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第6話 前編 リョースとセイズ、畑へ向かう朝 ① 月の名前

第6話 前編 リョースとセイズ、畑へ向かう朝



① 月の名前

② バルトの畑へ

③ 土を見る手

④ ニルスと豆畑の風


【アユミ視点/異世界生活三日目・朝】


① 月の名前



 目を開けても、青い月はすぐには消えなかった。




 本当に浮かんでいたわけではない。寝床の上にあったのは、トルヴァンさんの家の天井だった。太い梁と、煤で少し色の沈んだ木組み。火床の方からは、灰の奥に残っている火の匂いが薄く流れてくる。布の中に残った体温も、横で丸くなっているアーミヤの毛の気配も、ちゃんとここにあった。




 それなのに、まぶたの裏だけが、まだ夜を引きずっている。




 白い月。青みを帯びた、もう一つの月。二つの光が村の屋根と木柵へ落ち、アーミヤの王冠の縁に白と青を薄く乗せていた。寝る前に見たその景色が、起きたあとも、頭の奥でまだ消えずにいる。




 月が二つ。




 いや、わやでしょ。




 そう思っても、天井は何も答えない。家の中では、もう器が台に並び、灰の奥の火が細く残っていた。寝床も、布も、火床も、何も慌てていない。私だけが、前の夜の空をまだ手放せていない。




 隣で、アーミヤがゆっくり伸びをした。




 長い毛が布の上でふわりと広がり、しっぽが私の袖へ少し触れる。王冠は、当然のように落ちない。夜の月明かりを受けた時も思ったけれど、王冠を揺らさず、布の上で前足をそろえている。その平然さが本当にずるい。アンタ、世界が違っても王冠が光っても、どうしてそんなにいつも通りなの。




「……おはよう、アーミヤ」




 小さく声をかけると、アーミヤたんは片目だけ開けた。




 返事はしない。




 でも、耳だけはこっちを向ける。




 聞いてるんね。




 私は布の中で息を吐き、ゆっくり身体を起こした。昨日よりは、起き上がる時の怖さが少ない。少ないだけで、ないわけではない。借りた服の袖はまだ自分のものではなく、足元もまだ借りた靴と布に頼っている。寝床から足を下ろす前に少し動かすと、巻いてもらった布が指の付け根にちょっこし当たった。




 痛いほどではない。




 ただ、自分の部屋の床へ裸足で降りる時とは違う。足の下にあるものも、足を包んでいるものも、自分で選んだものではない。その小さないずさが、ここが知らない家で、知らない村で、知らない世界なのだと、朝から足元へ戻してくる。




 知らない世界。




 そう言葉にすると、また青い月が戻ってきそうになったので、私は慌てて火床の方を見た。




 家の中では、もう人が動いていた。




 エリナさんが火床のそばで鍋の位置を少し変えている。大きな音は立てない。けれど、木の器が台へ置かれる音、布が広げられる音、灰を寄せる小さな音が、朝の中に順番よく混じっていた。火の匂い、鍋の湯気、木の器。目に入るものを全部まとめて考えようとすると、また頭だけ先に走りそうになる。




 今日は、まず火の匂いを吸った。




 それから器を見る。




 エリナさんの手元を見る。




 まだ分からないものは、分からないまま置く。




 共同炉でも、倉の前でも、そうやって何度も手を止めた。たぶん、今日も必要になる。そんな予感だけは、寝起きの頭にも残っていた。




「起きたね」




 エリナさんが振り向いた。




「はい。おはようございます」




「おはよう。声は、昨日の朝よりましだね」




「声、ですか」




「ましだよ。すごく元気ってわけじゃないけど、昨日よりはちゃんと起きてる声をしてる」




 起きてる声。




 私は自分の喉へ少し手を当てた。よく分からない。けれど、たしかに身体が自分のものとして戻ってきている気がする。まだ、この世界でどう足を置けばいいのかまでは分からない。でも、寝て、起きて、火の匂いを吸えるくらいにはなった。




