第5話 後編 触れていいものと、二つの月 ② 霜香草と、王冠猫
第5話 後編 触れていいものと、二つの月
① 紙と小さな用事
② 霜香草と、王冠猫
③ 夕食と、残る問い
④ 二つの月の下で
【アユミ視点/異世界生活二日目・昼〜夜】
② 霜香草と、王冠猫
紙より足が先。
マリナさんの言葉は短いのに、借りた靴の中で何度も転がった。さっきまで紙の端や布札の結び目を見ていた頭が、エリナさんに連れられてトルヴァン家の勝手口近くへ戻るころには、じわじわと足元へ引き戻されていく。
完全に家の中へ入るわけではなかった。勝手口の近くにある低い木台へ座らされ、私は言われるまま借りた靴を脱いだ。靴の中で巻いてもらっていた布は、思ったより斜めになっている。指の付け根のあたりに、薄く赤みが出ていた。赤い、と言われれば赤いくらいの色なのに、見てしまうと急にそこだけ自分の足ではないみたいに気になる。紙や木札や布札のことばかり考えていたあいだも、足はずっと小さく文句を言っていたのだと思う。私が聞いていなかっただけで。
「痛いところは?」
「痛い、まではいかないです。でも、歩くとここがちょっと当たって、気になります」
エリナさんは返事を急がず、私の指の付け根を見た。布をほどいた指が、一度だけ止まる。強く押すでもなく、ただ場所を確かめる手つきだった。昨日の夜に足を洗ってもらった時と似ている。遠慮はない。でも乱暴でもない。
「気になるなら、気になるでいいんだよ。痛いまで待たない」
「……はい。気になります」
「歩ける?」
「少しなら歩けます。でも、長く歩くなら直したいです」
「それでいい」
言葉を分けて答えただけなのに、少し息が抜けた。昨日なら、たぶん「大丈夫です」で全部まとめていた。今も、口の手前までは出かけた。でも、エリナさんに何度も直されたせいか、少しずつ言葉を分けられるようになっている。痛いのか。気になるのか。歩けるのか。止まるべきなのか。
それだけのことなのに、ここではかなり大事らしい。
いや、もともと大事なのに、私が雑にまとめていただけなのかもしれない。
「そういうのは、ひどくなる前に直すんだよ。紙は逃げないけど、足は放っておくと歩けなくなる」
「本当に、紙より足が先ですね」
「そういうこと」
布は、強く巻けばいいわけではないらしい。エリナさんは、赤くなっていた場所へ布の角が当たらないように、少しだけ角度を変えて巻き直していく。布の端を引く力はしっかりしているのに、指の付け根だけは避けている。巻かれていく感覚を見ていると、紙の端や木札の刻みを見ていた時とは別の意味で、物には向きがあるのだと思った。
木台の下で、しっぽの先がゆっくり揺れた。
アーミヤは、王冠を乗せた頭を少し傾け、エリナさんの手元と私の足を交互に見ている。前足をそろえたまま動かない。王冠つきの大きな猫に足の手当てを見守られる状況、冷静に考えるとけっこうわやである。
「アンタ、足の診察まで見届けるんね」
小声で言うと、うちの猫はゆっくり瞬きをした。
それは返事なのか、ただ眠いだけなのか。判断が難しい。
「立ってみな」
「はい」
靴を履き直して立つと、足裏の感触が変わっていた。さっきまで指の付け根へ当たっていた布が、少し後ろへ逃げている。完全に自分の靴みたいになったわけではない。けれど、かなり歩きやすい。
「どうだい」
「さっきより楽です。いずさが減りました」
「ならいい。少しだけ、マリナの用事に付き合うよ。疲れたらすぐ言うこと」
「はい」
マリナさんは、家の横手を回った先で待っていた。手には空の小桶と、畳んだ布がある。さっきの紙や木札とは違って、今度は匂いが先に来た。干し草。土。動物の温かい匂い。遠くから、山羊の声が短く聞こえる。鶏舎ほど騒がしくはない。でも、確かに生き物のいる場所だ。
