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第5話 中編 共同炉の朝 ③ 干し海老と交換の味

第5話 中編 共同炉の朝


① 粉の匂いと火の前


② 黒パンの順番


③ 干し海老と交換の味


④ 見ているだけでは済まない


【アユミ視点/異世界生活二日目・朝】


③ 干し海老と交換の味


 黒パンの匂いに慣れてきたころ、鍋の方から別の香りが立ち始めた。


 最初は、豆と根菜の湯気だと思った。今朝、トルヴァンさんの家で食べた汁に近い匂い。柔らかく煮えた豆の丸い香りと、根菜の甘みと、塩の気配。けれど、その奥へ、少しだけ違うものが混ざっている。土や粉とは違う。木や灰とも違う。もっと乾いていて、湯の中へ落ちると急に目を覚ますような匂いだった。


 私は柱のそばから、鍋の方へ視線を向けた。


 共同炉の中では、黒パンだけが作られているわけではなかった。火の近くには大きな鍋がいくつかあり、その周りにも人がいる。黒パンの生地ほど力を使う作業ではなさそうだけれど、こちらはこちらで手が止まらない。木の匙で底をさらう人、乾いた葉をほぐす人、小さな袋の口を開ける人。湯気が上がるたびに、火と粉だけではない朝の匂いが立ち上がる。


 ハンナさんは、炉の中を見ていたかと思うと、すぐ鍋の方へ移った。


 手を洗う、というより、粉を落とすために濡れ布でさっと拭う。完全にきれいにするわけではない。鍋を触れる手に戻すだけだ。そのまま木の匙を取り、鍋の中をひと混ぜする。豆が底で丸く動き、薄く切られた根菜が湯気の中で揺れた。


「塩はまだ」


 ハンナさんが言う。


 小さな塩袋を持っていた若い女性の手が止まった。


「干し菜が戻ってからだね。今入れると、あとで強くなる」


「はい」


 その時、共同炉の入口から、別の女性が入ってきた。


 腕には小さな布袋が二つ。腰のあたりにも、口を固く結んだ袋を下げている。歩き方は急いでいるのに、乱れてはいない。火の前を横切る人の邪魔にならないよう、足の置き場所を最初から知っているみたいに、すっと台の近くへ入ってくる。


 エリナさんに少し似ている、と思った。


 目元というより、立ち方と、人の流れを邪魔しない歩き方が似ている。エリナさんと近い年頃に見える。ママンよりは、ほんの少し若い気がする。けれど、雰囲気は少し違った。エリナさんが家や人の流れを内側から整える人なら、その人は、手に持っている袋の重さと残りの量を、最初から分かっているような歩き方をしていた。


「ハンナ、これ。今日はこの分だけだよ」


 その人が、布袋を台へ置いた。


 ハンナさんは鍋を混ぜながら、目だけをそちらへ向けた。


「それ、マリナが回した分かい」


「そう。干し海老は少しだけ。使い切るんじゃないよ」


 マリナ。


 私はその名前に、少しだけ反応した。


 エリナさんが横で、私へ短く言う。


「マリナ。私の妹だよ。保存してあるものや、交換で入ったものをよく見てる」


「妹さん」


 思わず小さく繰り返す。


 エリナさんの妹。だから似ているところがあるのか、と納得しかけて、すぐに少しだけ止まった。似ているのは顔だけではない。人が動く場所で、自分の立つ位置を外さないところ。誰かの手を止めずに必要なものを置くところ。そこが似ている。


 でも、見ているものは違う気がした。


 エリナさんは、私や共同炉全体の動きを見ている。マリナさんは、袋の口、棚の奥、今朝使う分と残す分、そういうものを同時に見ているように見えた。


 マリナさんは私に気づくと、短く頷いた。


「あなたがアユミだね」


「はい。アユミです」


「話は聞いてるよ。今は火の前だから、細かい挨拶はあとでね」


「はい」


 短い。


 でも冷たくはない。いま長く話す場所ではないのだと、ちゃんと分かる言い方だった。マリナさんはすぐハンナさんの手元へ視線を戻し、袋のひとつを台の上へ置いた。置いた場所も、適当ではない。火から少し離れ、でもハンナさんが手を伸ばせば届くところ。塩袋より奥。香草の器より手前。