 エリナさんは、私の返事を待たずに、鍋の湯気を見ていた。器の位置を直し、匙を置き、布の端を軽く払う。それから、私の足元へ視線を落とす。




「布はあとで見るよ。今、立っただけで痛いところはあるかい」




「痛くはないです。ちょっと当たるくらいです」




「なら、朝食が先だね。痛いのを我慢して歩くなら止めるけど、今は腹へ入れる方が先」




「はい」




 月が二つあっても、王冠が外れなくても、朝ごはんは普通に来る。




 なんも、世界の方は私の混乱待ちをしてくれない。




 いや、たしかにそうだ。




 前の夜も、食べたから考えられた。考えても答えは出なかったけれど、空腹のままでは、たぶん月を見る余裕もなかった。




 トルヴァンさんは、戸口の方から戻ってきたところだった。




 外の空気を少しまとっている。手には小さな木片と、何かを包んだ布。朝の見回りか、誰かとの短いやり取りを済ませてきたのかもしれない。詳しいことは分からない。ただ、トルヴァンさんが家の中に戻ると、入口の空気が少しだけ落ち着く感じがした。




「起きたか」




「はい。おはようございます」




「ああ」




 返事は短い。




 でも、昨日より怖くない。短い言葉の後ろに、見ているものがあると少し分かってきたからだ。トルヴァンさんは私を一度見て、次に足元を見て、それからエリナさんへ視線を移した。何も言わない。言わなくても、エリナさんが軽く頷く。




「歩けるよ。布はあとで見直す」




「そうか」




 その一言で終わった。




 大丈夫かと何度も聞かれないのは、ありがたい。足は少し気になる。でも、痛いほどではない。そこを混ぜて「大丈夫です」と言い切らない方がいい。それはもう何度も教えられた。けれど、今はまだ歩ける。それで朝は進む。




 朝食は、昨日より少し落ち着いて受け取れた。




 木の器に入った汁は、豆と根菜が中心で、共同炉で嗅いだような強い干し海老の香りはない。代わりに、やわらかい乳の丸さと、ほんの少し青い香草の匂いがあった。霜香草だろうか。鼻の奥がしゃっこくなるようなあの香りほど強くはないけれど、湯気の中に細く混じっている。




 黒パンは、厚く切られていた。




 トルヴァンさんがそれを手で割ると、硬い皮が小さく鳴った。ぱき、というより、低く割れる音。何も知らなければ、ただ重いパンだと思っていたかもしれない。でも今は、共同炉の火、ハンナさんの手、前から継いだ生地、籠と布の順番が少しだけ後ろに見える。




 見える、と言っても、分かるわけではない。




 ただ、何も知らずに噛むよりは、口の中の重さが少し違った。




 私は黒パンを汁に浸し、ふやけすぎる前に口へ入れた。酸味と穀物の香りが、豆の汁と混ざる。噛む回数が増える。急ぐと喉につかえそうになるので、ちゃんと噛む。夜の空で頭がわやになっていた私を、黒パンがゆっくり朝へ戻してくる。




 火床のそばで、エリナさんがもう一つ器を置いた。




 それは私たちのものではなく、床に近い低い台の上に置かれる。薄い出汁と、小さくほぐした肉。塩や香草が入っていない、アーミヤ用の別皿だ。




 アーミヤは、まだ寝床の方にいるふりをしていた。




 いや、ふりだ。




 絶対に匂いは分かっている。




 別皿が置かれた瞬間、しっぽの先だけが動いた。次に鼻が動く。最後に、前足をそろえたまま一度伸びをして、それからようやく立ち上がる。長い毛が揺れ、王冠が朝の光を少し受けた。




 エリナさんは、その様子を見て小さく笑った。




「この子も、朝の場所を覚えるのが早いね」




「早すぎます」




「食べる場所を覚えない生き物はいないよ」




 それはそう。




 そうなんだけど、アーミヤたんの場合、覚え方が妙に堂々としている。昨日の夜からもう、この家の一部です、みたいな足取りで歩いている。借りた服の袖をまだ気にしている私より、よほど馴染んでいる気がして、ちょっと悔しい。




「アンタ、そこはもう自分の席だと思ってるんね」




 小声で言うと、アーミヤたんは頭も上げずに耳だけ動かした。




 聞こえてる。




 でも、食べる方が大事らしい。




 猫としては正しい。たぶん。




 木の器を両手で持っていると、湯気の向こうで、エリナさんがふと窓の外へ目をやった。




「昨夜はセイズもよく見えてたね」




 セイズ。




 その聞き慣れない音が、黒パンより先に喉へ引っかかった。




 トルヴァンさんが汁の器を手にしたまま、短く返す。




「リョースも明るかった」




 リョース。




 セイズ。




 私は黒パンを持った手を止めた。二つの言葉が、昨日の夜の空へ勝手に結びつこうとする。




 白い月。




 青い月。




「あの……リョースが白い方で、セイズが青い方、で合ってますか」




 聞いてから、少しだけ息を詰めた。




 知らないものを知っているふりはしない。けれど、聞き方を間違えると、自分でもびっくりするくらい変な子になる。月の名前を知らない、というだけで十分変だ。月そのものを初めて見たみたいな言い方は、さすがにまずい。




