第5話 後編 触れていいものと、二つの月 ③ 夕食と、残る問い
第5話 後編 触れていいものと、二つの月
① 紙と小さな用事
② 霜香草と、王冠猫
③ 夕食と、残る問い
④ 二つの月の下で
【アユミ視点/異世界生活二日目・昼〜夜】
③ 夕食と、残る問い
夕方の家は、朝とは違う匂いがした。
共同炉の粉っぽい熱でも、倉の前の乾いた木と袋の匂いでもない。もっと近くて、もっと家の中へ沈んでいる匂いだ。火床の奥で赤く残る火、鍋の湯気、湿った布、黒パンを切ったあとの穀物の香り。それから、昼に山羊小屋で嗅いだ、あの青灰色の草の匂いが、ほんの少しだけ混じっていた。
霜香草だ。
名前を思い出した瞬間、鼻の奥がちょっこししゃっこくなる。実際に冷たいわけではない。鍋はちゃんと熱いし、器からは湯気が上がっている。それなのに、匂いの奥に、冬の日に窓を細く開けた時みたいな細い風がいる。
私は火床のそばに座りながら、思わず鍋の方を見た。
「気づいたかい」
エリナさんが木の器を取りながら言った。
「あ、はい。霜香草……ですか」
「少しだけね。入れすぎると、香りの方が勝つから」
エリナさんの手元で、豆の汁が器へ移される。昨日の夜に食べた豆の汁より、色が少しだけ白く濁っていた。山羊乳が入っているのだと思う。豆は少し崩れて、根菜の細いかけらが混じっている。湯気の中に、豆の重さと、乳のまろやかそうな匂いと、霜香草の細い香りが重なっていた。
昼に見たものが、夜の器の中に入っている。
ただそれだけなのに、少し不思議だった。山羊小屋の小桶。軒下に吊るされていた霜香草。マリナさんが「夕方に少し使う」と言った小袋。共同炉で見た黒パン。それらが別々の場所にあったはずなのに、今は私の前で湯気を立てている。
エリナさんは、私の器を置いたあと、別の浅い木皿を火床から少し離した場所へ置いた。
そこには、王冠猫がすでに座っていた。
まだ何も出されていないのに、前足をそろえている。王冠は火の光を受けて、縁だけがかすかに明るい。昼の山羊小屋で山羊と無言で向かい合っていた時とは違う。今は、完全に自分の食事場所を把握している猫の座り方だった。
アーミヤたん、アンタもう自分の皿が出る前提で座ってるんね。
「そっちは人の汁だよ」
エリナさんが、私の器へ鼻を近づけかけた茶色い毛並みを軽く止めた。
「塩も草も入ってるからね。あんたのはこっち」
浅い木皿に、細かくほぐした鶏の肉が少し入れられる。骨周りの身を外したものらしく、白っぽいところと少し濃いところが混じっていた。そこへ、ぬるい薄い汁が少し落とされる。人間用の豆の汁とは違う。香草の匂いも強くない。塩気もほとんどなさそうだった。
その大きな猫は、一度だけ私の器を見た。
それから、自分の皿を見た。
さらにエリナさんを見た。
前足をそろえたまま、しっぽの先をゆっくり動かしてから、皿へ鼻を寄せる。
ちょっと腹立つ。いや、ちゃんと自分の分を食べるのは偉い。でもその間は何。王冠猫、態度がでかい。
「鶏の骨の周りを外した分だよ」
エリナさんが私の視線に気づいて言った。
「人の鍋へ入れる分とは別に、塩を抜いたところを少し取ってある。犬にも回すし、猫ならこういう方がいいだろう」
「そこまで分けるんですね」
「一緒にはしないよ。人が食べるものは、塩も草も入るからね」
言いながら、エリナさんは私の前にも黒パンを置いた。かたく、ずっしりした黒パン。切った面は粗く、指で押しても簡単には沈まない。けれど、昨日の夜よりも怖くない。昼に共同炉で見たからだ。板の上に置かれ、籠へ移され、布をかけられていた黒パン。その一部が、今ここへ戻ってきている。
