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第5話 中編 共同炉の朝 ④ 見ているだけでは済まない

第5話 中編 共同炉の朝


① 粉の匂いと火の前


② 黒パンの順番


③ 干し海老と交換の味


④ 見ているだけでは済まない


【アユミ視点/異世界生活二日目・朝】


④ 見ているだけでは済まない


 聞いてから触った。


 たったそれだけのことなのに、布を戻した指先から、余計な力が少し抜けた。布の端をつまんで台へ戻しただけ。熱い器には触っていないし、鍋にも粉にも手を出していない。村の朝を動かした、なんて大げさなことでは全然ない。それでも、勝手に動かなかった。聞いてから、許されて、それから動いた。


 その順番を守れたことが、今の私には大きかった。


 共同炉の中では、相変わらず火と粉と湯気が動いている。黒パンの焼ける匂いは濃くなり、鍋の方からは干し海老と豆と乳の丸い香りが漂ってくる。ハンナさんは、私が戻した布の上へ器を置き、その熱さを確かめるように少しだけ指を近づけた。それから何でもないことみたいに頷き、次の器へ手を伸ばす。


「アユミ、その布は触っていい。木札は触らない」


「はい」


「熱い器はまだ駄目。空いた器なら、言った場所へ寄せていいよ」


「分かりました」


 言われた瞬間、背筋が少し伸びた。


 仕事を任された、というほどではない。きっと、ここにいる人たちから見れば、子どもでもできるような小さな手伝いだ。でも、私にとっては、共同炉の中で初めてもらった「やっていいこと」だった。見ているだけの場所から、ほんの少しだけ前へ出る。けれど、前へ出すぎない。そこが大事なのだと思う。


 私は、まず足元を見た。


 炉の前へ近づきすぎていないか。通り道を塞いでいないか。借りた靴の中で、エリナさんが巻いてくれた布がずれていないか。足の指を少し動かすと、布がほんの少しだけ肌へ当たった。痛いほどではない。けれど、今の場所を忘れないための小さな合図みたいだった。


 空いた器がひとつ、台の端へ置かれる。


 私はすぐ手を伸ばしそうになって、止まった。


「これ、こっちへ寄せてもいいですか」


「いいよ。底は熱くないけど、縁を持ちな」


 ハンナさんが鍋を混ぜながら答える。


 私は器の縁を持ち、言われた場所へ移した。軽い。中身がないので、少し拍子抜けするくらい軽い。けれど、木の器の表面にはさっきまで汁が入っていた温もりが残っていて、指にじんわり移った。


「そこじゃなくて、もう一つ奥」


「あ、はい」


 慌てて置き直す。


 その瞬間、少しだけ頬が熱くなった。間違えた。とはいえ、怒鳴られるほどのことではない。ハンナさんも、エリナさんも、大きく反応しない。ただ、正しい場所を言って、私が直す。それで終わりだった。


 それが、逆にありがたかった。


 失敗したら大ごとになる、という緊張も必要だけれど、全部の小さな間違いで大騒ぎされたら身体が固まる。今の私は、まだ共同炉の置き場も人の動きも知らない。だから、間違える前提で止めてもらえるのが助かる。


「分からなかったら止まる。それでいいよ」


 ハンナさんが言った。


「止まって聞く方が、あとで直すより早い」


「はい」


 その言葉は、すごく現実的だった。


 遠慮でも、根性でもなく、早いから聞け。間違えたものを戻す手間を考えたら、分からない時点で止まる方がいい。そう言われると、聞くことへの恥ずかしさが少し減る。知らないことを知らないまま動く方が、ずっと迷惑なのだ。


 エリナさんが、横から布を一枚差し出した。


「これをハンナへ。端を持って。濡れてる方を下にしないように」


「はい」


 私は両手で受け取った。


 布は少し厚く、片側だけ湿っていた。湯気を受けたのか、器を包んでいたのか、手のひらにぬるい感触が残る。言われた通りに乾いた側を外へ向け、ハンナさんの手元へ差し出す。ハンナさんは生地を扱っていた手をいったん粉で払ってから、布を受け取った。


