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第5話 中編 共同炉の朝 ② 黒パンの順番

第5話 中編 共同炉の朝


① 粉の匂いと火の前


② 黒パンの順番


③ 干し海老と交換の味


④ 見ているだけでは済まない


【アユミ視点/異世界生活二日目・朝】


② 黒パンの順番


 黒パンは、ただ焼けばいいものではないらしい。


 私は柱のそばに立ったまま、ハンナさんの手元を見ていた。粉の桶はひとつではない。色の濃い粉、少し粗い粉、細かくふるったもの、前の日から残してあるらしい湿った塊。どれも同じ「粉」と呼んでいいのか分からないくらい、手触りも匂いも違って見えた。ハンナさんはそれを、木の椀ですくい、指でならし、桶の中で混ぜながら決めていく。


 けれど、適当ではない。


 その違いだけは、すぐ分かった。目分量という言葉で片づけるには、手の動きが迷わなさすぎる。粉をすくう時の椀の傾け方、桶へ落としたあとの指の広げ方、湯を待たせる間の短い静けさ。ぜんぶが、昨日今日で覚えた動きではない。粉の方も、ハンナさんの手に触れられると、最初からそうなる予定だったみたいに、少しずつまとまっていく。


「そっちの粉、今日は少し重いね」


 ハンナさんが言った。


 粉袋を支えていた若い女性が、手を止める。


「昨日よりですか」


「昨日より。湿りを吸ってる。湯は少なめに入れて、あとで様子を見よう」


「はい」


 その返事と同時に、水差しの角度が変わった。


 私は思わず目を細めた。粉が重い、というのは、見ただけでは私には分からない。色が少し濃い気もするけれど、それが粉そのものの違いなのか、湿りを吸っているせいなのか、判断できない。ハンナさんは、指を入れて少し持ち上げただけで分かっているらしい。


 手で見る。


 さっき聞いた言葉が、また頭の中へ戻ってくる。


 火の前には、そういう見方があった。


 横にいたエリナさんが、私の視線に気づいたらしい。


「粉は、その日で変わるよ。置き場でも違うし、天気でも違う。袋を開けたばかりか、前から使っているものかでも違う」


「そんなに変わるんですね」


「変わるね。だから、慣れないうちは勝手に水を足すと怒られる」


「絶対やりません」


 私は即答した。


 エリナさんが少し笑う。


「その返事はいいね」


 いや、本当にやらない。怖すぎる。私が「このくらいかな」で水を入れた瞬間、たぶん桶ひとつぶんの朝がずれる。黒パンを一つ失敗する、では済まない気がする。誰かが待っている分。どこかへ持っていく分。あとで切る分。そういうものが、まだ見えないまま桶の向こうに並んでいる。


 なまら危ない。


 粉の桶、見た目よりずっと責任が重い。


 ハンナさんは、粉の中央をくぼませ、そこへ湯を少しずつ入れた。


 湯気が立つ。熱い匂いが粉の乾いた匂いとぶつかって、鼻の奥に温かいざらつきが残る。若い女性が湯を注ぐ間、ハンナさんは片手で粉の端を崩し、少しずつ中央へ寄せていく。最初はばらばらだった粉が、湯を含んだところから重くなり、指へまとわりつくように変わっていった。


「そこで止めて」


 ハンナさんが言う。


 湯が止まる。


 ハンナさんは何度か生地を押し、少し首を傾げた。それから、桶の縁に残った粉を指で寄せ、湯の入ったところへ混ぜる。粉が桶の木目に薄く残り、その上を湿った生地がゆっくり通っていく。急いでいるのに、乱暴ではない。水差しを持つ人も、ハンナさんの指が止まるまで待っていた。


「塩」


 別の人が、小さな器を渡す。


 ハンナさんは塩を一気に入れず、指先でつまみ、広く散らした。それから、前の日から残してあるらしい湿った生地を少しだけ取って、桶の中へ混ぜる。色も匂いも少し違う。その塊が入ると、粉の香りの中へ、かすかに酸っぱい匂いが混じった。


 私はその湿った塊を目で追った。


 今朝の粉の中へ、昨日から来たものが入っていく。いや、昨日だけではないのかもしれない。ハンナさんの手つきには、ただ残り物を足す感じがなかった。小さく取って、匂いを見て、指で押して、入れる量を決めている。その塊は、捨てずに置かれていたものではなく、次へ渡すために残されていたものなのだと思った。


