かりました」
「畝へ入る時は、言われてから。葉も、土も、勝手に触らない」
エリナさんと同じことを言われた。
でも、場所が変わると重みも変わる。家の戸口で聞いた時は、畑へ出る前の注意だった。今は、畑そのものが目の前にある。足を少し横へ出せば、もう畝の端に近づける。その近さで「触らない」と言われると、急に手の置き場が必要になる。
私は、重ねていた両手に少しだけ力を入れた。
気になるものが多い時は、まず手を置く場所を決める。勝手に前へ出ないように。共同炉で、倉の前で、何度もやった。畑でも、たぶん同じだ。
バルトさんは、もう畑の方を見ていた。
「芋から」
それだけ言って歩き出す。
マリナさんは、私の横へ少し寄った。
「朝のうちに見たいんだよ。日が上がると、表だけ乾いて見えることがあるから」
「表だけ」
「そう。中がどうかは、また別」
それ以上は言わない。
私は頷いて、バルトさんの後ろ姿を見た。説明を求めたくなる。でも、ここで聞くと、たぶん畑へ入る前に頭だけ先へ行く。表だけ乾く。中は別。それだけで、今は十分だ。
芋畑へ向かう道は、家々の間の道より少し細かった。
土の色も変わる。人の足で踏まれたところは少し締まっているけれど、道の端には草があり、その向こうから畑の畝が始まっている。靴底に土がついた。べったりではない。乾ききってもいない。歩くたびに、かすかに音が変わる。
畑の向こう側には、別の緑も見えた。芋の葉より低く、少し間が空いている。たぶん豆畑だろう。けれど、今はまだ遠い。まずは芋から。バルトさんの一言が、道の先を決めている。
芋畑の手前で、バルトさんが足を止めた。
まだ畑の中ではない。けれど、葉の影が足元まで届くくらい近い場所だった。芋の葉は、思っていたより大きい。朝の光を受けて濃い緑に見え、土の上へ広がるように重なっている。葉の下は暗い。土は見えるところと見えないところがあり、畝の肩だけがところどころ光を受けている。
私は、すぐに「元気そう」と思いかけた。
葉が大きい。
緑が濃い。
いかにも育っている。
でも、その思い込みを飲み込む。葉が立派なら良い、とは限らないのかもしれない。まだ何も見ていない。私はこの畑を知らない。バルトさんが何を見ているのかも知らない。
なんも分からんのに、緑だけで分かったつもりになるのは危ない。
バルトさんは、畑の端で少し腰を落とした。
土に触るわけではない。ただ、畝の形と葉の重なりを見るように、身体を低くする。マリナさんは木札を持ったまま、少し後ろで止まった。トルヴァンさんは、私の足元を一度見てから、口を挟まずにいる。
私は、靴底についた土を感じながら、その場で止まった。
まだ、何も触っていない。
でも、ここから先は、ただ歩いているだけでは済まない気がした。
バルトさんが、畝の肩を見るように少し身体を傾ける。
私はその横顔ではなく、まず自分の足元を見た。
靴底についた土が、そこで止まっていた。