「うん。向きはそれでいい」


 それだけ。


 でも、私はまた少しだけ息を吐いた。


 言われた通りにできた。ひとつだけ。ほんの小さなことだけ。でも、できた。


 共同炉の外から、小さな足音が近づいてきた。


 振り向くと、昨日広場で見かけた子より少し大きいくらいの女の子が、空の籠を抱えて入ってくるところだった。十歳前後だろうか。腕いっぱいに籠を抱えているけれど、足取りに迷いはない。入口のところで一度だけ立ち止まり、ハンナさんの方を見る。


「ハンナさん、空いた籠、ここでいい?」


「その札のは奥。布が青い方は手前」


「うん」


 女の子は、言われた通りに籠を分けた。


 小さな手なのに、置き方は慣れている。木札には触るけれど、札の向きを勝手に変えたりはしない。布の端がずれているものだけ、指で軽く整える。私よりずっと自然だ。私が少しでも間違えそうなことを、その子は何でもない朝の仕事としてやっている。


 胸の奥が、少しだけもちょこい。


 年下の子に負けた、というより、この村での年季がまるで違うのだと思い知らされた感じだ。私が高校三年生だろうが、勉強ができようが、ノートを分類するのが得意だろうが、共同炉ではこの子の方がずっと先輩なのだ。


「その子、ハンナさんの手伝いですか」


 小声で聞くと、エリナさんが頷いた。


「できることをしてるんだよ。小さい子でも、運べる籠はある。年寄りでも、座って布を畳める人はいる。火の前に立てる人だけで朝が回るわけじゃないからね」


 火の前に立てる人だけで朝が回るわけじゃない。


 私は、今入ってきた女の子の背中を見た。籠を置き終えると、すぐ次の空籠を取りに行くらしい。走らない。でも遅くもない。共同炉の人の流れに合わせた速さで、入口の方へ戻っていく。


 その途中で、アーミヤの前を通った。


 女の子は一瞬だけ足を止めた。王冠を見て、アーミヤの大きさを見て、少しだけ目を丸くする。でも、触ろうとはしなかった。気になるものへすぐ手を伸ばさない。その距離の取り方も、この村ではもう小さいころから身についているのかもしれない。


「……猫?」


 小さく言う。


「アーミヤです」


 私が答えると、女の子は「アーミヤ」と繰り返した。


 アーミヤは、前足を揃えたまま動かない。しっぽの先だけが、ゆっくり揺れた。


「王冠、ついてる」


「ついてるねえ」


 ハンナさんが鍋の方から普通に返した。


「でも、今は火の近くだから、触らないよ」


「うん」


 女の子はそれで納得したらしい。少し名残惜しそうにしながらも、籠を取りに出ていった。


 アーミヤたんは、当然みたいな態度を崩さない。


 アンタ、また村内知名度上げたね。


 内心でそう言うと、アーミヤたんが一度だけ瞬きをした。分かっているのかいないのか、相変わらず読めない。読めないけれど、共同炉の邪魔をしないでいてくれるのは助かった。王冠つきの大型猫が共同炉で大暴れするのだけは、今の私にはゆるぐねえ。絶対に無理。


 ハンナさんの声が、また飛ぶ。


「アユミ、その空いた籠、手前へ寄せられるかい。札は触らない。籠の縁だけ持って」


「はい」


 私は言われた籠を見る。


 木札がついている。触らない。布が中に敷かれている。中身は空。熱くない。なら、持てる。


 手を伸ばし、籠の縁を持つ。軽いけれど、思ったより大きい。腕の中へ入れると、木の編み目が袖にひっかかりそうになった。私は少しだけ身体の向きを変えて、ハンナさんが示した手前の台へ寄せる。置く時に、隣の籠へぶつけないように気をつけた。


