第5話 前編 村長と朝の広場 ④ グレッグ村長
第5話 前編 村長と朝の広場
① 火の残る朝
② 朝の器と借りた靴
③ 広場へ向かう
④ グレッグ村長
【アユミ視点/異世界生活二日目・朝】
④ グレッグ村長
「お前さんが、アユミか」
声は低かった。
怒鳴っているわけではない。責めているわけでもない。ただ、その場に置かれたものを順に確かめる声だった。広場の土の上で、私の名前だけが一度、きちんと置かれた気がした。
「はい。アユミです」
名前だけを口にした。
家の名前まで言うべきなのかは、まだ分からない。少なくとも、トルヴァンさんは最初に自分のことを「トルヴァン」とだけ言った。村の名前は言ったけれど、家の名前までは出していなかった。なら、今の私が余計なものを足すのは違う気がした。
分からない時は、足さない。
たぶん、それがいちばん安全だ。
グレッグさんは、その短い名乗りを急かさず聞いた。
五十代半ばくらいの人だと思う。背筋はまだしっかりしていて、声にも目にも、何かを長く引き受けてきた人の重さがある。怒鳴る感じはない。けれど、広場の朝の音がこの人の前だけ少し低くなるような、そんな立ち方をしていた。
村長。
昨日から何度か聞いた言葉が、ようやく人の形になって目の前に立っている。
父よりは遠い。完全な他人よりは近い。親戚の集まりで、久しぶりに会う年長のおじさんを前にした時みたいな、自然と背筋が伸びる距離感に少し似ている。でも、そこへ村全体の責任みたいなものが乗ると、やっぱりただの親戚感では済まない。
私は手を前で重ねたまま、余計なことを言わないように口を閉じた。
ここで焦って喋ると、たぶん良くない。
グレッグさんは、私の目元を見た。
次に服を見る。
借りている白いブラウスと、オレンジ色のスカート。昨日の夜、エリナさんが用意してくれたものだ。さらに靴、足元、袖の長さ、髪、手。そこまで順に目が動いた。じろじろ見られている嫌さはない。でも、ちゃんと見られている感じはある。
借りた靴の中で、足の指が少しだけ縮こまった。
布を足してもらったところが、じんわり温かい。痛いわけではない。けれど、その感触があるせいで、自分がまだこの家のものを借りて立っているのだと、何度も思い出す。服も、靴も、上掛けも、今の私は全部この村の誰かの手を通っている。
その視線が、今度は私の横へ移った。
アーミヤだ。
王冠つきの大きな猫は、私の少し後ろで立っていた。広場の土の上に前足を揃え、長い毛を朝の光へ少しだけふくらませている。完全に緊張しているわけでも、完全にくつろいでいるわけでもない。そのくせ、逃げる素振りはまったくない。
王冠も、当然みたいに頭の上にある。
グレッグさんの目が、そこへ一度止まった。
そりゃ止まるよね。
私だって止まる。
アーミヤたん、その王冠、ほんとどうなってるんね。普通の猫です、で押し切るには情報量が多すぎる。いや、王冠がなくてもサイズでかなり怪しいけど。でも王冠があるせいで、普通の猫です、が一瞬で崖から落ちる。
「トルヴァン」
グレッグさんが言った。
声は低い。
けれど、圧をかけるための低さではなかった。必要なところだけを先へ通す声だ。
「見たことからでいい。順に話せ」
「昨日、南の道で見つけた」
トルヴァンさんが答える。
短い。けれど、いつもの短さとは少し違った。グレッグさんへ向ける言葉には、必要な情報を落とさないようにする硬さがある。
「集荷場からの帰りだ。森と畑の境の方で、見慣れん服の子が立っていた。猫も一緒だった」
「場所は」
「南の外縁道。リンドフェルトへ戻る方だ。村中心から歩けば、そう遠くはない」
その距離感を聞いて、私は少しだけ足の裏を意識した。
昨日のことなのに、もう少し遠くに感じる。白い光の中からいきなり知らない土地へ落ちて、足が痛くて、喉が渇いて、アーミヤだけが横にいて。あの時の景色は、まだ頭の奥で少し白くかすんでいる。
「様子は」
「混乱していた。だが、こっちの言葉は通じた。歩けはしたが、足は擦れかけていた。喉も渇いていた。服は、この辺のもんじゃない」
トルヴァンさんは、私の方をちらりとも見ない。
でも、言っていることは全部こちらに刺さる。
混乱していた。
歩けはした。
喉も渇いていた。
昨日の私を外側から見ると、そうなるんだろう。自分ではもっと頑張っていたつもりだったけど、客観的にはかなり危なっかしかったに違いない。なまら認めたくないけど、たぶんそう。
