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第5話 前編 村長と朝の広場 ③ 広場へ向かう

第5話 前編 村長と朝の広場


① 火の残る朝


② 朝の器と借りた靴


③ 広場へ向かう


④ グレッグ村長


【アユミ視点/異世界生活二日目・朝】


③ 広場へ向かう


 私は息をひとつ吸って、火のある家の外へ足を踏み出した。


 背中側に、まだ家の匂いが残っていた。火床の灰と、温め直された豆の汁と、洗われた布が乾く匂い。その全部が戸口の内側にあって、一歩外へ出た瞬間、そこへ土と草の匂いが混ざった。空気は涼しい。けれど、北海道の冬みたいに頬を刺してくるわけではない。朝の空気が軽く肌に触れるだけなのに、身体の奥に残っている季節感だけが、まだ少し読み間違える。


 ほんとにこの格好でいいの。


 そう聞いてくるのは、たぶん外気ではなく、私の中の冬だった。


 玄関先の土は、踏まれ慣れていた。


 家の中の床とは違って、やわらかい場所と固く締まった場所が足裏へ交互に返ってくる。借りた靴は、さっきエリナさんが布を足してくれたぶん、昨日よりはずっとましだった。それでも自分の靴ではない。つま先の余り方も、踵の当たり方も、歩き出すたびにちょっこし気になる。昨日、荷車を降りる時に室内履きで土へ立ったことを思えば、これでも十分ありがたい。ありがたいけど、身体の方はまだ「借りものです」と律儀に申告してくる。


 アーミヤは、私より先に外へ出ていた。


 王冠を載せた頭を少しだけ上げ、鼻先で朝の匂いを拾っている。長い毛が薄い光を含んで、家の中で見るより少し茶色く見えた。耳は前。しっぽはゆるく後ろへ流れている。警戒していないわけじゃない。でも、怯えてもいない。火のそばでも、知らない土の上でも、どうしてそんなに自分の場所みたいに立てるのか、本当に謎だった。


 アーミヤたん、ほんと適応力どうなってるんね。


 口に出しそうになって、飲み込んだ。今は村長さんに会いに行く前だ。朝から猫相手に全力で突っ込んでいる場合ではない。いや、入れたいけど。だいぶ入れたいけど。


「離れるなよ」


 トルヴァンさんが、戸口の脇から短く言った。


「はい」


 すぐ返事をする。


 その「離れるな」は、ただ迷子になるなという意味だけじゃないのだと思う。私はまだ、この村の誰にとっても、きちんと説明のついた人間ではない。トルヴァンさんが拾い、エリナさんが家へ入れてくれた。昨日はそれで夜を越せた。でも、村としてどう扱うかは、まだこれから決まる。


 勝手に歩き回っていい立場ではない。


 そう思うと、家の前の道さえ急に広く見えた。


「エリナさんは……」


 振り返ると、エリナさんは戸口の内側で器と布を手早く片づけていた。私たちを見送りながらも、手は止まっていない。使い終えた器を寄せ、火の位置を見て、鍋の蓋を少しずらしている。


「私はあとから行くよ。火を見て、鍋を下ろして、家を空けてもいい形にしてからだ」


「すみません」


「謝るところじゃない。行くなら、行く支度をしてから行く。それだけだよ」


 その言い方が、なんだか強かった。


 心配だからついていく、ではない。放っておく、でもない。家のことを止めず、必要な時に来る。その順番が、エリナさんの中ではもう決まっているのだろう。私ひとりのために家の火も鍋も投げ出すわけではないけれど、だからといって私を見捨てるわけでもない。そういう距離の取り方が、今の私にはありがたかった。


 私はもう一度「はい」と返して、トルヴァンさんの横へ並んだ。


 並んだ、と言っても、歩幅は全然違う。トルヴァンさんは普通に歩いているだけなのに、私の方は少し早足になる。背の高さも、肩幅も、足音の重さも違う。昨日、荷台から降ろしてもらった時にも思ったけれど、この人は動くとますます大きい。威圧しているわけではないのに、道の方が自然に空くような存在感がある。


 家の前を離れると、村の朝が一気に近くなった。


 まず聞こえたのは鶏の声だった。甲高い声がいくつも重なり、その合間に羽の擦れる音が混じる。少し遅れて、犬が短く吠えた。吠え続けるのではなく、何かを確認して返事したみたいな声だった。井戸の方からは桶を引き上げる木のきしみがして、どこかで戸が開く音もする。


 昨日も聞いていたはずの音だ。


 でも、今日は少しだけ違う。


 昨日は荷車の上で聞いていた。川辺から運ばれて、畑を過ぎて、鶏舎の前で子ども達に見られて、それからこの家へ連れてこられた。あの時の村の音は、私の外側を流れていた。私は藁の上に座って、ただ運ばれていた。


 今日は、自分の足で土を踏んでいる。


 火のある家で一晩を越したあとに聞く村の音は、ただの背景ではなかった。誰かが起きて、誰かが水を汲み、誰かが鶏を見て、誰かが火を起こしている。そのひとつひとつが、朝という形へ集まっている。ここに暮らしている人たちにとっては当たり前のことでも、私にはまだ、全部が新しい。