「そこ」


 ハンナさんが言う。


 私は手を離す。


「はい」


「うん。できるじゃないか」


 その言い方は軽かった。


 大げさに褒められたわけではない。けれど、籠から手を離したあと、指先の力が少し抜けた。できるじゃないか。たぶん、共同炉の中ではごく小さな言葉だ。でも、今の私には、ちゃんと足場になる。


 エリナさんは、横でそれを見ていた。


 止める必要がある時は止める。そうでない時は口を挟まない。私が籠を置き終えてから、ほんの少しだけ頷く。それだけだった。その頷きが、また効く。エリナさんに過剰に庇われているだけではなく、見られながら、許された範囲で動いているのだと分かる。


 棚の方では、マリナさんがさっきの干し海老の袋をもう一度確かめていた。口を締め、棚の奥へ戻し、ほかの袋とぶつからないよう少しだけ位置を直す。私の方へ長く視線を向けることはない。ただ、私が籠の札へ触らなかったことだけは、見ていたらしい。


「札は触らなかったね」


「はい。触るなと言われたので」


「それでいいよ。保存の袋も同じ。中身が分からないものは、袋の見た目で判断しない」


「はい」


「火の前はハンナに聞く。棚は、私かエリナに聞く。そうしておけば、大きくは間違えない」


 マリナさんはそれだけ言って、また棚へ視線を戻した。


 長く説明しない。


 でも、触っていいものと悪いものが少し増えた。共同炉の中には、火の前の決まりと、棚の決まりがある。ハンナさんが見ている場所と、マリナさんが見ている場所がある。今の私は、それを全部覚えられない。だから、聞く相手だけでも間違えないようにする。


 共同炉の中では、黒パンの籠が少しずつ外へ出始めていた。


 焼き上がったものをすぐに全部配るわけではないらしい。熱を落ち着かせるもの。先に回すもの。共同炉の中へ残すもの。籠に入れられた黒パンは、布をかけられたり、蓋代わりの板を載せられたりしている。外へ出る籠には、持つ人がつく。空の籠が戻る。戻った籠は、布を替えてまた待つ。


 朝の共同炉は、出たり入ったりしている。


 黒パンだけではない。汁の器もある。小さな別鍋もある。誰かが持ってきた干し菜の袋が棚へ戻され、塩袋が結ばれ、香草の器が片づけられる。使ったものをそのままにしない。次に使う人が分かる場所へ戻す。その繰り返しが、火の前にある。


 私は、言われた時だけ動いた。


 空いた器を寄せる。


 布を渡す。


 熱いものには触らない。


 札には触らない。


 籠の置き場は、聞いてから。


 たったそれだけなのに、頭の中はかなり忙しい。学校のテストみたいに問題文があるわけではない。いま自分が触っていいものと、触ってはいけないものを、その場で見分ける必要がある。分からなければ止まる。聞く。許されたら動く。


 その繰り返しが、少しだけ身体に入ってきたころ、私はうっかり別の籠へ手を伸ばしかけた。


 見た目には空の籠だった。布も敷かれている。位置も少し邪魔そうに見えた。動かした方がいいのかな、と思った瞬間、手が前へ出る。


 でも、途中で止めた。


 木札がついている。


 さっき、札には触らないと言われた。


「これは、動かさない方がいいですか」


 聞くと、ハンナさんが振り返った。


「それはそのまま。まだ取りに来る家が決まってない」


「はい」


「今、止まったのはよかったよ」


 言われて、私は少し驚いた。


「止まったのが、ですか」


「そう。分からない時に、手だけ先に行く方が困る。止まれば聞ける」


 私は籠から手を引いた。


 借りた靴の中で、足の布がまた少しだけずれる。小さないずさが、足元へ戻ってきた。さっきから、この違和感に何度も助けられている気がする。私はまだ、ここで自由に動ける人間ではない。足元がそれを忘れさせない。


