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第5話 中編 共同炉の朝 ① 粉の匂いと火の前

第5話 中編 共同炉の朝


① 粉の匂いと火の前


② 黒パンの順番


③ 干し海老と交換の味


④ 見ているだけでは済まない


【アユミ視点/異世界生活二日目・朝】


① 粉の匂いと火の前


 広場を離れると、火の匂いが少しずつ濃くなった。


 トルヴァンさんの家で嗅いだ火とは、違う匂いだった。あちらは、一軒の家の中に残る火だった。夜を越えて、朝に起こされる火。木の床や布や、鍋の湯気に混じって、その家の空気を内側から温めている匂い。けれど、広場の向こうから流れてくるこれは、もっと人の数が多い。薪の匂いに、粉っぽさと、焼けた皮のような香りと、灰の乾いた気配が混じっている。火そのものというより、火で何かを作っている場所の匂いだった。


 エリナさんは、迷わずそちらへ向かって歩いていく。


 私はその少し後ろをついて歩いた。借りた靴の中では、さっき巻き直してもらった布が指の付け根に当たっている。痛いほどではない。けれど、足を出すたびに、ここは自分の道具で歩いている場所ではないのだと教えてくる。白いブラウスも、オレンジ色のスカートも、もう昨日の夜ほど他人のものという感じはしない。でも、私のものになったわけでもない。


 借りた服で、借りた靴で、村の火の方へ歩いている。


 その事実が、足元から何度も戻ってきた。


 エリナさんは歩きながら、すれ違う人へ短く声をかける。桶を持った人には「そっちはあとで使うよ」と言い、籠を抱えた女の人には「ハンナの方へ回して」と告げる。足は止めない。けれど、声をかけられた人たちは、それだけで抱えているものを少し持ち直したり、向かう先を変えたりした。


 長い説明はない。


 でも、誰も迷わない。


 エリナさんの声は、家の中で私に湯や布を出してくれた時と同じようで、少し違った。私一人を見ている声ではなく、村の朝の中で、人や物がどこへ行くかを軽く整える声だ。昨日の夜、火床の前で見たエリナさんは、家の人だった。今、広場から共同炉へ向かうエリナさんは、村の中を歩く人でもあった。


 私は、さっきグレッグさんに言われたことを思い出す。


 まず見ろ。


 言葉にすると簡単だ。


 でも、目の前に知らないものがあると、私はすぐ分類したくなる。共同炊事場。パンを焼く場所。村の台所。給食室みたいなもの。パン屋。石窯のある作業場。頭の中で、知っている棚の名前がぱたぱた開く。


 けれど、どれも少し違う気がした。


 ここにあるものを、私の知っている名前へすぐ押し込むのは、たぶん危ない。名前を貼ると、分かった気になってしまう。ここは私の町ではない。学校でもない。家庭科室でもない。昨日までの私が知っていた台所でもない。


 だから、まず匂いを追うことにした。


 粉の匂い。薪の匂い。灰の匂い。湯気の匂い。焼けかけた生地の、少し重たい香り。


 それらは、広場の端にある低い屋根の建物から流れてきていた。


 共同炉は、家というより、大きな作業場に近かった。四方を完全に閉じた建物ではなく、厚い木の柱と低い壁で囲われ、風を避けるための板がところどころに掛けられている。屋根はしっかりしていて、高いところには煙を逃がす開口があった。炉は石と土を重ねたような丸みのある形で、口の前には灰が寄せられている。薪は長さごとに分けられ、すぐ足せるものと、まだ奥へ置いておくものが別になっていた。


 火は、家の火より大きい。


 でも、ただ大きく燃えているわけではなかった。強く熱を入れるところ、火を落ち着かせるところ、焼くものを置くところ。ぱっと見ただけでは全部の違いは分からない。けれど、火の前にいる人たちは迷っていなかった。薪を足す人。灰を寄せる人。台の上の布を替える人。粉袋を運ぶ人。誰かの手が動くと、その横の手は自然に少しだけ場所を空ける。


 床には、薄く粉が落ちていた。


 白い粉ではない。灰と混じり、足跡に踏まれて、ところどころ淡い筋になっている。炉の近くは熱で空気が揺れていて、少し離れた台の上には布を敷いた籠が並んでいた。水差しの口には粉がつき、木べらの先には生地が薄く残っている。濡れた布は、乾いた布と一緒には置かれていない。火に近い台、少し離した台、柱のそば。置かれている場所ごとに、たぶん理由がある。