「こっちは干し海老。こっちは干し菜。塩はさっき出した分で足りるはず。足りなかったら言って」


「今のところ足りる。干し海老は、本当に少しだね」


「少しでいい。香りを足す分。鍋を海老の味にするためのものじゃないから」


「分かってる。入れすぎると豆も菜っ葉も消える」


 ハンナさんが軽く返す。


 同じ食材なのに、二人の見ている場所が違う。マリナさんは、袋の中身をどれだけ出すかを見ている。ハンナさんは、出されたものを鍋の中でどう使うかを見ている。エリナさんは、その二人の間に立つように、私が近づきすぎない位置を見ている。


 三人とも、同じ朝の中にいる。


 でも、手を置く場所が違う。


 そう思ったところで、私は慌てて口を閉じた。大きく考えるのは、まだ早い。今はまず、袋の口を見る。干し海老がどう出されるのかを見る。ハンナさんがどれくらい取るのかを見る。


 マリナさんが置いた布袋の口は、細い紐で二重に結ばれていた。大事にしまわれていたものを出す手つきだ。ハンナさんは紐をほどき、袋の中を指先で軽くならした。


 中には、赤茶色に乾いた小さなものが入っていた。


 形は知っている海老よりずっと小さい。殻も足も、乾いて縮んでいて、少し曲がっている。でも、匂いはたしかに海老に近かった。乾いたうま味がぎゅっと詰まった匂い。日本で見た干し海老とも完全に同じではないけれど、私の頭の中にある棚は、かなり近い場所を指していた。


 海老、あるんだ。


 この村に。


 いや、この村で採れるのかは分からない。そもそも、ここが海に近いのか遠いのかも、私はまだ知らない。川はあるのか、湖はあるのか、海までどう行くのか、何ひとつ分かっていない。ただ、目の前の共同炉には、干した海老らしきものがある。粉と薪と黒パンの匂いの中へ、急に別の場所の気配が混ざった。


 ハンナさんは、それを指先でほんの少しつまんだ。


 たくさんは入れない。ひとつまみ。本当にそれだけ。鍋へ落とすと、小さな乾いた粒が湯の上で一瞬浮き、それから豆と根菜の間へ沈んだ。しばらく何も変わらないように見えた。けれど、木の匙でゆっくり混ぜると、湯気の匂いがふっと変わった。


 豆の丸さの奥に、乾いたうま味が通る。


 生臭くはない。けれど、さっきまでの鍋にはなかった香りだった。畑のものだけでできた匂いの中へ、小さな乾いた粒が落ちて、湯気の奥へ別の深さを作っていく。ひとつまみなのに、鍋全体が少し遠くから来た味を思い出したみたいだった。


 なまら強い。


 私は思わず、もう少しだけ鍋の方へ意識を持っていかれた。


「気づいたかい」


 エリナさんが横で言った。


「はい。匂いが、変わりました」


「こういうのは、少しでいいんだよ。たくさん入れればいいってもんじゃない。入れすぎると、全部そっちになる」


「全部そっち」


「そう。豆も菜っ葉も、せっかくの味が消える」


 エリナさんは、ハンナさんの手元を見ながら言った。講義みたいではない。鍋の匂いを一緒に見ている人の言い方だった。


 マリナさんも、同じ鍋を少しだけ覗く。


「香りが立ったら十分。あとは袋を戻しておくよ」


「うん。もういい」


 ハンナさんが言うと、マリナさんは干し海老の袋の口を軽く折った。まだ結ばない。ハンナさんが追加で必要と言う可能性を残しているのだろう。でも、台の上に開けっぱなしにはしない。その小さな手つきが、なんだか強く印象に残った。