「山羊の方へ行くよ。夕方に少し使う分を受け取る。多くはいらない」
「山羊乳ですか」
「そう。豆の汁に少し入れる」
山羊乳。
その単語を頭の中で小さく置いた。牛乳ではなく、山羊乳。現代でも聞いたことはあるけれど、普段の食卓に出ていたものではない。しかも、夕方の豆の汁に入れるらしい。
どんな匂いになるんだろう。
そう思った瞬間、視線がマリナさんの小桶へ戻った。マリナさんはその動きを見て、口元をほんの少し動かす。
「今、小桶の方を見たね」
「……分かりますか」
「分かるよ。紙の時もそうだったけど、気になるものがあると、目が戻る」
待って。そんなに分かりやすい? いや、分かりやすいのかもしれない。黒パンも豆の汁も、最初はただ食べるだけで精一杯だった。でも今は、少しだけ夕方の味を考える余裕が出てきている。
それはいいことなのか、食い意地なのか、判定が難しい。
山羊小屋は、母屋から離れすぎてはいなかった。木柵があり、その向こうに数頭の山羊がいる。羊も少し離れた囲いの中で草を噛んでいた。羊の毛は、思っていたよりも汚れた白で、絵本みたいにふわふわ真っ白ではない。けれど近くにいると、ここにいる生き物なんだと分かる匂いがした。干し草だけではない。土と毛と、体温のある匂い。鼻先だけで、共同炉や倉とは違う場所へ来たのだと分かる。
うちの王冠猫は、柵の手前でぴたりと足を止めた。
山羊も、草を噛んだまま見返す。
木柵を挟んで、無言。
いや、何この絵面。
異世界二日目で、私は山羊と王冠猫の無言会議を見せられている。山羊は口を動かしている。アーミヤは逃げない。近づきもしない。ただ、柵のこちら側で前足をそろえ、しっぽの先だけをゆっくり左右に揺らしていた。
アンタ、今、山羊と何の交渉してるんね。
「近づけすぎないよ」
エリナさんが言った。
「アーミヤが悪いんじゃない。山羊が驚くことがあるんだよ」
「はい」
「羊も同じ。向こうから寄ってきても、いきなり触らない」
「見るだけ、ですね」
「そう。見るだけ。相手が生き物なら、なおさらだよ」
私は柵の横木へ手をかけかけて、袖を握り直した。
紙の端へ伸びかけた時と、同じ止まり方だった。
山羊は草を噛みながらこちらを見る。羊は少し離れた囲いで、何事もないみたいに口を動かしている。触りたいと思っても、ここではまず、手を引っ込める。
山羊は柵の向こうにいる。私の手は、柵のこちら側にある。今はそれでいいのだと思った。アーミヤも、言われた距離を守っている。守っている、ように見える。しっぽの先がやけにゆっくり動いているのは、まあ、見なかったことにする。
小屋の方から、年配の女性が小桶を持って出てきた。名前はまだ分からない。マリナさんが挨拶をし、桶の中を確かめる。白い液体が少しだけ揺れた。
年配の女性は、その中身をマリナさんの空の小桶へ少し移した。量は多くない。夕食に少し使うという言葉通り、本当に小さな分け前らしい。
「今日はこれだけ」
「十分だよ。霜香草は?」
「干したのが少しある。生の方はまだ若い」
霜香草。
知らない言葉に、私は身を乗り出しかけて、途中で止まった。まず手を出さない。私は袖を握ったまま、年配の女性の手元を見る。女性は軒下に吊るしてあった小さな束をひとつ取った。青灰色の細い葉が、紐でまとめられている。乾いているのに、近づくとすっとした匂いがした。
ミントに少し似ている気もする。セージっぽい、とも思った。けれど、どちらかに決めようとすると、すぐ違うところが出てくる。
似ているものを頭の中で並べようとするのに、どれもぴったりはまらない。鼻に入った瞬間、空気の端だけが細くなる。冷たいわけではない。けれど、冬の日に窓をほんの少し開けた時みたいに、鼻の奥へひやっとした線が通る。
鼻の奥が、ちょっこししゃっこくなる匂いだった。