小皿には、酸い菜が少しと、戻した干し根菜が添えられていた。どれも多くはない。ごちそうというより、毎日の食事を止めないために、小皿の端で少しずつ出番を持っているものたちだった。
トルヴァンさんは、火床の反対側に腰を下ろした。大きな手で黒パンを割り、豆の汁へ少し浸す。そうしてから、ふと私の足元を見た。
「足は」
「直してもらって、だいぶ楽です」
「ならいい」
それだけだった。
でも、その短さが妙に落ち着く。心配しすぎない。かといって忘れているわけでもない。足は、と聞いて、楽です、と答えて、ならいい。それで済むことが、少しありがたかった。
私は木の匙を持ち、豆の汁を少しすくった。
口に入れると、最初に豆のやわらかさが来た。完全に潰れているわけではなく、粒の形が残っているものと、崩れて汁に溶けたものが混じっている。そこに、山羊乳の白いまろみがほんの少し乗っていた。濃い乳の味が前に出るわけではない。豆の重さの角を、少しだけ丸くしている感じだ。
そして、あとから霜香草の匂いが来る。
鼻に抜ける時だけ、ふっと軽い。しゃっこい、と言いたくなる匂い。昼に軒下で嗅いだ乾いた束とは違って、湯気に混ざるとやわらかい。入れすぎると香りの方が勝つ、というエリナさんの言葉が、少しだけ分かる気がした。
口の奥には、鶏の骨を煮たような味も薄く残った。強い肉の味ではない。けれど、水と豆だけでは出ない、静かな深さがある。塩漬けを戻した端肉か、骨を煮た汁が少し使われているのだろう。そう聞いたわけではないのに、村の鶏舎の存在が、器の奥に薄く混じっている気がした。
私は黒パンを小さくちぎり、汁へ浸した。
かたいパンが、湯気を吸って少しだけやわらぐ。完全にふわふわになるわけではない。けれど、表面がほどけて、豆の汁をまとった部分が食べやすくなる。噛むと酸味と穀物の重さがあり、そのあとで霜香草の匂いが少しだけ通り抜けた。
昨日の夜は、ただ食べることで精一杯だった。
今日は、少しだけ分かる。
この器の中へ来るまでに、いくつもの場所を通っている。共同炉。倉。山羊小屋。霜香草の束。鶏の骨や端肉。黒パンの籠。昼に私が見たもの、聞いたもの、触ってはいけないと教えられたものが、夜の食卓では別の形になっている。
それを考えると、ただ食べているだけなのに、村の中をもう一度ゆっくり歩いているみたいだった。
「今日の霜香草、少し控えめだったね」
エリナさんが、自分の器を見ながら言った。
「アユミが初めてだからね。強くすると、汁より草を食べてるみたいになる」
「俺はもう少し強くてもいい」
トルヴァンさんが黒パンを汁へ沈めたまま言う。
「あんたは黒パンで何でも受けるからだよ」
「腹に入ればいい」
「そういうところだよ」
責めている声ではなかった。トルヴァンさんも、言い返すでもなく、汁を吸った黒パンを口へ運んでいる。私は匙を持ったまま、二人の間を少しだけ見た。
夫婦の会話、というやつなのだと思う。
大きな話ではない。山羊乳が強いとか、霜香草を入れすぎると子どもが嫌がるとか、黒パンで受ければ腹に入るとか。けれど、そのやり取りの中にも、この家で何度も夕食を食べてきた時間があった。私が知らない食卓が、たぶん何年分も、二人の短いやり取りの下に重なっている。
「明日の朝は、鶏舎の方へ出るの?」
エリナさんが、空いた器を少し脇へ寄せながら聞いた。
「少しな。卵箱の底を見ておきたい。若いのに任せる分もあるが、最初の一回は俺も見る」
「カイルたち?」
「カイルは足が速すぎる。荷を見る時は、少し急ぎすぎる」
「それ、本人に言うとむくれるよ」
「むくれるくらいなら、まだ聞いてる」
カイル。
まだ会っていない名前だ。足が速くて、荷を見る時は少し急ぐらしい。名前の横にそれだけ置いて、私は匙を持ち直した。
「バルトは朝から畑かい」