「それは、この村で採れるものなんですか」


 聞いてから、少しだけ不安になった。


 聞きすぎたかもしれない。


 けれどエリナさんは、別に言葉を尖らせなかった。鍋の方へ目を置いたまま、少し声を落とす。


「この辺では採れないね。回ってくるものだよ。毎日山ほど使うものじゃない。少しずつ、味を足すために使う」


「回ってくる」


「そう。うちの村だけで、全部が揃うわけじゃないからね」


 マリナさんが横から、布袋を手にしたまま言った。


「だから、出す量を間違えるとあとで困る。今日は使う。明日は使わない。そういうものもあるんだよ」


「はい」


「今は、袋の大きさだけ覚えておけばいい。山ほどあるものじゃないって分かるだろう?」


 私は袋を見た。


 小さい。


 たしかに、小さい。手のひらに乗るくらいの布袋だ。中には干し海老が入っているけれど、鍋いくつ分も好きに使える量ではない。マリナさんは、その袋を持つ指の力を少しも乱さない。大げさに貴重品扱いしているわけではない。でも、雑にはしない。


「分かります」


「なら、それでいいよ」


 マリナさんはそれ以上、交換の話を広げなかった。


 私は少しだけほっとした。同時に、もっと知りたい、とも思った。どこから来るのか。誰が持ってくるのか。何と引き換えにするのか。どれくらい貴重なのか。頭の中で質問が一気に増える。でも、ここで私が知りたいことを全部並べたら、ハンナさんの木匙が止まる。マリナさんの袋も、棚へ戻る途中で止まる。エリナさんも、私を見るためにまた一つ手を割くことになる。


 だから私は、質問をいったん喉の奥へ戻した。


 今は、匂いを覚える。


 干し海老が鍋へ落ちた時の、湯気の変わり方。


 塩をまだ入れない、というハンナさんの判断。


 エリナさんの「少しでいい」という言葉。


 マリナさんが袋の大きさだけ見せるように持った手。


 それだけで、今は十分だ。


 鍋の隣では、別の小さな器へ乳が注がれていた。白というより、少し黄色みのある色だ。今朝飲んだものに似ているけれど、もっと濃そうに見える。若い女性がそれを鍋へ入れようとすると、ハンナさんは首を振った。


「そっちはまだ。火を弱くしてから」


「強いとだめですか」


「だめというか、荒れる。ゆっくり入れた方がいい」


 荒れる。


 乳も荒れるのか。


 私はまた、聞きたい気持ちを抑えた。見ればいい。手元を見れば、少しは分かる。ハンナさんは鍋の底をゆっくり混ぜ、火の近い場所から少しずらす。薪を動かしたわけではない。けれど鍋の置き場所が少し動いただけで、湯気の上がり方が変わった。勢いが少し落ち、表面の揺れ方が穏やかになる。


「今」


 ハンナさんが言う。


 白っぽい乳が、細く鍋へ入る。


 豆と干し菜の間へ、淡い色が広がった。木の匙で混ぜると、鍋の中の色が少しだけやわらかくなる。匂いも変わった。干し海老の乾いたうま味に、乳の丸さがかぶさる。強さが少しだけ角を落とす。


「こうすると、子どもでも食べやすい」


 ハンナさんが言った。


「でも入れすぎると、今度は重くなる。朝はまだ動く人が多いから、軽く残るくらいでいい」


 朝はまだ動く人が多い。


 その一言で、鍋の味が急に人の身体へ近づいた。濃ければいいわけではない。豪華ならいいわけでもない。食べた後に働けるか。子どもが食べられるか。年を取った人が飲み込めるか。畑へ行く人の邪魔にならないか。