「昨日の夜は、呼び名までは分からなかったので」




 そう足すと、エリナさんの器を置く手が、ほんの短く止まった。




 トルヴァンさんも、黒パンをちぎる手を少しだけ遅らせた。




 まずい。




 やっぱり、ちょっこし変な聞き方だったかもしれない。




 でも、嘘ではない。昨日の夜、私はあの二つを見た。名前は知らなかった。だから今、照らし合わせている。そういう言い方なら、ぎりぎり変すぎないはず。たぶん。いや、たぶんって言うな私。




「……そうだよ」




 エリナさんは、すぐに器を置いた。




「白い方がリョース。青い方がセイズ。村じゃ、それで通じる」




「ありがとうございます」




 私は、順番を逆にしないように、口の中でもう一度だけ繰り返した。




 白い方。




 青い方。




 名前がついたのに、昨夜の景色が急に軽くなるわけではなかった。ただ、手に持てないものへ、小さな札が一枚ついたような気がした。正しい札なのかどうかも、まだ分からない。それでも、何もないよりは、ちょっこし持ちやすい。




 トルヴァンさんが黒パンをちぎりながら言った。




「村の子なら、先に覚える名だ」




「あ、ですよね……」




 そりゃそうだ。




 日本で「月って何ですか」と聞くようなものではない。けれど、「その呼び名で合ってますか」と聞くのも、たぶん普通ではない。私は器を持つ指に、少しだけ力を入れた。




 エリナさんは、私を問い詰めなかった。




「知らない名は、聞けばいいよ。知ってるふりをされる方が困る」




 それから、私の器へ視線を落とす。




「ただ、今は汁をこぼさない方が先だね」




「……はい」




 とても現実的だった。




 月の名を知らないことは、たぶん小さなことではない。エリナさんの手が一度止まったくらいには、おかしい。




 けれど、手元の器を落とせば汁はこぼれる。黒パンを噛まずに飲み込めば喉につかえる。昨日からずっと、そういう順番で私はこの家に戻される。




 私は器を両手で持ち直し、汁を少し飲んだ。温かさが喉を通る。霜香草らしき匂いが鼻へ戻る。夜の空を見上げて固まった身体が、少しずつ朝食の席へ戻ってくる。




 そのあと、しばらくは食べる音だけが続いた。




 黒パンを割る音。




 匙が器の縁に触れる音。




 アーミヤが別皿の端を舐める、かすかな音。




 窓の外では、遠くの鶏が一度鳴いた。すぐ近くではない。火の匂いと、外の草の匂いが、戸口の隙間で混ざっている。




 食べ物が腹へ落ちていくと、夜の空だけでいっぱいだった頭に、少しずつ朝の場所が戻ってきた。




 器。




 布。




 足元。




 戸口。




 外の土。




 私は、黒パンをもう一口汁に浸した。浸しすぎると崩れる。昨日より、その加減が少しだけ分かるようになった気がする。もちろん、ハンナさんが見たら「まだまだ」と笑うのだろうけど。




 それでも、昨日よりはまし。




 たぶん、それでいい。




 トルヴァンさんが、黒パンの残りを台へ置いた。




 硬い皮の欠片が、木の皿の上で小さく鳴る。




「バルトが、朝のうちに畑を見ると言ってた」




 エリナさんの手が、器を並べる位置を少しだけ変えた。




 さっきまで朝食だった卓の上が、畑へ出る前の卓に寄る。黒パンの残りをどこへ置くか。汁を飲み切るか。外へ出る前に足元を見るか。そんな小さなことが、急に次の手順へつながっていく。




 バルトさん。




 昨日、名前は聞いている。トルヴァンさんの身内で、畑を見る人。短い言葉しか出てこないけれど、土や芋のことになると、とても頼りになる人だと聞いた。まだ私は、その人の畑を見ていない。