「これは……香草ですか」
「霜香草だよ」
マリナさんが答える。
「山羊乳や豆の匂いをやわらげる。入れすぎると、冷えたみたいな匂いになるから、少しだけ」
「冷えたみたいな匂い」
「嗅いでみるかい。触らないで、鼻先だけ近づけて」
「はい」
私は手を出さず、葉の束へ鼻先だけ近づけた。
乾いた葉なのに、鼻に入った瞬間、やっぱり涼しい感じがした。香りだけが先に来て、舌の奥にほんの少し苦みの予感が残る。これが夕方の豆の汁に入るのかと思うと、味の想像がうまくまとまらなかった。豆。山羊乳。霜香草。黒パン。頭の中で並べても、まだ料理の形にならない。
でも、気になる。
なまら気になる。
「……しゃっこい匂いがします」
「しゃっこい?」
マリナさんが少し首を傾げる。
「あ、冷たい、みたいな意味です。私のところの言い方です」
「へえ。なら合ってるね。霜香草だし」
マリナさんはそう言って、霜香草の束を小袋へ入れた。
私の言葉が、少しだけ通じたような気がして、胸の中が軽くなる。もちろん、全部ではない。けれど、匂いに対して「しゃっこい」と言ったら、この世界の霜香草という名前と、少しだけ重なった。
不思議だ。
言葉が分かることとはまた別に、感覚が合ったみたいで。
鼻先が、横からすっと伸びてきた。
「アーミヤ、そこはだめ」
私が止めると、茶色い毛並みは霜香草の束から鼻を離した。でも、しっぽの先だけはまだ小さく動いている。今度は山羊乳の小桶へ鼻先が向きかけたので、私は小声で続けた。
「それはまだ、もらっていいか分からないやつだからね」
耳だけがこちらへ向いた。
聞いているのか、聞いていないのか。信頼できるような、できないような。王冠をかぶっていても、そこは猫だった。
その時、近くの犬が低く喉を鳴らした。
びくっとしたのは、たぶん私だけだった。
犬は木柵の向こう、家畜小屋の端にいた。番犬だろう。立ち上がり、こちらを見る。吠えるかと思った。でも、吠えなかった。鼻を動かし、王冠のあたりを見て、それから少し距離を取ったまま、じっとしている。
王冠猫も動かない。
逃げない。近づかない。前足だけをきれいにそろえて、番犬の方を見ている。しっぽは大きく振らない。先だけが一度、細く動いた。
いや、アンタ強いな。
私は小さく息を吐いた。番犬の方も、すぐに騒ぐつもりはないらしい。ただ、こちらを見ている。知らないものを見て、距離を測っている。山羊や羊と同じで、この子にも、急に近づかれたくない場所があるのだと思った。
エリナさんは、犬と猫の間にある空気を見て、短く言った。
「近づけすぎないよ。犬が悪いんじゃない。アーミヤが悪いわけでもない。ただ、急に距離を詰めると、どっちも驚く」
「はい」
アーミヤは、分かっているのかいないのか、そこでゆっくり瞬きをした。
番犬はもう一度鼻を動かし、木柵のそばへ戻る。吠えない。でも完全に無視もしない。時々こちらを見る。こちらも見すぎない。近づかない。
犬は吠えなかった。
でも、こちらから目を外しもしない。
それで十分だった。
マリナさんは山羊乳の小桶に布をかけ、霜香草を別の小袋に入れた。手つきが早い。けれど、束の向きや紐の締め方に迷いがない。今朝から見ていると、マリナさんの手はいつもそうだ。袋、札、紙、桶。何を触っても、どこまで触っていいかを知っている手だった。
「夕方に少し使うよ」
「山羊乳と霜香草をですか」
「そう。黒パンに合わせる汁へ少し。多く入れると子どもが嫌がる」
「子どもも食べるんですね」
「食べるよ。好き嫌いは別だけどね」
その言い方が妙に現実的で、私は少し笑いそうになった。
異世界でも、子どもは香草が強いと嫌がるのかもしれない。そう思うと、急に山羊乳と霜香草が遠いものではなくなった。知らない名前の食材なのに、夕方の汁の中に少し入って、誰かが食べて、誰かが匙を止めるかもしれない。