 ハンナさんの木匙は、豆を潰さない速さで鍋の底をさらっていた。乳の白さは、干し菜の間へ細く残っている。


 ハンナさんは、黒パンを焼く手で、鍋も見る。


 マリナさんは、袋の残りと棚の奥を見る。


 エリナさんは、私が近づきすぎないように立つ場所を見る。


 三人とも、見ているものが違う。


 だから、同じ火の前にいてもぶつからないのだと思った。


 けれど、それもまた言葉にすると大きくなりすぎる。私は鍋の湯気へ意識を戻した。


 グレッグさんの声が、頭の奥でまた響く。


 まず見ろ。


 塩袋の口が開かれる。ハンナさんは、今度も一気に入れない。指先で少しつまみ、鍋の表面へ散らす。混ぜる。少し待つ。木の匙で汁をすくって、手の甲へほんの少し垂らし、味を見る。熱くないのかな、と一瞬思ったけれど、ハンナさんは慣れているようだった。指を引っ込める様子も、息を止める様子もない。


「まだ」


 短く言って、もう一つまみ。


 また混ぜる。


 また味を見る。


「ここで止める」


 その一言で、塩袋の口が結ばれた。


 塩を入れるだけなのに、ちゃんと終わりがある。少しずつ変わる味を見て、ここ、という場所で止める。私は料理をしたことがないわけではない。家でも手伝いくらいはした。でも、こんなふうに大きな鍋を、村の人の分として見るのとは全然違う。自分の一皿なら、少し濃くても薄くても自分の問題で済む。でも、ここではそうはいかない。


 ハンナさんは結んだ塩袋を、干し海老の袋とは別の場所へ戻した。


 塩は手前。


 干し海老はマリナさんが口を結び、棚の少し奥へ戻す。


 香草の小さな器は、火から離した台の端。


 干し菜の包みは、まだ使うのか、口を閉じずに置かれている。


 見ただけでは理由までは分からない。けれど、手の動きには迷いがなかった。


「味見するかい」


 ハンナさんが、ふいに言った。


「えっ」


「見るだけでもいいけど、匂いだけじゃ分からないだろう。熱いから少しだけだよ」


 小さな木の匙に、ほんの少し汁が取られる。私はエリナさんを見た。


 エリナさんは、少し頷いた。


「もらいな。ただし、熱いから急がない」


「はい」


 私は匙を受け取った。


 熱が指へ伝わる。ふう、と息を吹きかけてから、少しだけ口へ入れた。


 最初に来るのは、豆のやさしい味だった。そこへ干し菜の戻った香りが重なり、最後に干し海老のうま味が奥から出てくる。乳が入っているせいか、思ったより角はない。塩気も強くない。でも薄いわけではなく、黒パンと一緒に食べるならちょうどよさそうな味だった。


 汁だけで飲むと、ほんの少し控えめに感じる。


 けれど、朝に食べた黒パンの重さを思い出すと、その控えめさが分かる気がした。あのパンと一緒なら、これくらいがちょうどいい。汁が強すぎると、黒パンの酸味や穀物の味が消える。逆に弱すぎると、黒パンの重さに負ける。ハンナさんがさっき「鍋まで強くしすぎない」と言った意味が、舌の上で少し遅れて分かった。


