第5話 後編 触れていいものと、二つの月 ① 紙と小さな用事
第5話 後編 触れていいものと、二つの月
① 紙と小さな用事
② 霜香草と、王冠猫
③ 夕食と、残る問い
④ 二つの月の下で
【アユミ視点/異世界生活二日目・昼〜夜】
① 紙と小さな用事
共同炉を出ると、外の空気が少しだけ軽かった。
火のそばにいたせいだろう。朝には涼しいと思った風が、頬へ触れると気持ちいい。服にも髪にも、黒パンと粉と鍋の湯気の匂いが残っていた。借りた白いブラウスの袖口には、ほんの少し粉の気配が移った気がして、私は無意識にそこを見た。
昨日の夜に借りた服だ。
私のものではない。けれど、もう一晩分の寝床の匂いと、今朝の共同炉の匂いを吸っている。白雪家の洗剤の匂いでも、制服の布の匂いでもない。火と粉と、木の家と、人の手の匂い。自分の服ではないのに、今の私を包んでいるのは、この布だった。
嫌ではない。
でも、慣れたわけでもない。
足元で、アーミヤがふわりとしっぽを動かした。共同炉の柱の脇でずっと大人しくしていたくせに、外へ出た途端、しっぽを立てて私の横へ並ぶ。王冠は相変わらず頭の上にあり、昼の光を受けて、縁がかすかに光っていた。
アンタ、なんでそんなに村の朝に馴染んでるんね。
内心でそう言うと、アーミヤたんは返事の代わりに鼻先を少し上げた。共同炉の方へ、まだ何か匂いを追っている。
たぶん干し海老だ。
いや、たぶんじゃない。絶対に干し海老だ。あの袋が棚へ戻されてから、さっきもちらっと見ていたのを私は知っている。
「アーミヤ、行くよ」
小声で呼ぶと、その大きな猫は、しっぽの先だけを動かして、こちらへ歩いてきた。呼ばれたから来たというより、自分でもそちらへ行くつもりだったみたいに、足取りだけはゆったりしている。
猫のそういうところ、ほんとに強い。
エリナさんは共同炉の入口から少し離れたところで待っていた。私の歩幅を見て、足元へ視線を落とす。借りた靴の中で、巻いてもらった布が少しずれているのは、自分でも分かっていた。痛いほどではない。でも、歩くたびに指の付け根あたりへ小さく当たる。
「足は?」
「少し、いずいです。でも痛くはないです」
「長く歩くなら直した方がいいね。今は少しだけ用事を済ませて、それから戻ろう」
「はい」
答えてから、私は少しだけ自分に驚いた。
昨日なら、たぶん「大丈夫です」で済ませていた。今もそう言いそうになった。でも、エリナさんに何度も直されたせいか、少しだけ分けて言えるようになっている。痛いのか、気になるだけなのか。すぐ止まるほどか、少しなら歩けるのか。
それだけのことなのに、この世界ではかなり大事らしい。
いや、もともと大事なのに、私が雑にまとめていただけかもしれない。
「ハンナはまだ火の前だよ」
エリナさんが、共同炉の方へ目だけ向けた。
中からは、まだ人の声と、器が置かれる音が聞こえている。朝の山は越えたように見えたけれど、火の前の仕事が終わったわけではないらしい。ハンナさんの声が一度、短く飛んだ。誰かが返事をする。黒パンの籠がもうひとつ外へ出され、布をかけられた。
「こっちは、マリナの方へ少し寄るよ。見るだけ。触るなら聞く」
「はい」
見るだけ。触るなら聞く。
もう何度も聞いた言葉なのに、場所が変わるたびに重みが変わる。共同炉では、火と鍋と器だった。倉の前では、籠と袋と木札。今度はマリナさんの用事だという。今朝見たマリナさんは、干し海老の袋を使い切らずに棚へ戻し、必要な分だけを共同炉へ渡していた人だ。
たぶん、触ってはいけないものが多い。
私は、足元を確かめてからエリナさんについて歩いた。共同炉の熱が背中から少しずつ離れる。代わりに、倉の木の匂いと、乾いた袋の匂いが近づいてきた。広場の脇を通る人たちの足音が混じる。井戸の方では水桶が置かれ、桶の縁からこぼれた水が土へ小さな濃い跡を作っていた。
マリナさんは、共同倉の横手にある低い作業台の前にいた。
大きな荷を広げているわけではない。台の上には、木札がいくつか、細い紐で束ねた布札、そして小さな紙の束が置かれていた。
紙だ。
そう気づいた瞬間、私の視線はそこに吸い寄せられた。
この世界にも、紙がある。
昨日から、木の器や布や火床や黒パンばかりを見てきたせいで、紙というだけで妙に懐かしかった。白雪家の机。課題ノート。余白に引いた線。問題を分けるための小さな囲み。パパンが言っていた条件分けを勝手に図にしたページ。ママンに「また細かく書いてる」と笑われたノート。