「……止まるのも、大事なんですね」


 ぽつりと言うと、ハンナさんが笑った。


「火の前ではね」


 エリナさんも、少しだけ口元をゆるめた。


「火の前じゃなくても、たいていそうだよ」


「なるほど」


 それは、かなり刺さる。


 私はたぶん、考え始めると止まるのが苦手だ。頭の中で勝手に次の仮説が立ち、次の分類へ行き、次の確認をしたくなる。けれど、知らない場所では、動くことより止まることの方が大事な場面がある。共同炉の中では、それがとても分かりやすかった。熱い器、火の前、籠の札、保存の棚。止まらないと、誰かの手を増やす。


 ハンナさんは、次の黒パンを取り出す準備に入った。


「アユミ、その板の上、空けられるかい。布だけ隣へ。板は熱いから持たない」


「布だけですね」


「そう。布だけ」


 私は板の上に置かれていた布を見た。


 端をつまむ。熱くない。少し粉がついている。隣の台へ置く。そこへ、別の人がすぐ焼けた黒パンを運んできた。板の上へ置かれると、どすん、と低い音がした。さっきから何度か耳に残っていた、あの重い音だ。けれど今度は、その音が少し近い。


 私が布を避けた場所へ、黒パンが置かれている。


 つまり、私が動かしたほんの小さな布一枚が、次の黒パンの置き場を空けた。


 その事実に、胸の奥がまた少しざわついた。


 大きなことではない。


 でも、何もしていないわけでもない。


 この感覚をどう扱えばいいのか、まだ分からない。嬉しいと言い切るには小さすぎるし、誇らしいと言うにはささやかすぎる。でも、見ているだけの時とは確かに違った。自分の手が、共同炉の流れの端にほんの少しだけ触れた。


 勝手にではなく。


 聞いて、許されて、触れた。


「熱くない方の器、二つこっちへ」


「はい」


 ハンナさんの声に、私はすぐ動く。


 器の底へ手を近づけ、熱くないことを確かめてから持つ。片手で二つ持とうとして、少し不安になり、やめた。一つずつにする。時間はかかる。でも、落とすよりいい。


「一つずつでいい」


 ハンナさんが言った。


 見ている。


 ちゃんと見ている。


「はい」


 私は一つ目を置き、戻って二つ目を取った。途中、アーミヤたんの横を通る。アーミヤたんは、相変わらず柱の脇で座っている。目だけが器を追った。干し海老の汁が入っていた器ではない。空の器だ。匂いもほとんど残っていないはずなのに、猫の鼻には何か分かるのかもしれない。


「アンタ、器の中身まで見てるんね?」


 小声で言うと、しっぽの先が揺れた。


 その態度が、妙に「分かりますけど?」と言っているようで、私は少しだけむっとする。いや、今は張り合うところではない。相手は猫だ。王冠つきだけど猫だ。たぶん。


 共同炉の中へ、また別の人が入ってきた。


 今度は年配の男性だった。腰は少し曲がっているけれど、手にはきれいに畳まれた布を持っている。火の前まで来るのではなく、入口近くの台へ布を置くと、ハンナさんへ声をかけた。


「古い方、畳み直しといたぞ」


「助かるよ。そっちは熱い器には使わない方だね」


「ああ、敷く方だ」


「分かった」


 それだけ言うと、男性はすぐ外へ戻っていった。


 私はその背中を見送る。


 火の前に立つわけではない。生地をこねるわけでもない。けれど、あの人の畳んだ布もここで使われる。さっきの女の子が運んだ籠も、ハンナさんが見ている鍋も、エリナさんが渡す布も、マリナさんが戻した袋も、全部が同じ朝の中にある。