 私は、どこに足を置いていいのか一瞬分からなくなった。


 エリナさんが、それを見ていたように横から言った。


「ここは、入口の脇でいったん止まりな」


「はい」


 すぐに足を止める。


 止まった場所のすぐ前を、粉袋を抱えた若い女性が通った。あと少し前へ出ていたら、邪魔になっていた。私は思わず足の指を借り靴の中で丸める。布が少し当たり、ちょっこし、いずい。


 でも、今はそのいずさがありがたかった。


 前へ出ようとする足を、小さく引き戻してくれる。


 炉の前にいた女性が、こちらを振り向いた。


 髪を布でまとめ、袖を上げ、腕に粉をつけている。エリナさんより少し若く見えるけれど、火の前では誰よりも迷いがなかった。体つきは大きすぎない。でも、粉袋を持つ腕、生地を押す手、火の熱を受ける肩に、毎日ここで動いている人の厚みがある。


 目元はやわらかい。けれど、こちらを見ても手は休まない。


 粉のついた指で木べらの柄を押さえ、隣の若い人が水差しを傾けすぎる前に、視線だけで止める。怒鳴ってはいない。声も荒くない。それなのに、水差しはそこでぴたりと止まった。


「来たね、エリナ」


「連れてきたよ。グレッグの話は通った」


「なら、まず見てもらうかい」


 その人が、私へ視線を移した。


 鋭い、というほどではない。でも、火の前の人の目だった。顔色だけではなく、手の置き方と足元まで一度で見る。昨日から何度も、こういう見方をされている気がする。この村の大人たちは、人を見る時、言葉より先に身体の状態を見る。立てるか。歩けるか。手を出しそうか。無理をしていないか。たぶん、そういうものが先に入る。


「アユミだね」


「はい。アユミです」


「私はハンナ。ここの火を見ることが多いよ。まあ、火だけ見てるわけじゃないけどね」


 そう言いながら、ハンナさんは木の匙をひとつ別の人へ渡した。


「それ、まだ水を足すんじゃないよ。粉が落ち着くまで待ってから」


「はい」


「こっちの籠は、布を敷き直して。底が湿ってる」


「分かった」


「薪は短い方。今は奥を強くしない。長いのを入れるのはあと」


「はい」


 短い指示が、次々と飛ぶ。


 でも、怖くない。相手を責める声ではない。火の前では、手が間違える前に言葉が先へ出るのだと思った。火、粉、湯、布、薪。少しでも遅れると、次の人の手が迷う。だから、ハンナさんの言葉は短い。短いけれど、必要なところへきちんと届いていた。


 エリナさんが私の横へ立つ。


「さっきグレッグが言っただろう。まず見ろ。ここは、勝手に手を出すと危ない。熱いものもあるし、家ごとに分けるものもある」


「はい」


「聞かれたら答えればいい。手を出すなら、先に聞く。分からないものを動かしたくなったら、その時点で止まるんだよ」


「分かりました」


 返事をしながら、私は両手を軽く前で重ねた。


 手を出さないための手の置き場所が、急に必要になった。


 気になるものが多すぎる。粉袋、炉の口、灰を寄せる道具、木の板、籠、布、生地らしい塊、焼けた後の黒パンらしきもの。全部見たい。触りたいとは言わない。言わないけれど、どうなっているのか、なまら見たい。


 けれど、ここで近づきすぎたら、たぶん邪魔になる。


 私は靴の中の足を少しだけ動かした。布を巻いてもらったところが、まだ少し気になる。そこが、今の自分の立ち位置を思い出させる。私は借り靴で、借りた服で、許された場所に立っている。勝手に動く人間ではない。


 アーミヤは、共同炉の入口あたりで止まっていた。


 さすがに火の前へずかずか入っていくことはしない。長い毛を少しだけふくらませ、王冠を載せたまま、前足を揃えている。入口の脇、邪魔にならない柱の近く。誰に教えられたわけでもないのに、そこを選んだように見えた。