「あ……美味しいです」


 言葉が素直に出た。


「今朝の汁と似てるけど、違います」


「そりゃ違うよ」


 ハンナさんが笑う。


「今日はマリナが干し海老を回してくれたからね。朝の残りと、こっちの鍋じゃ使うものも少し違う」


「ほんのちょっとで、こんなに変わるんですね」


「そう。だから、ちょっとで止める」


 ハンナさんはそう言って、鍋の蓋を少しずらした。


 マリナさんは、そこで小さく頷いた。


「ちょっとで変わるものは、ちょっとだけ出せばいいんだよ。山ほど使って味を変えるのは簡単だけど、それだと次がなくなる」


「次」


「次の鍋、次の日、次に足りない家。どれになるかはその時まで分からないけどね」


 さらりと言われた。


 私は、マリナさんの手にある空になりかけていない袋を見た。まだ残っている。きちんと残されている。その残りが、いつか別の鍋や別の家へ回るのかもしれない。


 今ここで使わなかった分が、別の日の味になる。


 そう思うと、袋の口を結ぶ手つきまで、急に大事なものに見えた。


 私は匙を返しながら、まだ口の中に残る味を追っていた。海老の味が強いわけではない。でも、ないとたぶん全然違う。いるけれど、前へ出すぎない。その加減が、すごく不思議だった。


 アーミヤたんが、柱の脇で鼻を動かした。


 かなり小さな動きだった。けれど、私は見逃さなかった。


「アンタ、今ちょっと反応したよね?」


 小声で言う。


 アーミヤたんは、何も聞こえなかったみたいに視線を逸らした。


 した。


 今、絶対した。


 干し海老の匂いに反応した。


 猫としては、まあ分かる。むしろ当然かもしれない。でも、さっきから賢そうに座っていたくせに、そこで鼻だけ動くのはちょっとめんこい。いや、悔しいから本人には言わないけど。言ったら負けな気がする。


 ハンナさんも気づいたらしい。


「食べたそうだね」


「たぶん」


「でも、だめだよ。塩が入った」


 アーミヤたんの耳がぴくりと動いた。


 分かっているのか、音に反応しただけなのか。どちらにせよ、近づいては来ない。柱の脇に座ったまま、しっぽの先だけを軽く動かす。


「賢いねえ」


 ハンナさんがまた言う。


「賢いんですけど、たまに賢さの方向が分からなくなります」


「猫はだいたいそうだよ」


 それで済ませていいのかな。


 でも、ハンナさんがそう言うと、なんだか済んでしまう気がした。


 マリナさんはアーミヤたんを少しだけ見て、それから王冠へ視線を移した。ほんの一瞬。けれど、それ以上は何も言わなかった。グレッグさんから話が通っているのだろう。ここで掘り返さない。その代わり、干し海老の袋を棚へ戻す手は止まらない。


 鍋の方には、さらに干し菜が足された。乾いて縮んでいた葉が、湯の中で少しずつ開いていく。色は鮮やかではない。けれど、戻るとちゃんと菜っ葉の形になる。横の桶では、豆が水を吸って少しふくらんでいた。小さな器には、刻んだ香草らしきものが入っている。香りは強いけれど、量は少ない。ハンナさんはそれを手に取って、すぐには鍋へ入れなかった。


「これは最後」


「最後なんですね」


「早く入れると、香りが飛ぶ」


 香りが飛ぶ。


 また知らない言い方ではない。けれど、ここで聞くと、ただの料理の言葉ではなく火の言葉に聞こえる。火が強すぎると乳が荒れる。塩は戻ってから。干し海老は少しでいい。香草は最後。順番が違えば、味が変わる。


 黒パンも順番。


 鍋も順番。


 共同炉は、順番でできている。


 でも、私はその言葉を口には出さなかった。出した瞬間、なんだか説明っぽくなりそうだったからだ。代わりに、ハンナさんが香草の器をどこへ置いたのか、目で覚える。鍋の右側。火から少し離した木の台の上。近くには塩袋と、干し菜の包み。干し海老の袋は、もうマリナさんの手で棚の奥へ戻されている。


 共同炉の入口から、また人が来た。


 今度は年配の女性だった。手に小さな包みを持っている。布を開くと、中には干したきのこのようなものが少し入っていた。薄く切られ、茶色く乾いている。ハンナさんはそれを見ると、少し眉を上げた。