「バルトさんの畑、ですか」




「まずは芋の方だろうね」




 エリナさんが答える。




「それから豆。マリナもいると思うよ」




 マリナさん。




 共同炉で干し海老の袋を持ってきた人。エリナさんの妹で、保存や交換で入ったものを見ている人。あの小さな袋の口を結ぶ手を思い出す。火の前とは違う、棚や残りの量を見る手。




 今日は畑で会うらしい。




 私は黒パンをもう一口食べた。急いで飲み込まない。畑の話が出ると、頭だけ先に外へ出そうになる。でも、口の中に黒パンがあるうちは、まず噛む。黒パンも汁も、一口ずつ。話も、たぶん同じだ。一度に飲み込もうとすると、喉につかえる。




「月の名前を覚えたばかりなのに、次は畑ですか」




 思わず小さく言うと、エリナさんが笑った。




「朝は待ってくれないからね」




「それは、そうですね」




「でも、全部覚えようとしなくていい。月も、畑も、今日の分だけ見ればいいよ」




「今日の分だけ」




 私は、器の底に残った汁を見た。




 一口ぶんずつなら飲める。




 畑のことも、空のことも、そのくらいずつなら、たぶん持てる。いや、持てると決めるのは早い。でも、全部を一度に口へ入れなくていいなら、少しは息がしやすい。




 トルヴァンさんは、食べ終えた器を脇へ寄せた。




「バルトは長く待たん」




「待たないんですか」




「畑の方が先だ」




 その一言で、なんとなく分かった。




 私の準備より、畑の朝の方が先にある。土や葉は、私が理解するまで待ってくれない。人の都合で朝食をゆっくりしていたら、見たいものを見逃すこともあるのかもしれない。もちろん、今の私にはそこまで分からない。でも、トルヴァンさんの言い方には、そういう当たり前が入っていた。




 月が二つあった翌朝に、黒パンを噛んで、足の布を直されて、畑へ行く。




 いや、情報量がわや。




 でも、黒パンは待ってくれないし、畑もたぶん待ってくれない。この世界、こっちの整理待ちをしてくれないんね。




 エリナさんが私の足元へ視線を落とす。




「外へ出る前に、布だけ見せな」




「はい」




 私は器を置き、足を少し出した。




 大げさな確認ではない。靴擦れで歩けないとか、そういう状態でもない。ただ、借り靴の中で布が少しずれやすい。共同炉や倉の前で何度か気になった。エリナさんはしゃがみ込み、布の端を少しだけ直す。指の付け根に当たりすぎないように、角度を変える。手際が早い。




「痛い?」




「痛くはないです。歩くと少し気になるくらいです」




「それならいい。気になるまま歩いて、痛くなったら余計に手間だからね」




「はい」




「畑の道は、家の床とは違うよ」




 エリナさんは、布の端を整えながら言った。




「土のへこみもあるし、石もある。足元を見て歩きな」




「分かりました」




 私は頷いた。




 畑。




 土。




 芋。




 豆。




 さっき知った月の名がまだ頭の中で転がっているのに、次は足元だ。一度考え出すと脳内の棚に整理したい言葉がどんどん増える。でも、足元を見ろと言われると、不思議と少し落ち着く。空のことは遠い。けれど、靴の中の布は、今まさに足に当たっている。




 アーミヤは、食べ終えた皿から少し離れて、こちらを見ていた。




 しっぽが一度だけ動く。




「アンタも行く気なんね?」




 小声で言うと、アーミヤたんは当然みたいに立ち上がった。王冠が朝の光を少し受ける。夜の青ではなく、今は家の中の柔らかい光だ。




「畑で勝手にちょさないでよ」




 耳が動いた。




 聞いた。




 絶対聞いた。




 でも、返事はない。猫だから。たぶん。




 トルヴァンさんが戸口へ向かった。




 外から朝の匂いが入る。土と草と、遠くの鶏の声。共同炉の火も、倉の木札も、霜香草の匂いも、二つの月も、その朝の匂いの中へ少しずつ混じっていた。




 多い。




 それでも、今は靴の中の布がずれていないかを確かめる方が先だった。




 私は借り靴の中で足を踏み直した。布はさっきより落ち着いている。完全に自分の足元ではないけれど、歩ける。歩けるなら、まず歩く。




 口の中に残る月の名前を、黒パンの重さと汁の温かさで押し流しきれないまま、私はエリナさんの後について戸口へ向かった。




 戸口の向こうで、まだ見ていない土の匂いがした。

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