「豆の方も見ると言ってた。ニルスも連れていくだろう」
知らない名前が、また増えた。
「……バルトさん、ですか」
私が聞くと、エリナさんが自分の器を少し横へ寄せた。
「トルヴァンの弟だよ。マリナの旦那でもある」
「マリナさんの」
「そう。マリナは私の妹。だから、バルトは義弟みたいなものだね」
トルヴァンさんの弟。エリナさんの妹の旦那さん。マリナさんの家。頭の中で、名前の置き場所が少し増える。
「ニルスさんは?」
「バルトとマリナの長男だよ。二十四。しっかりしてる。豆の順や畑のことは、あの子がいると話が早い」
トルヴァンさんが黒パンを汁へ沈めたまま、短く足した。
「バルトは土を見るのは上手いが、口で指示出すのが下手。ニルスがいれば、少し話も通る」
「なるほど……」
なるほど、と言いながら、半分くらいしか整理できていない。
紙がほしい。
ものすごくほしい。
カイルさん。足が速い。卵箱。バルトさん。トルヴァンさんの弟。マリナさんの旦那さん。ニルス。長男。豆。畑。バルトさんの言葉を噛み砕ける人。
紙があれば、たぶん名前の横に小さく印をつけていた。けれど今、手にあるのは紙ではなく匙だった。
私は匙を握り直し、器の底の豆を少し寄せた。
「トルヴァンさんの家の方は、今は……」
聞いていいのか迷って、語尾が少し小さくなった。
トルヴァンさんは気にした様子もなく、黒パンを噛んでから答えた。
「うちの子らは、今は外だ。村に残ってるのはいない」
「外、ですか」
「仕事だの、嫁ぎ先だの、見習いだのだよ。だが、収穫のころには戻る。よほど立て込んでなけりゃ、土産の一つも持って、勝手にな」
「勝手に、ですか」
「連絡を取り合うのも簡単じゃないからね」
エリナさんが、火床のそばで器を持ち替えた。
「来られる年は、だいたいどこの家のも来るよ。親に会いに来る子もいるし、孫を連れてくる子もいる。村じゃ手に入りにくい布や針や薬を置いていくこともある」
「帰る時には、芋や豆や卵を積めるだけ積んでいく。時期によっちゃ羊毛も持たせる」
「羊毛もですか」
「質がいい時はな。街じゃ食い物だけ持っていっても困る時がある。羊毛なら高く売れるし、布にもなる」
芋、豆、卵。羊毛。乾かした茸や香草。
食べるものだけではないらしい。着るものになるもの、売れるもの、街で別のものに替えられるものも、帰る子どもたちの荷に入る。
エリナさんは、それを特別なことみたいには言わなかった。トルヴァンさんも、黒パンを汁へ浸しながら、当たり前の話として聞いている。
私は匙を持ったまま、その話を聞いていた。
芋袋や卵箱や土産物の名前を聞いているうちに、今この家にいない人たちの気配が、エリナさんの器の向こう側へ少しだけ増えた。
この家では、明日の朝に見る卵箱の話が、夕食の途中で普通に出てくる。収穫のころに戻る子どもたちの話も、冬支度の荷の話も、黒パンを浸す手の横で出てくる。
それを感じた瞬間、胸の奥に少しだけ変な重さが落ちた。
明日。
私は、明日もここにいるのだろうか。
そう考えた途端、さっきまで汁の中に沈んでいた問いが、火床の下から赤く戻ってきた。
王冠。
白い輪。
私の部屋。
数学の課題。
机の上のノート。
アーミヤの王冠が光ったこと。部屋が白に飲まれたこと。足元が消えるような感覚。気づいたら森のそばにいて、身体が変で、言葉が通じて、紙に残された意味もなぜか頭へ入ってくる。
でも、書けない。
意味は分かるのに、その線を自分の手で書けない。形が手に残らない。自分だけなら日本語でも数字でも矢印でも考えられるのに、それをここで出したら、別の問題になる。
なぜ。
どうして。
誰が。
戻れるのか。
問いは、食べている間だけ消えていたわけではない。火の下で炭みたいに残っていて、少し静かになるとまた赤くなる。