 ハンナさんの手が、一瞬だけ止まりかけた。


 止まってはいない。粉のついた手を布で軽く払う動きの途中で、視線だけがその大きな猫へ行った。


「……大きいねえ」


 とても正直な感想だった。


「はい。大きいです」


「王冠もついてるねえ」


「はい。ついてます」


 それ以上、どう答えればいいのか分からない。


 外れません、と言うべきか。戻ります、と言うべきか。でも、ここで王冠の話を広げるのは違う気がした。グレッグさんも保留と言っていた。なら、私も保留にする。ハンナさんも、何かを察したのか、それ以上は踏み込まなかった。


「火に近づきすぎないならいいよ。毛に火がついたら大ごとだからね」


「アーミヤ、聞いた?」


 私が小さく言うと、アーミヤの耳がぴくりと動いた。


 聞いている。


 やっぱり聞いている。


 なのに返事はしない。


 アーミヤたん、アンタ、都合のいい時だけ猫のふりするんね。


 そう思ったけれど、口には出さなかった。今それを言っても、ハンナさんに「猫はそういうもんだよ」と普通に返されそうな気がしたからだ。


 共同炉の中では、粉袋が開かれていた。


 真っ白ではない。少し灰色がかった、重たい色の粉だ。細かいものと、少し粗いものが混じっているように見える。現代の小麦粉みたいな、さらさらで均一な白さではない。木の桶へ入れられると、ふわっと粉の匂いが立ち上がる。鼻の奥に、穀物の皮っぽい香りと、乾いた土に近い匂いが残った。


 ハンナさんは桶の中を見て、すぐには湯を入れさせなかった。


「まだ」


 水差しを持った若い女性の手が止まる。


 ハンナさんは桶の中へ指を入れ、粉を少しだけ持ち上げる。指の間から落ちる粉を見て、それから桶の端に残ったものを寄せた。粉を確かめているのか、湿りを見ているのか、私には分からない。けれど、ハンナさんの手は迷っていなかった。


「少しだけ」


 水差しが、今度は細く傾く。


 湯気が立ち、乾いた匂いと熱い匂いがぶつかった。粉の表面だけが濡れ、指で寄せられ、少しずつ重たい塊へ変わっていく。ハンナさんはそれを見ながら、横に置かれた布へも目をやった。


「その布、替えて。底が濡れてる」


「はい」


「こっちの台はまだ空けない。先に板を寄せて」


「分かった」


 火の前には、同時にいくつものことが起きている。


 粉だけ見ていればいいわけではない。湯も、布も、台も、炉の中の火も、籠の置き場も見ている。私は目で追いかけようとして、すぐに追いつけなくなった。右を見れば左の手が動き、左を見れば奥で薪がずれる。何がどこへ行ったのか、全部はとても覚えられない。


 共同炉、情報量が多すぎる。


 なまら多い。


 初見で全部覚えろって言われたら、脳内の棚が粉袋ごと倒れるやつだ。いや、棚だけじゃ済まない。粉も水も薪も巻き込んで、だいぶ大惨事になる。頭の中だけで粉じん爆発を起こしてる場合じゃない。今は、ちゃんと目の前を見る。


 私は思わず、両手を重ねる力を少し強くした。


 エリナさんが、私の肩の近くで言う。


「全部を今覚えようとしなくていいよ」


「はい。正直、無理です」


「うん。無理だね」


 即答だった。


 否定してくれてもよかったんだけど。


 でも、その即答に少し助けられる。無理でいいのだ。今ここにいる人たちが当たり前に動いているからといって、私が同じように見られるわけではない。分からないものは分からない。そこで止まる。


「最初は、誰の手が止まっていないかを見るくらいでいい」


 エリナさんは続けた。


「火の前で止まる手と、止まらない手がある。ハンナは止めていい手と、止めちゃいけない手を見てる」


「止めていい手と、止めちゃいけない手」


「そう。見ているうちに、少しずつ分かるよ」


 私は、ハンナさんの方を見た。


 彼女は私たちの会話を聞いていたのか、聞いていなかったのか、どちらとも分からない。けれど、水差しを止める声、布を替えさせる声、薪を選ばせる声は、途切れなかった。火の前にいる人たちの手が、ハンナさんの声で少しずつ動き方を変える。