「それ、昨日のですか」


 聞いていいか一瞬迷ってから、私は小さく尋ねた。


 ハンナさんは手を止めなかった。


「前から継いでる生地だよ。全部を毎回新しくはしない。少し残して、次へ渡す」


「次へ」


「そう。全部使い切ると、次に困るからね」


 全部使い切ると、次に困る。


 昨日からこの村で何度も聞いている考え方だと思った。食べ物でも、布でも、湯でも、手間でも、たぶん同じなのだ。今あるものを全部使い切らない。少し残して、次へ渡す。口で言えば簡単だけど、火の前でそれをやるには、どこまで使ってどこから残すかを毎回決めないといけない。


 今朝の黒パンにも、昨日より前から続くものが混ざっている。


 そう思うと、目の前の生地が少し違って見えた。今朝だけのものではない。今朝のために始まったわけでもない。前の火、前の粉、前の日の手が、ほんの少しずつ混ざって、今日の黒パンになる。


 私はそのことを、すぐ大きな言葉にしないようにした。


 分かった気にならない。


 でも、匂いは覚えておく。


 湿った生地が入った時の、少し酸っぱくて重い匂い。粉だけではなかったものが、桶の中で別の粘りを持ち始める感じ。ハンナさんがそれを、なくならないように、でも残しすぎないように扱う手つき。


 ハンナさんの手が、生地を桶の中でまとめていく。押す。返す。指についた生地を親指で落とす。湿りが足りないところへ、ほんの少しだけ湯を足す。さっきまで粉だったものが、次第にひとつの塊になっていく。ただ、私の知っているパン生地みたいにやわらかく伸びる感じではない。もっと重くて、ぎゅっと詰まっている。ハンナさんが両手で押すと、台の上で低く沈み、ゆっくり戻った。


 なまら重そう。


 見ているだけで、腕が疲れそうだった。


「これ、かなり硬いんですね」


「硬いよ」


 ハンナさんは笑った。


「やわらかいだけのパンは、ここじゃすぐ腹が空く。黒パンは重いくらいでいい。薄く切って汁に浸してもいいし、持って出ても崩れにくい。日を置いても食べられる」


 日を置いても食べられる。


 その言葉で、昨日と今朝に食べた黒パンの重さがまた少し変わった。ふわふわで、その日のうちに食べきるパンではない。火の前で焼かれ、籠に分けられ、家に運ばれ、朝にも夜にも戻ってくるパン。やわらかさより、持つこと。軽さより、腹へ残ること。私の知っている「おいしいパン」の基準とは、そもそも見ている方向が違う。


 それを、劣っているとは思えなかった。


 むしろ、強い。


 この村で暮らすなら、こういうパンが必要なのだと思う。


 ハンナさんは生地を押しながら、横に置かれた小さめの塊を指で示した。


「こっちは小さく焼く。年寄りの家へ回す分と、子どもが食べやすい分。硬いのが悪いわけじゃないけど、切る人が大変な家もあるからね」


「大きさも変えるんですね」


「少しだけね。全部細かく分けてたら朝が終わらない。でも、分けた方がいいところは分ける」


 黒パンは重い。


 でも、ただ重ければいいわけでもないらしい。


 誰が食べるか。いつ食べるか。汁へ浸すのか、持って出るのか。切る手がある家か、薄くしておいた方がいい家か。そんなことまで、たぶん全部ではないにしても、少しずつ考えられている。


 私は息を吸って、炉の方から来る熱を感じた。


 パン一つの向こうに、粉袋も、湯を止める声も、お年寄りの家へ回す小さな塊もあった。


「アユミのところのパンは、違うのかい」


 ハンナさんが何気なく聞いた。


 私は少し考えた。


 どう答えればいいのか迷う。現代日本のパンを説明しようとすると、白い食パン、菓子パン、コンビニ、スーパー、オーブン、袋入り、賞味期限、と頭の中に余計なものが山ほど出てくる。ここでそれを並べても、たぶん分かりにくいし、何より今は黒パンを見ている時間だ。