それは、ちょっとだけ想像しやすい。
小屋の脇を通る時、木の上にかけられた巣箱が見えた。
私は足を止めかけて、すぐエリナさんを見た。勝手に近づかない。見るだけ。近づいていいかは、聞いてから。
「あれ、前にトルヴァンさんが言っていたフクロウの巣箱ですか」
「そうだよ」
エリナさんが頷く。
鼠を取ってくれる、という話はもう聞いた。だから、同じことを聞かないように、少し考えてから口を開く。
「手入れもするんですか」
「荒らさない程度にね」
マリナさんが小さな籠を手に、巣箱の下へ目を向けた。落ちていた小さな羽根を、直接手ではなく布越しに拾う。古い敷き草らしきものも少し見ている。巣箱そのものへは、むやみに手を伸ばさない。下を見る。周りを見る。触るのは、落ちているものだけ。
「来てくれる相手だから、触りすぎると来なくなる。汚れがひどいか、羽根が落ちてないか、下だけ見ることが多いね」
「飼ってるんじゃなくて、来てもらってる」
「そういうこと」
横で、アーミヤが王冠を載せた頭を木の上へ向けた。
いや、そこは張り合うところじゃないからね。
フクロウにはフクロウの仕事がある。アンタはまず、袋に鼻を突っ込まないところからです。
しっぽの先が、ぴん、と小さく動いた。
何となく、抗議された気がする。気のせいかもしれない。でも今の私は、王冠猫とフクロウの持ち場争いまで面倒を見る余裕はない。ゆるくない。絶対に無理。
マリナさんが羽根を籠へ入れ、軽く布をかけた。
「これは捨てるんですか」
「状態を見る。きれいなら子どもが拾いたがるけど、巣の下のものは勝手に触らせない」
「はい」
「ここも同じだよ。来てもらう相手の場所だから、こっちの都合でいじりすぎない」
こっちの都合でいじりすぎない。
その言葉を聞いて、私はさっきの紙を思い出した。木札も、布札も、空の籠も、勝手に動かしていいものではなかった。フクロウの巣箱も同じらしい。
見たい。触りたい。知りたい。
でも、伸びかけた指は、また袖の中へ戻った。
袖を握った指には、さっき柵へ伸びかけた時の力がまだ少し残っていた。
「アユミ、戻るよ」
エリナさんが言った。
「はい」
「足はどうだい」
「さっきより楽です。少し気にはなりますけど、痛くはないです」
「ならいい。夕方まで少し休ませるよ。さっきから、返事の前に息を吸ってる」
「……そんなところまで分かりますか」
「分かるよ。あんた、見ているだけでも肩が上がってる」
即答だった。
マリナさんも、山羊乳の小桶と霜香草の小袋を持ちながら、こちらを見た。小桶の方へ私の目がまた戻ったことにも、たぶん気づいている。
「夕方に少し使うから、味はその時だね」
「はい」
また分かりやすかったらしい。
私は頬を押さえたいのを我慢した。
帰り際、アーミヤはもう一度だけ山羊の方を見た。
山羊も見返した。
だから何の会議なの、それ。
私だけ議題を知らないんだけど。
番犬は柵の向こうで、こちらを時々見ている。フクロウの巣箱は、木の上で静かだった。霜香草は夕方の汁に入る。山羊乳も、食卓へ来る。巣箱は触りすぎずに見守られる。犬は吠えずにこちらを見る。うちの猫は、王冠をのせたまま、なぜか少し足取りを整えて歩いている。
アーミヤたん、アンタ本当に何してるん。
問い詰めても答えは返ってこない。猫だから。王冠をかぶっていても、猫だから。
手元には何も持っていないのに、鼻の奥には霜香草のしゃっこい匂いが残っている。
夕方の豆の汁に、この山羊乳と霜香草がどう混じるのかは、少し気になった。
私は借り靴の中で足を踏み直し、エリナさんたちの後を追った。足布の当たりはまだ少しある。でも、紙のことばかり考えていた時より、足はちょっこし前へ出やすかった。