 共同炉は、火のそばにいる人だけの場所ではなかった。


 外から布が来る。


 籠が来る。


 塩や干し菜が来る。


 空いた器が戻る。


 誰かが持っていく。


 そしてまた戻る。


 その行き来の端に、私は今、ほんの少しだけ立っている。


「アユミ」


 エリナさんが呼んだ。


「はい」


「疲れてないかい」


「大丈夫です」


 反射で答えかけて、少し止まった。


 今の「大丈夫」は、本当に大丈夫なのか。足はどうか。息はどうか。緊張で肩が上がっていないか。考えてから、言い直す。


「足は、少し気になります。でも、痛くはないです。疲れは、まだ平気です」


 エリナさんはそれを聞いて、短く頷いた。


「今の言い方ならいい」


 また、肩に入っていた力が少し抜けた。


 全部まとめて大丈夫、と言わなかった。分けて言えた。足は少し気になる。痛くはない。疲れはまだ平気。そういうふうに言えた。これもたぶん、今の私には必要なことだった。


「もう少し見たら、次へ行くよ」


「はい」


「共同炉は一日いても覚えきれない。今日全部分かったことにしなくていい」


「分かりました」


 そう言われて、少しだけ肩の力が抜けた。


 一日いても覚えきれない。


 それは、諦めろという言葉ではなく、今日覚えきれなくてもいいという許可に聞こえた。私はすぐ全部を並べたくなる。分からないものがあると、そのまま置いておくのが苦手だ。でも、ここではそれでいい。むしろ、全部分かったふりをする方が危ない。


 ハンナさんが、最後にもうひとつ私へ仕事を渡した。


「その小さい布、シアに渡してくれるかい。入口のところにいる子」


「シア」


「そう。あの子」


 入口を見ると、小さな女の子が立っていた。さっきの籠の子より少し幼い。手に空の袋を持って、順番を待っているらしい。私が布を持って近づくと、少しだけ目を丸くした。知らない相手に急に近づかれて驚いたのだと思う。


 私は、歩幅を少し小さくした。


「これ、ハンナさんから」


「うん」


 シアと呼ばれた子は、布を受け取った。小さな手で端を確認し、袋の中へ入れる。慣れた手つきだった。


「ありがとう」


 言われて、私は一瞬返事が遅れた。


「あ、うん。どういたしまして」


 どういたしまして、で合っているのか分からない。けれど、シアは特に気にした様子もなく、袋を抱えて奥へ戻っていった。


 ありがとう、と言われた。


 ほんの小さな布を渡しただけなのに。


 その言葉が、思ったより残った。


 私は柱のそばへ戻る。アーミヤが、少しだけこちらを見上げた。何か言いたげ、というより、ただ見ているだけ。でも、その目が少しだけ面白がっているように見えて、私は内心で小さく言う。


 アンタ、今ちょっと笑ったっしょ。


 もちろん返事はない。


 ハンナさんは、黒パンの置き場を整えながら言った。


「今日のところは、手を出す前に聞けるなら十分だよ」


「はい」


「次からも、分からなかったら止まる。分かったふりで動かない。それなら火の前でも邪魔になりにくい」


「邪魔になりにくい、ですか」


「最初はそこからだよ」


 最初は、邪魔になりにくいところから。


 妙に納得した。


 役に立つ、と言われるより、ずっと現実的だ。今の私は、まだこの村の役に立つほどのことはできない。でも、邪魔にならないように立つことはできる。聞いてから動くことはできる。言われた布を渡すことはできる。熱い器に触らないことはできる。