 怒鳴らなくても、場が動く。


 そのことが、少し不思議だった。


 炉の奥で、赤く残った火が揺れた。誰かが灰を寄せる。ハンナさんはそちらへちらりと目を向け、すぐに言った。


「今はそこまで。奥は触らない」


「はい」


「短い薪を一本だけ。長いのはまだ」


「はい」


 薪を持った男性が、手元の束から短いものを選んだ。長い薪と短い薪は、台の下で分けられている。私には、ただ長さが違うだけに見える。けれど、火の前では、どれをいつ入れるかまで違うらしい。


 火にも、順番がある。


 そう思いかけて、私はすぐに言葉を飲み込んだ。


 順番、という言葉だけで片づけるには、まだ早い。私は薪の長さも、炉の熱も、黒パンの焼き方も知らない。ただ、今は長い薪ではなく、短い薪が選ばれた。それだけを見ておけばいい。


 ハンナさんが、ふとこちらへ身体を向けた。


「アユミ」


「はい」


「見るだけなら、そこがいい。火の熱も来るけど、人の足には当たらない。柱の脇に立って、台の上と炉の口だけ見てな」


 指されたのは、アーミヤが座っている場所の少し手前だった。


 柱のそば。炉の口からは少し離れている。粉袋を運ぶ人の通り道からも外れている。でも、台の上の粉や布、籠の動きは見える。なるほど、見るための場所。いや、見学者置き場、という言い方は軽すぎる。今の私が、邪魔にならずにいられる場所だ。


「分かりました」


 私は、言われた場所へ移動した。


 その途中で、足元の粉を踏みすぎないように気をつける。借り靴の底が、薄く粉を拾った。昨日は土で、今は粉。この靴は、私より先にこの村のいろんなものをつけていく。


 柱のそばに立つと、共同炉の中が少し違って見えた。


 正面から見た時より、手の流れが分かる。粉袋から桶へ。桶から台へ。台から炉の前へ。焼けたものが板へ。板から籠へ。まだ意味は分からない。けれど、人が何人もいて、声も匂いも重なっているのに、動きそのものは思ったよりぶつからない。


 私のすぐ横で、アーミヤが前足を揃えている。


「アンタ、場所取り上手すぎない?」


 小声で言うと、しっぽの先だけが動いた。


 否定しない。


 やっぱり否定しない。


 ハンナさんが、そんな私たちを見て少し笑った。


「そこなら猫も邪魔じゃないね。ただ、毛が舞うほど動くのはやめとくれ」


「アーミヤ、聞いた? 毛、だって」


 耳がまた動く。


 それだけ。


「絶対聞いてるんだけどなあ……」


 私がぼそっと言うと、エリナさんが横で小さく息を漏らした。


「聞いているなら、それでいいさ。返事を期待しすぎると、猫には負けるよ」


「猫って、そういうところありますよね」


 言ってから、私はアーミヤを見る。


 王冠がついているせいで、普通の猫論で済ませていいのかは正直分からない。でも、今はそれでいいことにする。王冠は保留。アーミヤも保留。共同炉では、火に近づかず、毛を舞わせず、柱のそばにいてくれる。それだけで十分だった。


 ハンナさんの手が、次の桶へ伸びる。


 水差しが待つ。粉袋が開かれる。炉の奥では火が揺れ、誰かが灰を寄せる。台の上では布が替えられ、籠がひとつ横へ動いた。全部を理解するには、まだ遠い。けれど、ここに立って見ていいのだと分かるだけで、少しだけ息がしやすくなった。


 それは、自由に動いていいという意味ではない。


 むしろ逆だ。


 この柱のそばから見る。火へ近づかない。台に触らない。籠を動かさない。聞かれたら答える。手を出すなら先に聞く。そういう線があるから、私はここに立てる。


 グレッグさんに言われたことが、借り靴の底で少しだけ分かった気がした。


 ここでは、立っていい場所から先に決まる。


 それを「村の手順」と呼ぶには、まだ私の知っているものが少なすぎる。


 だから、私は別のものを見る。ハンナさんが水差しを止める手。短い薪だけを選ぶ男の人。湿った布を替える若い女性。台の端へ寄せられた籠。炉の奥で小さく揺れる赤い火。


 ハンナさんの手が、次の桶へ伸びた。


 水差しは、まだ傾かない。


 私は柱のそばで、借り靴の中の足を動かさずに、それを見ていた。

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