「もっと軽いものが多かったです。やわらかくて、すぐ食べるものも多くて」


「ふうん」


 ハンナさんは、それだけ聞いて頷いた。


「なら、それはそれで腹に入れやすそうだね」


「はい。でも、ここで食べた黒パンは、ここの朝に合ってる気がします」


 言ってから、少しだけ不安になった。


 分かったようなことを言いすぎたかもしれない。


 けれどハンナさんは、手元の生地を押しながら、少しだけ口元を緩めた。


「そう思えるなら、悪くないね」


 それだけだった。


 私はほっとした。


 褒められたのかどうかは分からない。でも、少なくとも怒られてはいない。見たものを、見た範囲で言う。今の私にできるのは、それくらいだ。


 台の上の生地は、大きな塊になっていた。


 ハンナさんはそれをいくつかに分ける。切るというより、手と木べらで押し分ける感じだ。ひとつひとつの塊は、私の想像より大きい。丸める人、表面へ粉を振る人、濡れ布を掛ける人が分かれて動く。誰かが「こっちはどこへ」と聞くと、ハンナさんは間を置かずに答えた。


「手前は今朝の分。奥は昼まで置く。小さい方は、年寄りの家へ回す分と一緒にしないで。切る時に分からなくなる」


「はい」


「そっち、布の印が違うよ」


「あ、すみません」


 言われた女性が慌てて布を取り替える。


 私は、その布を見た。


 似ているようで、端の結び方が違う。小さな木札がついた籠もある。布の色が少し違うものもある。最初に見た時は、ただたくさんの籠が並んでいるだけに見えた。でも、よく見ると、家ごとに印があるらしい。文字なのか、模様なのか、結び目なのか、まだ全部は分からない。けれど、ここにいる人たちは迷わない。


 エリナさんが、私の横でそっと言った。


「今は全部覚えようとしなくていいよ」


「はい。正直、無理です」


「うん。無理だろうね」


 また即答。


 少しだけ悔しいけど、事実だった。


「最初は、間違えたら困るものがどれかを見るくらいでいい。家ごとの籠、共同の籠、今すぐ食べる分、後で回す分。そこが混じると困る」


「混じると、かなり大変そうです」


「大変だよ。誰かの朝が遅れるからね」


 誰かの朝が遅れる。


 その言い方が、妙に具体的だった。


 籠を間違えると、物が違う場所へ行く。ただそれだけではない。誰かが食べる時間がずれる。火を起こした家で待っている人がいる。畑へ行く前に食べる人がいる。子どもに先に食べさせる家がある。そういうものが、籠ひとつの置き間違いに繋がっているのだ。


 私は自然と、籠から少し距離を取った。


 触らない。


 絶対に触らない。


 今触ったら、何かの朝をおかしくしてしまう気がする。札も布も、私にはまだただの札と布だ。でも、この共同炉ではきっと、どこへ向かうかを決める大事な印なのだろう。


 アーミヤは、その籠の並びをじっと見ていた。


 前足を揃え、しっぽを身体の横へ巻き、王冠を載せたまま動かない。火の熱が届く位置ではあるけれど、粉の舞う場所からは少し離れている。猫なのに、粉の桶へ鼻を突っ込まない。布の上へ座らない。籠へ身体を擦りつけたりもしない。


 それは助かる。


 助かるけど、逆に不自然でもある。


 アンタ、ほんと賢すぎない?


 そう思ったところで、アーミヤはゆっくり瞬きをした。


 知ってる、みたいな目だった。


 腹立つ。


 ちょっこし腹立つ。


 でも、今騒がないでくれるのは本当に助かる。王冠つき大型猫が共同炉で暴れたら、たぶん私はこの村での初日から終わる。物理的にも、たぶん人間関係的にも終わる。


 ハンナさんは、丸めた生地のひとつを持ち上げ、炉の口へ運んだ。


 炉の前へ近づくと、熱がこちらまで来る。離れた柱のそばにいても、頬が少し温かくなる。炉の中には、赤く残った火と、熱を含んだ石の色があった。ハンナさんは灰を払う道具を持った男性に少し待つよう手で示し、炉の中を覗く。


「まだ強いね。こっちは奥じゃなくて手前」


「はい」


「小さいのから入れるよ。大きいのは少し待つ」


 火の強さで、入れる順番も変わるらしい。


 焼くものの大きさ。生地の硬さ。炉の熱。今食べる分か、後へ回す分か。いくつもの理由が、順番を決めている。私はそれを見ながら、また頭の中で勝手に整理しそうになった。けれど、すぐに止める。まだ分からない。分かったことにしない。