「害意は」
「少なくとも、俺には見えなかった」
トルヴァンさんはそこで、ほんの少しだけ言葉を選んだ。
「見慣れんものは多い。だが、こちらの話を聞こうとした。嘘を並べて押し切る感じでもない。猫も、こちらへ飛びかかるような真似はしていない」
猫も、という言葉で、アーミヤの耳がほんの少しだけ動いた。
聞いてるんだよね。
絶対聞いてるんだよね、アーミヤたん。
でも、当然みたいに黙っている。そこがまた、ちょっこし腹立つ。自分のことを話されているのに、まるで評議会に呼ばれた貴族猫みたいに落ち着いている。
「王冠は」
「外れんらしい」
トルヴァンさんが、そこだけは少し言いにくそうに答えた。
「少なくとも、昨日から今朝まで落ちていない。エリナも見ている」
グレッグさんの視線が、今度はエリナさんへ移る。
エリナさんは、私の少し斜め後ろに立っていた。広場へ来るまでの間、何人かに朝の声をかけていた時とは違って、今はちゃんと報告する人の姿勢になっている。手は空けている。けれど、さっきまで家の火や鍋を見ていた気配が、袖の折り目や髪のまとめ方にまだ残っていた。
「一晩、うちで寝かせたよ」
エリナさんが言った。
「湯を飲めた。黒パンと豆根菜の汁も、少しずつだけど食べた。足は擦れかけてたから洗って見たけど、ひどい怪我じゃない。熱も今のところないね。ただ、昨日の時点ではかなり疲れてた。今朝は少し戻ってるけど、まだ完全じゃない。さっき足には布を足した。村長のところまでは歩ける」
すごい。
話が分かりやすい。
しかも、私のことなのに、私より私の状態を整理できている。
トルヴァンさんが外で見つけた状態を言い、エリナさんが家の中でどう戻したかを言う。二人の話が、自然に繋がっていた。外で拾った人と、家の中で見た人。それぞれ見ていたところだけを出しているのに、私というよく分からない存在の輪郭が、少しずつ広場の真ん中へ置かれていく。
それが少し怖い。
自分で話す前に、自分の状態を他の人の言葉で並べられるのは、思ったより心細い。けれど、同時に助かってもいる。昨日の私のことを、私ひとりで説明しようとしたら、きっともっとぐちゃぐちゃになっていた。喉が渇いていて、混乱していて、でも言葉は通じて、猫がいて、王冠があって。そんなもの、どこから話せばいいのか分からない。
グレッグさんは、二人の話を遮らなかった。
聞き終えると、一度だけ私の足元を見た。たぶん、エリナさんが巻いてくれた布のことも、歩き方のぎこちなさも見ている。見られている、と分かった瞬間、足の中がまた少し汗ばんだ。
「本人の話は」
「まだ分からんことが多い」
トルヴァンさんが言った。
「自分のいた場所へ戻る道は知らないらしい。なぜここに来たかも、分からんと言っている」
グレッグさんの目が、もう一度私へ戻った。
「そうなのか」
「はい」
私はすぐ頷いた。
ここで曖昧にしない方がいい。分からないものは、分からないと言う。さっき自分で決めたばかりだ。
「気づいた時には、知らない場所にいました。誰かが私に何かを伝えようとしていたような気はします。でも、言葉としては届いていません。なので、誰が、何のために、どうやってここへ来たのかは、分かりません」
言いながら、自分の喉が少し乾くのを感じた。
言葉にすると、改めて意味が重い。
私は何も分かっていない。
呼ばれたのか、巻き込まれたのか、選ばれたのか、間違えられたのか。そこすら分からない。普通なら、この手の話って、最初に何か説明してくれる存在がいるものじゃないの。こういう世界の作法としてさ。少なくとも物語ではそうでしょ。ここがどこで、どうして来たのか、最低限の案内くらい欲しい。
でも、私には何も届いていない。
渡されたのは、妙に軽い身体と、言葉が通じることと、健康体っぽい状態。それから、王冠つきのアーミヤ。
最低限すぎる。
親切なのか不親切なのか、まだ判断に困る。
いや、言いたいことは山ほどある。山ほどあるけど、今ここで怒りのマークを額に浮かべても何も変わらない。グレッグさんの前で「説明不足がすぎるんですけど!」と叫んでも、村の人たちが困るだけだ。たぶん。
「分かっていることは」
グレッグさんが聞く。
私は少しだけ考えた。
どこまで言えばいいのか、分からない。
