第5話 後編 触れていいものと、二つの月 ④ 二つの月の下で
第5話 後編 触れていいものと、二つの月
① 紙と小さな用事
② 霜香草と、王冠猫
③ 夕食と、残る問い
④ 二つの月の下で
【アユミ視点/異世界生活二日目・夜】
④ 二つの月の下で
戸を閉めると、家の中の熱が背中側に残った。
火床の匂いと、豆の汁の湯気と、霜香草の細い香りが、戸口のすぐ内側にまだある。外へ出たはずなのに、背中だけは少し温かい。目の前には夜の土と、家の裏手へ続く細い道。小さな灯りを持つ手に、木の柄のざらつきが伝わってきた。
昨日の夜は、外へ出るだけでかなり怖かった。
暗い。知らない。どこが道で、どこから先が家の外なのかも分からない。用足し場の手順を聞いても、頭の中では言葉がばらけて、ただエリナさんの声にしがみつくような感じだった。灰、乾いた土、手桶、布。終わったら呼ぶ。分からなければ呼ぶ。あの時の私は、恥ずかしいとか情けないとかを考える余裕もなく、とにかく一つずつ言われた通りにするしかなかった。
今日は、少しだけ違う。
借りた靴の中の布は、エリナさんに直してもらったあとだから、指の付け根へ変に当たらない。まだ自分の靴みたいには歩けないけれど、足元にずっと小さな文句を言われている感じは薄くなっている。白いブラウスの袖も、最初より腕へ馴染んできた気がした。オレンジ系のスカートの布の重みも、歩く時に少し分かるようになった。
それでも、全部借りものだ。
服も。靴も。灯りも。今夜の寝床も。
私は小さな灯りを片手に持ち、もう片方の手で袖を軽く押さえた。すぐ横では、アーミヤがしっぽを立てている。夜道でも妙に堂々としていて、足元の土を少し嗅ぎ、それから当然みたいに前へ出た。案内してくれるのか、ただ自分が先に歩きたいだけなのかは分からない。
「アンタ、夜でも平気そうだね」
小声で言うと、しっぽの先だけが揺れた。
その返事の仕方、ほんと何なんだろう。
裏手へ向かう道は、昨日より少しだけ見えた。家の壁に沿って置かれた薪。踏み固められた土。風よけの板囲い。離れの小さな屋根。灯りを低くしすぎないように持ち、足元を確かめながら進む。
昨日は、この距離さえ長く感じた。
今日は、長いというより、細かいものが目に入る。薪の端が湿らないように少し浮かせてあること。風よけの板に古い傷があること。勝手口から用足し場までの土が、他の場所より踏まれて固くなっていること。家の明かりが届く範囲と、届かない範囲の境目があること。
分かっている、とはまだ言えない。
でも、昨日よりは、目がちょっこし外へ向いている。
用足し場では、昨日と同じ手順をたどった。
詳しく考え始めると、まだ気まずい。けれど、手順として知っているというだけで、身体の固まり方は違った。使うものを間違えない。終わったら灰と乾いた土を落とす。手を洗う。布はそこ。分からなければ呼ぶ。すべてを自然にできたわけではないけれど、昨日みたいに頭の中が真っ白になることはなかった。
用を済ませて外へ戻ると、小さな灯りの火が、急に頼りなく見えた。
エリナさんは、外は月で少し明るいと言っていた。
その意味を、私は最初、普通の月明かりだと思っていた。けれど、実際に夜の中へ立ってみると、その言葉の重さが少し変わった。地面の凹凸が見える。薪置き場の影が分かる。風よけの板の縁が、ぼんやり白く浮いている。離れの屋根も、木柵の横板も、暗いだけではない色を持っていた。
夜なのに、思っていたより明るい。
昼の熱が引いた夜気の中で、草と土の匂いがする。手元の火を少し下げても、周囲の形が分かる。白っぽい光が、土の上に薄く落ちている。青みのある影が、木柵の足元へ伸びている。
私は、ほとんど反射みたいに空を見上げた。
月があった。
白い月。
そこまでは、まだよかった。
私の知っている月とは少し違う気もした。輪郭がやわらかいのに、光は強い。村の屋根の端や、木柵の上、遠くの畑の畝を、薄い白でなぞっている。近く見えるのか、空気が澄みすぎているのか、光の質が違うのかは分からない。けれど、それでも月だと思えた。
問題は、その横だった。
もう一つ、月があった。
青みを帯びた、薄い月。
白い月ほど強くはない。けれど弱いわけでもない。青というより、氷を通した光みたいな色だった。空の黒に溶けず、白い月とも混ざらず、少し離れた場所で、ちゃんと自分の丸さを保っている。
雲でも、星でも、見間違いでもない。
丸い。
ちゃんと、丸い。
息が止まった。
月が、二つある。