胸より先に、指が動きかけた。
紙の端を押さえる癖。余白を探す癖。何かを書き留める前に、まず紙が逃げないようにする癖。
でも、止めた。
触らない。
紙はある。でも、ここにある紙は私のノートではない。台の上に置かれていて、マリナさんが見ている。木札や袋と同じで、きっと置き場所と扱いがある。
マリナさんは私の手に気づいたらしい。紙の上に手を置くのではなく、少しだけ横へずらして、私の方を見た。
「紙が珍しい?」
「……少し。あるんだ、と思って」
言ってから、変な答えだと気づいた。
あるんだ、なんて、こちらの人からすれば当たり前かもしれない。けれど、マリナさんは声を尖らせなかった。エリナさんも、変だとは言わなかった。ただ、マリナさんが紙の束を軽く指で押さえ、その端をそろえた。
「あるよ。けど、何にでも使うものじゃない」
「はい」
「書付や帳面には使う。あとで残す必要があるものだね。すぐ動かすものや目印なら、木札や布札の方が多い」
マリナさんは、紙の隣に置かれた木札を指した。薄い板に、刻みと短い印のようなものがある。布札は色と結び方で分けているらしい。
私は紙の束へ、もう一度目を向けた。
細かな線が並んでいる。文字だ。
その意味は、見た瞬間に頭へ入ってきた。
今日の分。豆袋。空籠。布。戻し。
細かな全部を追う前に、私は慌てて視線を外した。読める。読めてしまう。けれど、これは私のための書付ではない。マリナさんの手元にあるものだ。意味が分かるからといって、勝手に読み込んでいいわけではない。
それに、読めることと、書けることは別だった。
紙に残された意味は、なぜか頭に入ってくる。何が書かれているのかは分かる。けれど、その線を自分の手で写せと言われたら、たぶん無理だ。形が手に残らない。線の曲がり方も、どこから書き始めるのかも、どの印がどの音なのかも、分かった気がしない。
読めているのに、書けるわけではない。
私の知っている「読める」とは、少し違う。
なまら便利なのに、なまら不便。
それが妙に落ち着かなかった。
その時、広場の方から細い風が流れた。
紙の端が、ふわりと浮いた。
私は反射的に手を出しかけた。めくれそうな紙を押さえる。日本の机なら、たぶん何も考えずにそうしていた。けれど、指が紙へ届く前に止まった。
触らない。
紙の端はまだ揺れている。下に、別の薄い布札が少し見えた。もし私が上から押さえていたら、紙と一緒にその布札の向きも変えていたかもしれない。
マリナさんの手が横から伸びた。濡れていない指で木片の重しを持ち、紙の端へ置き直す。紙はそこで落ち着いた。下の布札も、元の位置から動かなかった。
「今のは、止まってよかったね」
マリナさんが言った。
「……はい」
「紙は軽いから、つい押さえたくなる。でも、下に何があるか見えない時は、先に聞く」
「はい」
指先が、少しだけ熱くなった気がした。触っていないのに、触りそこねた感触だけが残っている。
私は手を自分の前へ戻した。共同炉で布を取った時より、ずっと小さなことなのに、止まっただけで息をひとつ使った気がする。
「紙は、捨てるためのものじゃないんですか」
口にしてから、少しだけ身が縮んだ。
自分で聞いておいて、質問が雑だった気がしたからだ。現代日本の感覚で言えば、紙はメモにもティッシュにも包装にも使われて、家の中で何枚も消える。でも、ここではそうではないのかもしれない。
エリナさんが横から答えた。
「捨てる紙もないわけじゃないよ。でも、書く紙と同じには扱わないね。用足しに使うなら、苔や麻屑や粗い拭き紙を使い分ける。書付に使う紙を、ぽんぽん捨てるようなことはしない」
昨日の夜の用足しを思い出して、私は少しだけ耳が熱くなった。
乾いた苔。麻屑。灰と乾いた土。手桶。布。エリナさんの説明は淡々としていたけれど、あの時の私は、それどころではないくらい緊張していた。今聞くと、紙の扱いまでその手順の中に入っていたのだと分かる。
「……紙にも、種類があるんですね」
「あるね」
エリナさんが頷く。
「でも、今覚えるのはそこまででいいよ。これは書付。勝手に触らない」
「はい」
マリナさんが、紙から布札へ視線を移した。
「アユミ、これを見て」
「はい」