元いた場所のことを全部話すには、私の方もこの村のものさしを知らなすぎる。学校、家族、スマホ、電気、電車、冬の道路、数学のノート。何から話しても、たぶん変な方向へ転がる。だから、今ここで必要なのは、向こうの世界の説明ではなく、私がどれくらい何も分かっていないかを伝えることだと思った。
「私の服や持っていたものは、この村のものとかなり違うと思います。暮らし方も、たぶん全然違います。でも、詳しく説明するには、私の方もまだこちらを知らなさすぎます」
そう言うと、グレッグさんはすぐには返事をしなかった。
怒った様子ではない。
信じきった様子でもない。
たぶん、どちらにも寄せていない。聞いたことを聞いたまま、村長として扱える形へ置き直している。そんな沈黙だった。広場の端で、誰かが桶を置く音がした。鶏の声が遠くで重なる。なのに、私の周りだけ少し静かに感じる。
「嘘をついているようには見えん」
やがて、グレッグさんが言った。
胸の奥が少しだけゆるむ。
でも、次の言葉ですぐ締まった。
「だが、分からんものを分からんまま自由に歩かせるわけにもいかん」
「はい」
私は頷いた。
それは、そうだ。
ここで「なんも悪いことしませんから!」と言い切れるほど、私はこの世界のことを知らない。自分の身体の変化も、言葉が通じる理由も、アーミヤの王冠のことも、何も分からない。悪気がなくても危ないことはある。知らない道具に触れば壊すし、知らない土地で勝手に歩けば迷う。
ましてここは、私の常識の外にある場所だ。
グレッグさんは、共同倉の方へ一度だけ目をやった。
「トルヴァンやエリナから、少しは聞いているかもしれん。この村は、まだ恵まれた方だ。水はある。畑もある。鶏もいる。冬を越すための倉もある。食うものに困る日ばかりではない」
そこで声を少し落とした。
広場の向こうで、井戸の木がきしむ音がした。桶の水が揺れる音も、かすかに聞こえた。
「だが、それは勝手に残っているものじゃない。井戸を汚さん。倉の札を勝手に動かさん。鶏舎へ入る手を決める。火を見る者を決める。誰が何を持ち出すか、どこへ入っていいか、どの火に誰が手を出すか。そういう一つひとつを飛ばさないから、村は今朝も動いている」
言葉は難しくなかった。
でも、重かった。
さっき歩いてきた場所が、グレッグさんの言葉の中で一つずつ戻ってくる。井戸。共同倉。鶏舎。火。私はどれも見た。けれど、見ただけだ。誰が触っていいのか、誰が入っていいのか、何を動かしてはいけないのか、まだ何も知らない。
グレッグさんの目が、私へ戻った。
「外から見れば、村など小さい。井戸を一つ汚せば、何軒も困る。倉の札を一枚動かせば、誰かが探し回る。鶏舎で知らん手が餌を変えれば、卵の数まで狂う。悪気がなくてもそうなる」
悪気がなくても。
そこが、なまら刺さった。
私はたぶん、悪気はない。けれど、悪気がないことと、迷惑にならないことは同じではない。昨日から何度も思いかけては、ちゃんと形にできていなかったことが、今の言葉で広場の土の上へ置かれた気がした。
「だから、ここでは勝手を覚えてもらう。お前さんがどこの子か、どんな暮らしをしてきたかは、今は問わん。だが、この村にいる間は、この村の決まりで動いてもらう」
「はい」
私は、すぐに答えた。
声が少し硬くなった。
でも、仕方ない。
「分からん子を、分からんまま外へ置くほど、この村は軽くない。だが、分からんものを、分かった顔で自由に歩かせるほど軽くもない」
グレッグさんは、そう言って、足元の土へ視線を落とした。
そこには、私の借り靴の先があった。少し土がついている。布で調整された足首。昨日までこの村にいなかった人間の、頼りない足。
「村に置くなら、村の手順に乗せる。守るにも、疑うにも、そこからだ」
誰もすぐには口を挟まなかった。
井戸の方で、水桶の底が木の台へ当たる音がした。乾いた、短い音だった。
私は喉の奥で息を整えた。
守るにも、疑うにも。
そこが少し、不思議だった。守ると疑うは、反対側にある言葉だと思っていた。でも、この村では、たぶん同じ場所から始まる。分からないから切り捨てるのではない。分からないから、決まりの上へ置く。守るにも、疑うにも、まず同じ土の上に立たせる。
優しい。
だけど、甘くない。
怖い。
だけど、乱暴じゃない。
この人は、そういう場所に立っている。
「まず、村の外へ一人で出るな」
グレッグさんの声が、広場の空気へ落ちた。
「はい」
「村の中でも、しばらくはトルヴァンかエリナの目の届く範囲だ。勝手に井戸、鶏舎、共同倉、畑へ入るな。必要があれば、誰かをつける」