私は匙を持つ手を止めていた。
「汁が冷めるよ」
エリナさんが言った。
私はびくっとした。
「……そんなに止まってましたか」
「止まってたよ。匙がね」
エリナさんは、私の器を指で軽く示した。
「考えるなとは言ってないよ。あんたは考える子だろうしね」
「はい」
「でも、腹が空いたまま考えると、考えが細くなる。まず食べな。考えるなら、口へ運びながらにしな」
怒られた、という感じではなかった。
けれど、逃がしてもらえたわけでもない。問いを持つことは止めない。でも、匙を止めるな。たぶん、そういうことだ。
私はもう一度、黒パンを汁へ沈めた。
長く浸しすぎると崩れそうだったので、匙で軽く押さえてから持ち上げる。黒パンの端に豆の汁が染み、霜香草の細い匂いが湯気と一緒に戻ってきた。
考えごとは消えない。
けれど、噛んでいる間だけは、問いが少しだけ後ろへ下がる。王冠も、白い輪も、読めるのに書けない文字も、火床の音の向こうへ一度置かれる。代わりに、口の中には黒パンの酸味と豆の重さがあった。
答えではない。
でも、身体をここに残すものではあった。
「食べられそうかい」
エリナさんが聞く。
「はい。美味しいです」
言ってから、少し照れた。
美味しい、という言葉が、昨日よりちゃんと口から出た気がしたからだ。豪華な味ではない。現代の外食みたいに分かりやすい味でもない。でも、温かくて、腹に落ちる。今の私には、それがかなり大きい。
「無理に全部食べなくていいよ」
「食べます。たぶん……じゃなくて、食べられる分は」
「それでいい」
エリナさんは器を持つ私の手を見て、それから火床の脇の浅皿へ目を移した。アーミヤは、鶏のほぐし身をゆっくり食べている。がつがつしているわけではない。けれど、確実に皿の中を減らしている。しっぽが、火床の光の中でゆるく動いていた。
「アンタもちゃんと分けてもらってるんね」
小声で言うと、アーミヤは皿から頭を上げた。
口元に薄い汁がついている。
王冠をかぶった大きな猫が、ぬるい薄出汁を口につけている。何その絵面。私は笑いそうになって、黒パンをかじってごまかした。
トルヴァンさんが、短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。声にはならなかったけれど、火床のそばの空気が少しだけ緩む。
「その猫は、よく食うのか」
「食べます。かなり」
「そうか」
「でも、変なものは食べさせないようにします」
「それがいい」
会話はそこで切れた。
トルヴァンさんは、それ以上アーミヤの王冠について聞かない。昼間も、村の人たちは見ていた。けれど、誰も深く突っ込んでこない。気になっていないわけがないのに、今は食事の方が先なのだろう。
王冠。
白い輪。
その言葉が、また頭の中へ戻りかけた。けれど、私は黒パンをもう一口ちぎった。エリナさんの言葉が残っている。考えるなら、口へ運びながら。
だから、噛む。
飲み込む。
熱が喉を通る。
答えは出ない。
でも、食べている間は、身体がここにあることだけは分かる。借りた服。直してもらった足。木の器。黒パン。火床。王冠猫の食べる音。エリナさんの手。トルヴァンさんの短い声。
分からないことだらけなのに、今ここで汁を飲んでいることだけは、妙にはっきりしていた。
食事の間、長い説明はなかった。
グレッグさんのことも、これからの扱いのことも、少しだけ触れられただけだ。今日大きく決めるわけではないこと。今夜もトルヴァン家で休むこと。明日以降、話せることを少しずつ聞かれること。村の外へ一人で出ないこと。分からないものは勝手に触らないこと。
それらは重々しい宣告ではなく、夕食の湯気の横に置かれた。