指されたのは、細い紐でまとめられた布札だった。白っぽいもの、茶色っぽいもの、青灰色の糸が縫い込まれているものがある。文字はない。けれど、結び方が違う。
「これは触っていいですか」
「見るだけ。触るなら、私が渡す」
「はい」
マリナさんは一枚だけ布札を取り、私の方へ差し出した。私は両手を出しかけて、止まる。
「受け取っていいですか」
「いいよ。端だけ」
端だけ。
私は布札の端をつまむように受け取った。軽い。紙よりも少し厚く、布なので曲がる。端に結び目がある。小さな糸が二本、違う色で縫われている。何かの印なのだろう。
「それは、今日中に動かすものにつける布札」
マリナさんが言った。
「今日中」
「そう。紙に書くほど長く残すものじゃない。木札より軽くて、籠や布に結びやすい」
「色や結び方で、違うんですか」
「違う。けど、今は覚えなくていい」
「はい」
「聞かれたら答える。でも、勝手に読めたつもりにならない」
「はい」
布札を持った指に、少しだけ力が入った。
勝手に読めたつもりにならない。
紙でも、木札でも、布札でも、同じだ。意味が頭に入るものもある。見ただけでは分からないものもある。どちらにしても、私の知っている分類と、この村の分類は違う。色が違うからこう、結び方が違うからこう、と勝手に決めたら間違えるかもしれない。今の私は、意味を知る前に、そこに意味があるらしいと知るだけでいい。
「返します」
私は布札を差し出した。
マリナさんはそれを受け取り、元の束へ戻す。向きをそろえる手つきが速い。けれど雑ではない。端をそろえ、結び目の向きをそろえ、木札とは別の小さな箱へ入れる。その動きを見ているだけで、ここでも置き場所が大事なのだと分かる。
アーミヤが、私の足元から少し離れた。
鼻先が、台の下に置かれた袋の方へ向いている。袋の口は固く結ばれていて、札もついていない。中身が何かは分からない。猫の鼻には、分かるのかもしれない。
「アーミヤ、そこまで」
私は小声で言った。
王冠猫は、耳だけをこちらへ向ける。
「袋に鼻近づけすぎないで。ここ、勝手にちょしたら……触ったら、絶対だめなところだからね」
しっぽの先が、ゆっくり揺れた。
分かっているのか、分かっていないのか。いや、たぶん分かっている。分かっていて、猫として興味はある。そういう揺れ方だった。アーミヤは、袋から少しだけ離れて座り直した。王冠が台の影から出て、光を受ける。
勝手に触ったら絶対だめなところ。
猫へ言った言葉が、そのまま自分の手元へ戻ってきた。紙も、袋も、布札も、空籠も。たぶん、ここでは同じだ。
近くを通った子どもが、王冠に目を止めた。
でも、触りに来ない。見るだけ。ここでも、見るだけ。
私はその子を見て、自分も同じだと思った。見たい。触りたい。知りたい。でも、手は出さない。出すなら聞く。
マリナさんが、今度は小さな空籠を指した。
「それ、向こうの台へ。中は空。札もない。持っていい」
「はい」
私は念のため、もう一度見た。木札はない。布札もない。中身もない。エリナさんを見ると、頷いた。
「持っていいよ。両手で」
「はい」
籠の縁を持つ。
共同炉で持った籠より、小さい。けれど、取っ手は少し細い。片手で持てそうだが、両手で持つ。借りた服の袖が縁に触れないように、少しだけ腕を上げた。
籠を持つと、思ったより足元が見えにくい。
その瞬間、靴の中で足布が指の付け根に当たった。さっきから気になっていた小さないずさが、急に主張してくる。
紙を見たい。文字を見たい。もっと札を見たい。
でも、足が先に「ここ」と言ってくる。
私は歩幅を小さくした。ちょうどその時、横から袋を抱えた若い人が通った。慌てて避けようとして、籠が少し傾く。
「急がなくていい」
マリナさんの声が飛んだ。
私はその場で止まった。籠は空だ。けれど、落とせば音がする。転がれば拾う人がいる。空でも、誰かの手を増やす。
「すみません」
「謝るより、止まる方が早いよ」
「はい」
深く息を吸って、足を置き直す。向こうの台、というのがどこなのか一瞬分からない。
私は止まったまま聞いた。
「向こうの台って、あの低い台ですか」
「そう。紙のない方」
マリナさんが短く答える。
紙のない方。
なるほど、ではなく、今はその言葉の通りに動く。私は低い台の前へ行き、籠を置いた。置きかけて、向きが気になった。
「向きは、このままでいいですか」
「厚い縁が手前」
「はい」
籠を少し回して置き直す。