いや、わやでしょ。
なんも整理できない。どう考えたらいいのか分からない。それなのに、空は当たり前みたいに明るい。白い光と青い光が、何も説明してくれないまま、村の屋根と木柵と畑の向こうへ降っている。
二つの月の光が重なる場所では、影の色が変だった。
木柵の足元に、白っぽい影と、青みを帯びた影が、少しずれて落ちている。薪置き場の横板も、風よけの板の古い傷も、昼とは違う輪郭を持っていた。私の手元の小さな灯りが、急にただの小さな火に見える。
私は、灯りを持つ手に力を入れた。木の柄が指へ当たる。借りた服の袖が手首に触れる。靴の中の布が、足の裏へぴたりと収まっている。霜香草のしゃっこい匂いが、まだ鼻の奥に細く残っている。
そういう小さな感覚だけが、身体をここに留めていた。
しばらく、月から目を外せなかった。
白い月は高く、青い月は少し横へ離れている。二つの光は混ざって一つになるわけではなく、それぞれが別々に夜へ落ちていた。屋根の縁は白く、木柵の足元は青みを含んでいる。畑の向こうの暗がりも、ただ黒く沈んでいるのではなく、白と青の薄い膜をかぶったように見えた。
見慣れた夜ではない。
見慣れた月でもない。
それなのに、村は静かだった。家畜小屋の方から小さな音がする。どこかで木が鳴る。家の中では、きっと火床の火がまだ赤く残っている。誰も外へ飛び出してこない。誰も空を指して騒がない。
この村の人たちは、この空の下で普通に眠って、起きて、卵を数えて、黒パンを焼いているのだろう。
白い月も、青い月も、驚くものではないのかもしれない。エリナさんが「月で少し明るい」と言った声には、怖さも驚きもなかった。きっと、子どもは名前を覚え、畑へ出る人は明るさを見て、旅をする人は星や月を頼りにすることもあるのだろう。夜の道を歩く時も、用足しへ出る時も、この空はただそこにある。
あの人たちにとっては、これが空なのだ。
私だけが、息を忘れている。
それから、ようやく星が目に入った。
星も、多い。
白雪家の窓から見た、あの街の夜とは違う。街灯も、車の光も、遠くの建物の明かりもない。空の黒が深くて、そこに細かな光がいくつも散っている。北海道でも、冬に空気が澄んだ夜は星がよく見えた。パパンが「北極星を探すなら、まずあの形を見つける」と言って、窓の外や旅行先の夜空を指したことがある。
私は、小さな灯りを握ったまま、知っている形を探そうとした。
北極星。
北斗七星。
オリオン座。
冬の星座。
けれど、すぐには見つからなかった。
星が多すぎるせいなのか、私が混乱しているせいなのか、それとも本当に違う空なのか。見える光を一つずつつなげようとしても、知っている線にならない。月が二つあると分かったあとでは、星の並びまで、急に知らない言葉みたいに遠く見えた。
紙があれば、たぶん星の並びも書きたくなっていた。
でも、今は灯りを持つ手があるだけだ。木の柄を握る指に、少し汗がにじんでいる。夜気は涼しいのに、手の中だけが妙に落ち着かない。
明日、聞いてみようか。
あの白い月の名前。青い月の名前。夜に方角を見る星はあるのか。旅人や村の人は、どの光を目印にするのか。北極星みたいなものはあるのか。
聞きたいことが、また増える。
ここは北海道じゃない。日本じゃない。そういう言葉は、これまでも何度か浮かんでいた。森。村。黒パン。共同炉。知らない服。知らない食べ物。けれど、どこかでまだ、言葉が通じることや、人が暮らしていることに救われていたのかもしれない。
人がいる。火がある。黒パンがある。豆の汁がある。家がある。足を直してくれる人がいる。
だから、違う世界だと分かっているのに、どこかでまだ、知らない村くらいに思いたかったのかもしれない。
でも、空はごまかせない。
月が二つある。
それだけで、白雪家の窓から見ていた冬の夜が、なまら遠くへ押しやられた。街灯に照らされた雪。窓の結露。机の上のノート。問題集の端。ママンの声。パパンの気配。弟がどこかで立てていた音。そういうものが、一気に遠い場所へ沈んでいく。
足元で、茶色い毛並みが動いた。
アーミヤは私の横へ戻ってきて、同じように空を見ているように見えた。王冠が、月明かりを受けている。白い光と、青い光。その両方が、王冠の縁にかすかに乗っていた。火の光で見る時とは違う。昼の光で見る時とも違う。白と青が重なったその縁は、見慣れているはずなのに、また知らないものになっていた。
王冠の縁に乗った青い光を見ていると、机の上に広がった白い輪と、昼に見た紙の線が、勝手に頭の奥で重なりかけた。