 ただ、順番がある。


 それだけをまず覚える。


 小さめの生地が炉へ入れられる。木の板のような道具に乗せられ、奥ではなく、手前寄りへ滑り込む。炉の口から熱い空気が押し寄せ、粉と湿った生地の匂いがふわっと変わった。生の匂いから、焼ける匂いへ。ほんの少しの変化なのに、はっきり分かる。


 私は思わず息を吸い込んだ。


 お腹はもう空いていないはずなのに、身体が反応する。


「いい匂いだろう」


 ハンナさんが笑った。


「はい。かなり」


「火の前にいると、食べたばかりでも腹が起きるんだよ」


「それは、なまら危険ですね」


「なまら?」


「あ、すごく、です」


「なるほど。すごく危険」


 ハンナさんは面白そうに繰り返した。


 その横で、エリナさんが「ハンナ、面白がりすぎない」と軽く釘を刺す。


「面白がってないよ。覚えてるだけ」


「そうかい」


「なまら危険、ね」


「覚えてるじゃないか」


 私は顔が熱くなった。


 火のせい。たぶん火のせい。いや、これはたぶん火だけではない。


 でも、不思議と嫌ではなかった。方言が漏れても、笑いものにされている感じはしない。意味を聞かれて、受け取られて、少しだけその場に置かれる。その程度なら、私の言葉もここで呼吸できる。


 炉の中へ入れた生地の横で、別の黒パンが取り出された。


 焼き上がったものらしい。


 板の上へ置かれると、どすん、と低い音がした。


 私はその音に少し驚いた。


 パンの音じゃない。少なくとも、私の知っているパンの音ではない。もっと軽いものを想像していたら、まるで小さな木片か、固めた土の塊が置かれたみたいな音だった。でも、匂いはちゃんと食べ物だ。香ばしくて、少し酸味があって、穀物の甘さが奥にある。


 取り出された黒パンは、すぐには切られなかった。


 木の板の上で少し置かれる。布をかけるものと、かけないものがある。表面の硬さを見ているのか、熱の抜け方を待っているのか、私には分からない。ハンナさんは指で表面を軽く叩き、音を聞いた。


「こっちはいい。冷めたら切る」


「こっちは?」


「まだ。中が落ち着いてない」


 中が落ち着いていない。


 パンにも、そんな状態があるのか。


 私はまた少し身を乗り出しそうになって、足を止めた。近づかない。今の私は柱のそば。見える場所に置いてもらっている。それだけで十分だ。


 エリナさんが、今度は何も言わず、ただ私の足元を一度見た。


 それで戻った。


 見られている。


 ありがたいけど、ちょっと恥ずかしい。


 共同炉の外から、また別の籠が運ばれてきた。


「ハンナ、こっちはトルヴァン家の分」


「そこじゃないよ。今日は後でエリナが見るだろう。こっちへ寄せといて」


 トルヴァン家。


 その言葉に、私は少しだけ反応した。


 私が一晩寝た家の分も、ここで分けられる。今朝食べた黒パンも、ここを通ってきた。そう考えると、さっきまでただの大きな作業場に見えていた場所が、急に自分の朝へ繋がった気がした。


 いや、自分の朝と言い切るには、まだ早い。


 けれど、少なくとも私は、その黒パンを食べた。


 火の前に立つ人たちの手を通ったものを、腹へ入れた。


 そのことは本当だ。


 ハンナさんは、生地をまとめながら、ふと私へ言った。


「アユミ、黒パンは重いけど、慣れれば悪くないよ」


「はい。今朝、昨日より味が分かりました」


「昨日より?」


「昨日は、食べるだけで精一杯だったので。今朝は、豆の味とか、パンの酸味とか、少し分かりました」


「それならよかった」


 ハンナさんは、短くそう言った。


 それ以上、優しい言葉を重ねたりはしない。けれど、その「よかった」だけで、なんとなく十分だった。火の前の人にとって、食べられた、味が分かった、というのは大事な報告なのかもしれない。