私は、ひとつずつ頷いた。全部を理解したわけではない。でも、今夜どこで眠るかは分かった。明日の朝も、いきなり森へ放り出されるわけではない。トルヴァンさんとエリナさんの家で、もう一晩を越す。
そのことに安堵した瞬間、今度は別の怖さが来た。
もう一晩ここにいる。
つまり、元の世界へ今すぐ戻る方法は、やっぱり分からない。
アーミヤは、自分の皿をきれいに舐め終え、少し離れた場所で丸くなり始めていた。王冠は相変わらず頭の上にある。火の光で、金色なのか何色なのか分かりにくい縁が、時々きらりとする。
あれは何なのだろう。
どうして外れないのだろう。
どうして、あの夜に光ったのだろう。
私は自分の手を見た。
手は昨日より少しだけ小さいような気がする。いや、実際に身体が変わっているのか、疲れと服のせいでそう感じるだけなのか、まだ分からない。関節の感じが軽い。歩いている時の重心も、たまに違う。けれど、それを誰にどう説明すればいいのか分からない。
言葉は通じる。
紙に残された意味も、なぜか分かる。
でも、書けない。
アーミヤの王冠は外れない。
私をここへ運んだ白い輪は、もうない。
ひとつ考えると、別の問いがつながってくる。紙があれば書きたい。書いて並べたい。原因と結果を分けたい。けれど、紙より足が先だった。今は、ノートより器。仮説より夕食。答えより、明日の朝に立てる足。
「アユミ」
エリナさんの声で、私は器へ意識を戻した。
「はい」
「もう少し食べられるかい」
「食べます」
私は器の底に残った豆の粒を、匙でそっと集めた。霜香草の香りは、もう最初ほど強くない。でも、鼻の奥に細く残っていた。昼に嗅いだ時のしゃっこさが、夕食の終わりにまだいる。
全部は分からない。
それでも、全部を考えようとして匙を止めるより、今はこの豆を食べる方がいい。
たぶん、それが今の順番だった。
「食べられたね」
エリナさんが言った。
「はい。ごちそうさまでした」
「よし。少ししたら、寝る前の用を済ませておいで。昨日と同じだよ。分からなければ呼ぶ」
用足し。
昨日の夜よりは、言葉を聞いて固まらずに済んだ。恥ずかしさがなくなったわけではない。けれど、手順として知っている。裏手へ行く。使うものを間違えない。終わったら灰と乾いた土を落とす。手を洗う。分からなければ呼ぶ。
それも、この家で夜を越すための手順だった。
「はい」
私は頷いた。
エリナさんは器を引き寄せ、底に残った豆の粒をちらりと見た。何も言わず、木匙を器の中へ戻す。猫の浅皿も火床から少し離された。アーミヤは皿が下げられるのを目で追ったけれど、追いかけはしなかった。
そこは少し偉い。
少しだけ。
火床の音が少し静かになっている。窓の外では、昼間の土や木や人の動きが薄れて、夜の色に沈んでいた。けれど昨日より、少しだけ周りを見る余裕がある。少なくとも、用足し場へ行く道が、ただ怖いだけの真っ暗なものではないと知っている。
丸くなりかけていた茶色い毛並みが、のそりと身体を起こした。
「アンタも来るの?」
小声で聞くと、しっぽが一度だけ動いた。
来るらしい。
王冠猫の護衛つき用足し。
情報量は相変わらず多い。
私は借りた服の袖を少し直し、立ち上がった。足は、さっきより楽だ。完全に自分のものみたいには歩けない。でも、今日はもう、それでいい。
エリナさんが小さな灯りを用意してくれる。
「外は月で少し明るいけど、足元は別だよ。すぐ戻るんだよ」
「はい」
戸口へ向かうと、家の中の火の匂いが背中に残った。豆の汁、霜香草、黒パン、猫の皿に入っていた鶏の薄い匂い。その全部が、家の中にある。
私は、アーミヤと一緒に戸口を出た。
外の空気が、頬に触れた。