「いいのかい」


「少しだけならね。昨日、戻した残りだよ」


 年配の女性がそう答える前に、マリナさんが一度だけ包みを見た。


「それなら、小鍋の方へ。大鍋へ入れるほどはないよ」


「うん。そうする」


 ハンナさんはすぐ、鍋全体へ入れるのではなく、小さな別鍋の方へそれを分けた。大きな鍋と、小さな鍋。全員同じものを食べるのではなく、少しずつ分けるところもあるらしい。年を取った人には、やわらかいもの。子どもには強すぎない味。動く人には、軽く残るもの。どこまで細かく分けるのかは分からない。でも、同じ火の前で、いくつもの皿の先が考えられている。


「全部一緒じゃないんですね」


 思わず言うと、エリナさんが答えた。


「一緒で済む時は一緒にするよ。手が足りない日もあるからね。でも、分けた方がいい時は分ける。食べられないものを出したら、結局残るだけだから」


「残るだけ」


「そう。残ったらもったいないし、食べられなかった人は動けない」


 とても現実的だった。


 優しさというより、食べ物を無駄にしないための判断でもある。けれど、その判断の中に、ちゃんと人がいる。年配の人の歯。子どもの舌。働く人の朝。そういうものが、鍋の分け方へ入っている。


 私は、さっき味見した汁の余韻を飲み込んだ。


 共同炉の外へ目を向けると、広場の方で誰かが籠を運んでいるのが見えた。どこの家のものかは分からない。木札がついている。でも読めない。布の結び目も、私にはまだただの結び目だ。けれど、その籠の中にも、きっと黒パンや何かの食べ物が入る。鍋から分けられるものもあるかもしれない。


 食べ物は、ここで作られて終わりではない。


 外へ出ていく。


 誰かの家へ行く。


 誰かの手に渡る。


 私が今朝食べたように、誰かの朝へ入っていく。


 そう思うと、干し海老の小ささが逆に気になった。あんなに小さなものが、どこかから来て、ここで少しだけ鍋へ落ちて、村の誰かの朝の味を変える。粉や豆ほど量はない。でも、少しあるだけで変わる。


 マリナさんは、干し海老の袋を棚へ戻したあと、塩袋の結び目も確かめていた。


 ハンナさんは鍋を混ぜている。


 エリナさんは私の立つ位置と、入口から入ってくる人の流れを見ている。


 干し菜の包みは、まだ台の端に残されている。


 香草の器は、最後まで待たされている。


 どれもこの炉の中で生まれたものではなさそうなのに、鍋の湯気の中では、最初からそこにいたみたいに混ざっていた。


 ただ、それを大きな言葉にするには早い。


 今はまだ、袋と器と鍋がそこにある。それで十分だった。


「アユミ」


 ハンナさんが呼んだ。


「はい」


「今の味、覚えておきな。あとで黒パンと一緒に食べると、また違うから」


「はい」


「汁だけで味を見るのと、パンと一緒に食べるのでは違う。黒パンは重いから、鍋の方を強くしすぎなくてもいい。逆に、パンが薄い日なら、汁を少し強くすることもある」


 私は頷いた。


 匙の上の汁だけでは、まだ半分しか分からないのだと思った。


 黒パンと汁。汁と干し海老。豆と乳。食べる人と、動く時間。全部が少しずつ関係している。そこまで考えたところで、また頭が先に走りそうになって、私は止めた。


 まだ見る。


 まだ、見るだけ。


「覚えること、多いですね」


 ぽつりと言うと、ハンナさんが笑った。


「一日で覚えたら、こっちが困るよ」


「困るんですか」


「何年も火の前にいる人間の立場がないだろう」


「あ、たしかに」


 エリナさんも少し笑った。


 マリナさんは袋の口を結び直しながら、少しだけ肩をすくめた。


「火の前はハンナに聞きな。保存の棚を勝手に触ったら、私が怒るけどね」


「触りません」


 私は即答した。


 マリナさんが、初めて少しだけ笑った。


「その返事はいいね」


 さっきエリナさんにも似たようなことを言われた気がする。姉妹だ。やっぱり姉妹だ。似ていないようで、こういうところが似ている。


 その笑いで、共同炉の空気がちょっとだけ軽くなる。でも、手は止まらない。鍋は混ぜられ、香草はまだ待たされ、塩袋は結び直され、干し海老の袋は棚の奥へ戻される。黒パンの焼ける匂いも、相変わらず強い。火の前では、笑いも仕事の隙間へ小さく入るだけで、流れそのものは止まらない。