「分かりました」
「大きい町へ行けば何とかなる、とは限らん。門を通るにも、身元も、書付も、理由もいる。今のまま放り出せば、困るのはお前さんだけでは済まん」
その言い方に、少しだけ背中が冷えた。
大きい町。
昨日から、ここより大きな場所があるのだろうとはなんとなく思っていた。けれど、そこへ行けば自動的に解決するわけではない。考えれば当然なのに、心のどこかに「大きな町へ行けば何か分かるかも」という雑な期待があったのも事実だった。
その期待を、グレッグさんは静かに切った。
怒鳴らずに。
でも、甘くはしない。
「当面は、トルヴァン家で預かる」
グレッグさんが言った。
トルヴァンさんは短く頷く。
「構わん」
「エリナ」
「見られるよ」
エリナさんもすぐ答えた。
「ただ、うちも家と仕事はある。何でもかんでも抱え込むわけにはいかない。村のことを見せるなら、順番を決める」
「それでいい」
グレッグさんは頷いた。
そのやり取りが、またすごく現実的だった。
助ける。
でも全部は抱えない。
見る。
でも順番を決める。
そこに、変な甘さがない。だからこそ、安心できる気がした。都合の良い保護ではなく、村の中で実際に回る形へ落としてくれている。
私はその場で、何度も頷きそうになるのをこらえた。
ありがたい。
でも、自由になったわけではない。
村に置いてもらえた、というより、村の決まりの中へひとまず置かれた。
その違いだけは、なんとなく分かった。
「アユミ」
名前を呼ばれて、私は姿勢を正した。
「はい」
「分からんことは、分からんと言え。できんことは、できんと言え。できるかもしれん、で勝手に動くな。まず見ろ。手を出すなら、誰に聞くかを先に決めろ」
その言葉は、かなり真っ直ぐ刺さった。
できるかもしれん、で勝手に動くな。
昨日からずっと、頭の中で仮説ばかり増やしている私には、なまら効く言葉だった。何かが伝わり損ねたのかもしれない。王冠に何かあるのかもしれない。いつか連絡が来るかもしれない。帰る手段があるかもしれない。そういう“かもしれない”は、考えるだけなら自由だ。
でも、この村で勝手に動けば、他の人を巻き込む。
それは、たぶん一番やってはいけない。
「はい。分からないことは、分からないと言います」
言ってから、少しだけ足す。
「勝手には動きません」
グレッグさんは、私の目をもう一度見た。
それから、ほんの少しだけ顎を引いた。
「なら、今日はエリナについて動け。まずは共同炉だ。ハンナのところへ顔を出す」
「共同炉」
聞き返すと、エリナさんが横から言った。
「黒パンを焼くところだよ。粉をこねて、火を見て、焼けたパンを籠へ移して、家ごとに分ける。村の朝を見るなら、まずそこからがいい」
村の朝。
その言い方なら、分かる気がした。
昨日の夜、私は火のそばで黒パンと豆の汁をもらった。今朝も、火のそばで朝食を食べた。その先に、黒パンを焼く場所がある。粉をこねる人がいて、火を見る人がいて、焼けたものを分ける人がいる。食べ物が、誰かの手を通って家々へ渡る。
たぶん、それを見るのだ。
いきなり村の全体を分かろうとするのではなく、まず火とパンのある場所から。
「ただし」
グレッグさんが続ける。
「見るだけで分かった気になるな。手を出すなら聞け。聞かれていないことを、知っているふうに並べるな」
「……はい」
これも刺さる。
痛いところを順番に押されている気がする。
でも、嫌な押し方ではない。むしろありがたい。私はたぶん、考え始めるとすぐ分類したくなるし、名前をつけたくなるし、分かった気になりやすい。だから、最初に釘を刺してくれる人がいるのは助かる。
助かるけど、耳は痛い。
なんも言えん。
「この村には、この村のやり方がある」
グレッグさんが言った。
「お前さんの知っていることが役に立つこともあるかもしれん。だが、ここの者が何も知らんわけではない。まず見ろ」
私は、その言葉にゆっくり頷いた。
「はい」
これは、かなり大事だ。
私がいた場所の知識が、この世界で役に立つことはあるかもしれない。たぶん、ある。そうじゃなければ、私は本当に何も持っていないことになる。でも、だからといって、ここの人たちを知らない人扱いするのは違う。
昨日の夜だけでも分かった。
エリナさんは、火と食べ物で人を戻せる。
トルヴァンさんは、危ないものを見極めて家まで運べる。
この村には、私が知らない知恵がある。