 しばらく、私は黒パンの順番を見続けた。


 粉を混ぜる桶。


 前から継いだ湿った生地。


 生地を押す台。


 濡れ布を掛ける場所。


 炉へ入れる順。


 取り出して置く板。


 切る前に休ませる黒パン。


 布を敷いた籠。


 家ごとの印。


 共同で置く分。


 今すぐ回す分。


 後で回す分。


 目に入るものは多い。多すぎる。全部を一度で覚えるのは無理だ。それでも、見ているうちに、少しだけ流れが分かってきた。黒パンは、ただ粉と湯と火でできているのではない。誰が先に触るか、どこで待つか、いつ炉へ入れるか、どの籠へ行くか。ひとつ外すと、誰かの籠が遅れる。たぶん、そういうことなのだ。


 私は、胸の中でそっと息を吐いた。


 すごい。


 でも、すごいと叫ぶような場所ではない。


 ここでは、それが毎日の仕事なのだ。


 そんな中で、アーミヤが小さく鼻を動かした。


 焼けた黒パンの匂いにつられたのか、少しだけ顔を上げる。でも近づかない。ハンナさんがそれを見て、ふっと笑った。


「賢いねえ。匂いだけ嗅いで、手は出さない」


「たぶん、出したら怒られるの分かってるんだと思います」


「分かるなら、ますます賢い」


 アーミヤは、何も答えずに目を細めた。


 褒められ慣れている猫の態度だった。


 ほんと、アーミヤたんそういうところ。


 私は内心でだけ突っ込んだ。


 やがて、ハンナさんがひとつの籠を指した。


「これは先に出すよ。まだ熱いから、布を二枚。持つ人に言って」


「はい」


 若い女性が布を重ねる。


 焼けた黒パンが籠へ移されると、籠そのものが少し沈んだ。重い。見ているだけで分かる。持ち上げる人は、腕だけでなく腰も使っていた。軽い焼き菓子の籠ではない。村の朝を運ぶ籠だ。


 その籠が共同炉の外へ出ていく。


 誰かの家へ向かうのだろう。


 私はそれを目で追った。


 黒パンがここで焼かれ、籠に入り、外へ出ていく。そうして、またどこかの食卓へ置かれる。今朝の私がそうだったように、誰かがそれをちぎって、汁へ浸して、食べる。子どもかもしれない。畑へ行く大人かもしれない。年を取った人かもしれない。まだ名前も知らない誰かの朝が、その籠の中に入っている。


 そう考えたら出口の向こうで、誰かがその籠を受け取るのだと思うと、ただの戸口には見えなくなった。


 ハンナさんが次の生地へ手を伸ばす。


 エリナさんが、その横で布を取り替える。


 私は柱のそばで、借りた靴の中の足を動かさないように立っていた。触らない。口を出さない。けれど、見ているだけでも、頭の中は忙しい。黒パンひとつで、こんなに順番がある。朝食に出てきた一切れの向こうに、これだけの手がある。


 昨日の私は、黒パンを「重いパン」としか思えなかった。


 今は少し違う。


 重いのは、パンそのものだけじゃない。


 粉の湿りを見る手。湯を止める声。昨日から残した生地を混ぜる指。炉の熱を待つ間。籠の印を間違えない目。そういうものが、焼けた皮の匂いの奥に重なっている。


 そこまで考えて、私はまた少しだけ口を閉じた。


 危ない。


 すぐ頭の中で文章にしたがる。分類したがる。分かった形へ押し込もうとする。まだ、ここで見たものは全部途中だ。黒パンも、籠も、火も、ハンナさんの手も。私が勝手にきれいな言葉へまとめた瞬間、どこか大事な粉の匂いが抜けてしまう気がした。


 だから、もう一度だけ炉の方を見る。


 ハンナさんの手が、次の大きな生地へ伸びる。


「次、大きいのを入れるよ」


 その声で、周りの人たちの手がまた少しずつ動きを変えた。布を取る人。灰を払う人。板を持つ人。籠の位置を直す人。誰かが外から戻ってきて、入口のところで足を止める。


 その時、炉の横の鍋から、別の湯気が細く混ざった。


 豆と根菜だけではない。


 乾いた、少し海に近いような香り。


 私は思わず、そちらへ目を向けた。


 黒パンの順番は、まだ続いている。


 でも、共同炉の朝は、黒パンだけでは終わらないらしい。

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