 ハンナさんは、香草を最後にほんの少し鍋へ散らした。


 湯気の匂いが、また変わる。


 今度は軽い。干し海老のうま味や乳の丸さの上を、青い香りがすっと通る。強くはない。すぐ消えそうなのに、あるとないとでは違う。私は思わず目を細めた。


「これも、少しなんですね」


「少しでいい。強いものは、たくさん入れればいいわけじゃない」


 ハンナさんは、さっき干し海老の時にも言ったことを、もう一度違う材料で示した。


 香草はほんの少ししか落ちていないのに、湯気の先だけがすっと変わった。鼻の奥に残る匂いが、さっきより細くなる。


 鍋の汁は、別の小さな器へ移され始めた。


 全部ではない。味見用でもない。たぶん、どこかへ先に回す分だ。ハンナさんが器を指しながら、誰に渡すかを短く言う。聞いた人が頷き、布を添える。熱いからだろう。器の縁から湯気が上がっている。


 私はそれを見ていた。


 見ているだけのつもりだった。


 けれど、ひとつの布が台の端から滑りかけた。熱い器の下に敷くはずの布だ。近くの人は別の器を持っていて、手が離せない。私は反射的に動きそうになった。


 けれど、止まった。


 手を出すなら、聞け。


 グレッグさんの言葉と、エリナさんの声が同時に頭へ戻る。


「……それ、取ってもいいですか」


 私は布を指して言った。


 ハンナさんが、ちらりと見る。


「いいよ。端を持って。熱い器には触らない」


「はい」


 私は一歩だけ出て、布の端をつまんだ。


 布は少し湿っていて、火の近くにあったせいか、ほんのり温かい。台から落ちる前に引き戻し、ハンナさんが指した場所へ置く。それだけ。たったそれだけなのに、胸が少し高鳴った。


 勝手に触らなかった。


 聞いてから、触った。


 ほんの小さなことだけれど、今の私には大事だった。


 ハンナさんは器を置きながら、何気なく言った。


「うん。今の聞き方ならいい」


 それだけで、私は少しだけ背筋が伸びた。


 エリナさんも、横でほんの少し頷いている。


 マリナさんは棚の前で、私の手元をちらりと見た。


「保存の袋も、それでいいよ。分からないなら触る前に聞く」


「はい」


「聞かれた方が、あとで探し回らずに済むからね」


 それもまた、とても現実的な言い方だった。


 アーミヤたんは柱の脇で、また鼻を動かしていた。たぶん干し海老の袋が棚へ戻ったのを惜しんでいる。たぶん。いや、絶対。


 アンタも、食べたいなら聞いてからにしなよ。


 そう内心で言ったけれど、もちろんアーミヤたんは何も答えなかった。


 鍋の湯気は、粉と火の匂いの中へ混ざっていく。


 黒パンの重さ。干し海老の小さな強さ。塩を止める指。乳を入れるタイミング。香草を最後に散らす手。共同炉には、食べ物になる前のものと、食べ物になっていく途中のものが、いくつも並んでいた。


 そこへ、マリナさんの袋が加わった。


 袋を出す人。


 鍋へ入れる人。


 隣で順番を教える人。


 私はその間に、ほんの一歩だけ近づいて、布を戻した。


 見ているだけでは、たぶんもう終わらない。


 でも、勝手には動かない。


 次に手を出す時も、ちゃんと聞く。そう決めて、私はまたハンナさんの手元へ目を戻した。

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