むしろ今の私は、教わることしかない。
「猫の方は」
グレッグさんが言った。
アーミヤの耳が、ぴくりと動く。
「名は」
「アーミヤです」
ここはすぐ言えた。
「アーミヤ」
グレッグさんはその名を繰り返す。
アーミヤは返事をしない。人間みたいに頷きもしない。ただ、前足を揃えたまま、こちらを見る。目の奥が妙に静かで、ほんとうにただの猫なのかと、こういう時だけまた疑いたくなる。
「人に慣れているようだな」
「はい。私の家族みたいなものです」
家族。
言った瞬間、少しだけ喉の奥が詰まりかけた。
元の家のことは、まだ開きすぎない方がいい。そう思っているのに、言葉の端から少しだけ滲む。アーミヤがいなかったら、私は昨日の夜をどう越えていたんだろう。考えたくない。
「噛むか」
グレッグさんが聞く。
私はアーミヤを見た。
アーミヤはしれっとしている。
「相手によると思います」
正直に答えると、エリナさんが横で息を少し漏らした。
「少なくとも、昨日からうちでは噛んでないよ。火の前も、寝床も、変に荒らしてはいない。湯や食べ物にも余計なことはしない」
「ただの猫ではないな」
グレッグさんが言う。
断定だった。
でも、それ以上は踏み込まない。
「だが、今は害が見えん。王冠も含めて保留する。勝手に触るな。子どもにも触らせるな」
「分かりました」
これは即答できた。
というか、王冠はたぶん触ってもどうにもならない。外しても戻るし、いつの間にか頭にある。そういうものだ。でも、それを今ここで説明しすぎても余計に面倒になる気がした。
保留。
その言葉が、今はちょうどいい。
アーミヤも、保留。
私も、保留。
なんだか保留だらけだ。
でも、保留って悪いことばかりじゃない。切り捨てでも、無条件に受け入れられたわけでもない。分からないものを分からないまま、ひとまず危なくない場所へ置いておく。その判断をしてもらえたのは、大きい。
「今日のところは、ここまでだ」
グレッグさんが言った。
「トルヴァンは後で少し残れ。拾った場所の話をもう一度聞く」
「分かった」
「エリナは、アユミを連れて共同炉へ。ハンナへも話は通す。遠くへは行かせるな」
「分かったよ」
話が決まっていく。
私の知らない村の決まりの中で、私の置き場所が仮に決まっていく。
助かった、と思う気持ちはある。
でも、自由になったわけではない。
そこを間違えないようにしようと思った。
グレッグさんは最後に、もう一度私へ目を向けた。
「アユミ」
「はい」
「怖いなら怖いでいい。知らん場所へ来たなら、怖いのは当たり前だ。だが、怖いからといって、目を閉じるな」
それは、思っていたより少しだけ優しい言葉だった。
優しいけれど、甘くはない。
私は喉の奥で息を整えて、頷く。
「はい」
目を閉じるな。
それもまた、今の私にはかなり重い。
泣いても、叫んでも、怒っても、何も変わらない。たぶん、変わらない。だったら見るしかない。覚えるしかない。まだ大きな方針を言葉にできるほど、私は落ち着いていない。でも、その手前のところまでは、少しだけ分かった。
今日見るものを、ちゃんと見る。
それが、今の私にできる最初のことだ。
「行くよ、アユミ」
エリナさんが声をかける。
「はい」
私は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
グレッグさんにも、トルヴァンさんにも、エリナさんにも。
誰か一人に向けたというより、この場へそう言った感じだった。
頭を上げると、アーミヤがもう少し先へ歩き出していた。
当然みたいに。
まるで、次は火の方でしょ、とでも言うみたいに。
いや、アンタ、ほんとうにどこまで分かってるの。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
広場の朝の音が、また少しずつ戻ってくる。井戸の木がきしむ音。鶏の声。どこかで布を払う音。誰かが人を呼ぶ声。
さっきまで少し遠かった村の音が、また私の周りへ戻ってきた。
ただし、もうさっきまでと同じには聞こえない。
自由ではない。
安心しきってもいない。
でも、外に放り出されているわけでもない。
借りた靴の先が、広場の土から共同炉の方へ向いた。
その中途半端な場所を抱えたまま、私はエリナさんの後について歩き出す。
広場の向こうから、粉と火の匂いがゆっくり流れてきていた。