 そのくらいなら、できる。


 今はそれでいいのだと思った。


 黒パンの大きな籠が二つ外へ出たころ、炉の前の足音は、さっきより少しだけ間隔を空けるようになっていた。


 鍋の汁は、小さな器や別鍋へ分けられた。塩袋は結ばれ、干し海老の袋は棚の奥へ戻された。香草の器は空になり、濡れ布は洗うものと乾かすものへ分けられている。


 まだ終わったわけではない。


 でも、朝の大きな山は越えたのだろう。火は残っている。炉の奥は赤い。けれど、人の手は次の段取りへ移り始めていた。


 エリナさんが私の肩のあたりへ軽く声をかける。


「ここはこのくらいでいい。次へ行くよ」


「はい」


 返事をしてから、私は共同炉の中をもう一度見た。


 粉の桶。


 台の上の生地。


 焼けた黒パン。


 湯気の立つ鍋。


 布の山。


 木札のついた籠。


 ハンナさんの粉のついた手。


 マリナさんが戻した小袋。


 シアの小さな背中。


 火のそばで動く人たち。


 全部は分からない。


 でも、今朝食べた黒パンの向こうに、これだけの手があったことは分かった。少なくとも、それだけは忘れないでおきたい。


「ハンナさん、ありがとうございました」


 私は頭を下げた。


 何に対してのお礼なのか、自分でも少し迷った。見せてくれたこと。味見させてくれたこと。布を渡す程度のことをさせてくれたこと。邪魔になりにくい立ち方を教えてくれたこと。全部をまとめると、どうしても「ありがとうございました」になった。


 ハンナさんは、布で手を拭いながら笑った。


「礼は、また食べてからでいいよ。黒パンはまだ何度も食べるだろうしね」


「はい」


「あと、腹が空いた時に火のそばへ来るなら、勝手に鍋を覗かないこと」


「覗きません」


「本当に?」


「たぶん……いえ、覗きません」


 ハンナさんが笑う。


 エリナさんも笑う。


 マリナさんまで、棚の前で少しだけ肩を揺らした。


 私は頬を熱くした。危ない。今の「たぶん」は、たぶん駄目なやつだ。訂正できてよかった。


 柱の脇で、大きな茶色い毛並みがゆっくり立ち上がった。


 伸びをして、しっぽを上げる。王冠は当然のように落ちない。共同炉の中で何人もの人に見られていたのに、本人はまったく気にしていない。最後に干し海老の袋が戻された棚の方を、一瞬だけ見た気がした。


「アンタ、まだ気にしてるんね」


 小声で言うと、アーミヤたんは何も聞こえなかったみたいに入口へ向かった。


 その態度が、かなり怪しい。


 でも、盗み食いしなかったので今はよしとする。


 共同炉を出ると、外の空気が少し涼しく感じた。


 さっきまで火のそばにいたせいだ。頬に残った熱が、朝の風でゆっくり引いていく。粉の匂いと黒パンの香りは、まだ服や髪にまとわりついている気がした。借りた服なのに、少しずつこの村の匂いを吸っていく。そう思うと、不思議な気持ちになる。


 広場の方では、黒パンの籠を持った人が家々の方へ歩いていくのが見えた。別の人は、汁の器を布で包んで運んでいる。誰かの朝が、共同炉から少しずつ外へ出ていく。


 その先に、まだ私の知らない場所がある。


 鶏の声が遠くで響いた。


 さっきまで共同炉の中で見ていた黒パンや汁の向こうにも、卵や羽音や、灰や藁や、私の知らない手があるのだろう。けれど、今はそこへ一気に走らない。エリナさんについて、見られる場所から、順番に見る。


 私は、借りた靴の中で足を一度だけ踏み直した。


 布は少しずれている。


 でも、痛いほどではない。


 そのいずさは、さっきまでただの不快な感触だった。けれど今は、足元から「ここで止まれ」と教えてくれる小さな合図みたいにも思えた。勝手に前へ出ない。分からない時は止まる。聞いてから動く。共同炉で何度も繰り返したことが、靴の中の布のずれと一緒に、まだ足に残っている。


 見ているだけでは済まなかった。


 でも、勝手には動かなかった。


 その小さな違いを抱えたまま、私はエリナさんの後について、共同炉の外へ歩き出した。火と粉の匂いが、背中にしばらく残っていた。

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