今度は、指をかける厚い縁がこちらを向いた。次に持つ人が取りやすいのだと思う。そう考えかけて、私はまた止めた。たぶん、そう。けれど、今は「そう教わった」とだけ置いておく。
「いいよ」
マリナさんが言った。
「ありがとうございます」
「礼はいい。次も聞けばいい」
共同炉で聞いたような返しだ。マリナさんらしい。褒めるというより、次に同じように動けと言われている感じがする。
私は小さく頷いた。
紙の束が、また視界の端に入る。
粗い端。木片の重し。細かな線。見れば意味は入る。けれど、書けない。手に残らない。触りたい。読み込みたい。書きたい。
でも、紙の前で考え始める前に、何を書くか決める。
マリナさんの言葉が、紙の上ではなく、私の指の中に残っていた。
「紙を見てから、手が落ち着いてないね」
エリナさんが言った。
「……そんなに分かりますか」
「分かるよ。袖を押さえたり、指を握ったりしてる」
言われて、自分の手元を見る。
本当だ。
私はいつの間にか、袖口を握ったり開いたりしていた。何かを書けない代わりに、指だけが落ち着き場所を探している。
マリナさんが、紙の束をそろえながら言った。
「書きたいなら、まず何を書くか決めることだね。紙を前にしてから考えるものじゃない」
「……はい」
これは刺さる。
ノートが手元にあると、とりあえず何かを書きたくなる。線を引きたくなる。分けたくなる。名前をつけたくなる。書くことで落ち着く癖がある。けれど、ここでは紙を落ち着くために使えない。しかも、仮に紙をもらえても、私はこの世界の文字を書けない。
今の私は、まだ客で、借りた服で、借りた靴で、文字の形を知らない。
紙を欲しがるより先に、見るものが多すぎる。
「今は覚える方が先だよ」
エリナさんが言う。
「はい」
「忘れそうなことは、あとで誰かに聞けばいい。全部頭へ詰めようとしなくていい」
それは、ありがたいような、怖いような言葉だった。
私は忘れそうだから書きたい。書けばそこへ置いておける。頭の中で転がし続けなくて済む。でも、この世界では、紙を気軽に使えない。使えたとしても、今の私は現地の文字を書けない。なら、書く前に、聞く相手と、覚える順番を考えないといけない。
マリナさんの指は、紙から木札へ、木札から布札へ、迷わず移っていく。私はまだ、その順番を目で追うだけだった。
マリナさんが紙の端へ置いた木片を、もう一度指で軽く押さえた。
「見たいなら、また見ればいい。勝手に触らないならね」
「はい」
「文字のことは、あとで誰かに聞きな。今ここで詰めても、足が痛くなるだけだよ」
「……はい」
そこまで見られていたのか。
私は少しだけ耳が熱くなった。エリナさんは笑わない。ただ、当たり前のように私の歩く場所を少し空けてくれる。
「痛みは?」
「痛くはないです。でも、さっきより気になります。指の付け根のあたりです」
「よし。ちゃんと言えたね」
エリナさんはそれだけ言って、マリナさんへ目を向けた。
「この子を一度戻すよ。足を直して、少し食べさせる」
「そうしな。紙より足が先だよ」
マリナさんが言った。
紙より足が先。
それは、かなり刺さる言葉だった。
私は紙を見た。粗い端、木片の重し、細かな線。見れば意味は入る。けれど、書けない。手に残らない。触りたい。読み込みたい。書きたい。でも、今の私がこの村で立っているためには、紙より先に足がいる。借りた靴の中でずれた布を直さなければ、次の場所へも行けない。
そういう順番なのだ。
「分かりました」
私は素直に答えた。
アーミヤも立ち上がり、伸びをしてから私の横へ来た。袋への未練はあるのかもしれないが、今はちゃんとついてくるらしい。
「アンタも行くよ」
王冠猫は、聞こえているのかいないのか、優雅にしっぽを上げた。
共同炉の火の匂いは、まだ遠くにあった。倉の木と紙と布札の匂いが少しずつ後ろへ離れていく。私の指には、さっき持った布札の端の感触と、空籠の縁の感触が残っていた。
紙はあった。
意味も、なぜか分かった。
でも、まだ私のものではない。
この世界の文字も、まだ書けない。
書きたいことは山ほどある。けれど、今の私を次の場所へ連れていくのは、紙ではなく、この借り靴の中の足だった。
なまら地味だ。
でも、地味なところからしか動けない。
私はエリナさんの後を追った。指の付け根に当たる布のいずさが、紙へ戻りかける頭を、何度も地面へ戻してくれた。