でも、まだ同じ場所には置けない。
意味は分かるのに、線は手に残らなかった。空の月も同じだ。見えているのに、まだ名前すら知らない。白い月と、青い月。二つとも、こんなにはっきりそこにあるのに。
私はここへ来た。
それは、もう否定できない。
夢かもしれない、という逃げ道は、昨日の夜よりずっと細くなっていた。
足の布ずれも、豆の汁の熱も、霜香草の匂いも、ここに残っている。シアの小さな「ありがとう」も、マリナさんの短い声も、エリナさんの手つきも、トルヴァンさんの「ならいい」も、夢にするには重すぎた。
私は、ここにいる。
それだけは、もうごまかせなかった。
あの王冠なのか。白い輪なのか。それとも、まだ名前も知らない何かなのか。
理由をひとつ置けば、怖さは少し形を持つ。怒る先も作れる。
でも、今の私が勝手に置いた理由は、きっと簡単にずれる。
昼に見た紙にも、空籠にも、山羊にも、触る前の距離があった。見えているからといって、扱えるわけではなかった。分かった気になって手を出せば、置く向きひとつで誰かを困らせる。
空も、見えたからといって、手の中へ落ちてくるわけではなかった。
月が二つある。
それは見えた。
でも、月が二つあると見えただけで、この空の下のことまで分かるわけじゃない。
分かったことにしない。
でも、見ないふりもしない。
そう思った瞬間、胸の中で何かが強くなる、というほど派手なことは起きなかった。身体が光るわけでもない。答えが降ってくるわけでもない。空の月がこちらを見返すわけでもない。
ただ、袖を握る指に、少し力が入った。
借りた服の布が、指の中でしわになる。昼に持った空籠の縁の感触が、まだ指のどこかに残っている気がした。布札の端。粗い紙のざらついた見た目。霜香草の匂い。山羊とアーミヤの無言の見つめ合い。番犬が距離を測る目。夕食の器の熱。
今の私が握れるのは、借りた服の袖と、小さな灯りの柄くらいだった。
大きなことは分からない。帰れるのかも分からない。戻る方法があるのか、そもそも私をここへ運んだものが戻すつもりを持っているのかも分からない。
それでも、戻れば、火の匂いがある。
寝床がある。
明日のことは、そこへ戻ってからでいい。
書きたいことは山ほどある。
でも、紙より足が先だった。
まず足元。
それから、見ること。聞くこと。
手を伸ばすのは、触っていいと分かってからでいい。
「……戻ろっか」
声に出すと、思っていたより小さかった。
しっぽの先が一度だけ動いた。
それが返事のように見えて、私はほんの少しだけ息を吐いた。もう一度だけ空を見る。白い月と、青みを帯びた月。名前も分からない二つの光が、当たり前みたいに夜空に浮かんでいる。
明日になれば、誰かが名前を教えてくれるかもしれない。
でも今は、白い月と青い月のままでよかった。
家の方へ向き直る。
戸口の灯りが見えた。火の匂いがある。今夜戻る場所がある。分からないことばかりなのに、それだけは確かだった。
靴の中の布は、まだ少しいずい。
でも、歩ける。
私は二つの月を背に、アーミヤと一緒に、家の灯りへ向かって歩いた。
戻ると、エリナさんが戸口のそばで待っていた。大げさには言わない。ただ、私の足元と、隣の大きな猫を順に見て、小さく頷いた。
「戻ったね」
「はい」
「足は?」
「大丈夫です。ちょっこし、いずいくらいです」
「ならいい。もう休みな」
家の中へ入ると、火の匂いがまた近くなった。外の月明かりは戸の向こうに消えたはずなのに、目の奥にはまだ白と青の光が残っている。トルヴァンさんは火のそばにいて、こちらを一度だけ見た。何も聞かずに、火床へ目を戻す。
それだけでよかった。
私は借りた服の袖を直し、寝床へ向かった。アーミヤは先に行って、寝床の近くで丸くなる。王冠は相変わらず頭の上だ。外で見た白と青の光はもう乗っていないのに、私にはまだ、縁がうっすら光っているように見えた。
横になると、身体の力が少しずつ抜けた。
火の匂いが天井の近くに薄く残っている。アーミヤは寝床のそばで丸くなっている。借りた服の袖が腕に触れ、足の布はまだ少しいずい。
目を閉じようとすると、紙の端や霜香草の匂いが、順番を守らずに戻ってきた。
その奥に、白い月がある。
青い月がある。
なんも簡単じゃない。
なまら難しい。
それでも、たぶん明日も、ちょっこしずつ聞くしかないんね。
目を閉じても、青い方の月だけは、しばらく消えてくれなかった。