 私は、なるべく足元を見すぎないように歩いた。


 でも、見てしまう。道の端には、細い藁くずや小さな木片が落ちていて、ところどころに車輪の跡もある。完全に整えられた道ではない。でも、何度も使われてきた道だ。人が通るところは締まり、荷を置く場所は少し削れ、家の近くは掃き寄せた跡がある。生活が通ったあとが、そのまま地面に残っている。


 その地面を、私は借りた靴で踏んでいる。


 足の中に入れてもらった布が、歩くたびに少しだけずれるような気がした。痛いほどではない。けれど、まったく気にならないわけでもない。エリナさんが「ずれたらすぐ言いな」と言ってくれた理由が、歩き出してから分かった。足元の小さい違和感は、我慢すると、たぶんどんどん大きくなる。今はまだ大丈夫。でも、気づかないふりはしないでおこうと思った。


「こっちだ」


 トルヴァンさんが言う。


 道は、家々のあいだをゆるく曲がっていた。まっすぐな大通り、という感じではない。家と納屋と小さな柵、その隙間を人が歩きやすいように抜けていく道だ。見慣れない私には少し複雑に見えるけれど、トルヴァンさんは迷わない。たぶん、道というより、村そのものを身体で覚えているのだと思う。


 左手の少し向こうに、井戸が見えた。


 数人の女の人が水を汲んでいる。ひとりが桶を持ち上げ、もうひとりがそれを別の桶へ移し、三人目が濡れた手を布で拭っている。言葉は少ない。けれど、どの桶が家へ行くものか、どれが共同のものか、見ているだけでなんとなく分けられている気がした。井戸のまわりの土は濡れていて、朝の光を少しだけ暗く返している。水の匂いと、湿った木の匂いが近い。


 そのうちのひとりが、私たちに気づいて目を上げた。


 視線が、まずトルヴァンさんへ行く。


 次に、私。


 最後に、アーミヤ。


 そこで、明らかに止まった。


 まあ、止まるよね。


 昨日の荷車でも、同じような視線を浴びた。王冠つきの大型長毛猫が、知らない女の子と一緒に村の道を歩いている。現代日本でもまあまあ事件なのに、こっちの村でも普通の光景ではないらしい。女の人は驚いた様子を見せたけれど、声は上げなかった。桶を持つ手も落とさない。トルヴァンさんが連れているから、まずは見て保留、という感じだった。


「トルヴァン、その子かい」


「ああ」


「村長のところ?」


「そうだ」


 それだけで話が通った。


 女の人は私へ軽く会釈のようなものをして、すぐ桶へ視線を戻した。ただ、完全に気にしていないわけではない。手は動いているのに、耳だけこちらへ残っている感じがした。


 そりゃそうだ。


 私だって、もし自分の住んでいる町内に、変な服の女の子と王冠猫が現れたら、めっちゃ見る。なまら見る。表面上は落ち着いたふりをしても、内心は二度見どころでは済まないと思う。


 それに比べたら、この村の人たちはだいぶ落ち着いている。


「……みんな、あまり騒がないんですね」


 小さく言うと、トルヴァンさんが前を見たまま答えた。


「騒いで済む話なら騒ぐ」


「済まないから?」


「そうだ」


 短い。


 でも、その短さで十分だった。


 この村の人たちは、驚いていないわけではない。驚いても、まず手を止めすぎないのだ。火がある。水がある。鶏がいる。朝の仕事がある。見知らぬ私が来たからといって、それらを全部放り出せるわけではない。


 それが、少し怖くて、少しありがたかった。


 私は見世物ではない。


 でも、完全に馴染んでいるわけでもない。


 その間の場所へ、ひとまず置かれている。そう感じた。


 井戸のそばを過ぎる時、桶を持った若い女の子が、ちらちらとこちらを見た。私ではなく、たぶんアーミヤの方を。視線を向けられた王冠猫は、まったく気にしていない。歩調も変えず、しっぽの先だけをゆるく揺らしている。


 アンタ、こういう時だけ堂々としすぎだべ。


 そんなことを考えた瞬間、しっぽの先がぴくりと動いた気がした。


 聞こえた?


 いや、まさか。


 でも、まさかが多すぎる猫なので油断できない。


 共同倉の前へ近づくと、人の流れが少し増えた。


 倉は思っていたより大きい。家ほどではないけれど、ただの物置と呼ぶには存在感がある。入口の前には木箱や籠が並び、まだ中へ入れるものと、外へ出すものと、今だけ置いているものがあるらしかった。男性が二人で箱を動かし、少し年上の女性が袋の口を確かめている。若い子が小さな束を抱えて横切った。


 木箱の横には、薄い木札が下がっていた。


 文字らしいものが刻まれている。見れば意味は頭に入りそうな気がした。でも、今は立ち止まって読む場所ではない。そもそも、私が勝手に近づいていいものでもない。入口の土は踏み固められていて、そこだけ人の足の向きが少し複雑だった。入る人、出る人、荷を置く人、受け取る人。それぞれが当たり前みたいに動いている。


 何が入っているのかは、まだ分からない。


 でも、ここを雑に扱ってはいけないのは分かる。


 食べ物、道具、布、何かの種、交換に使うもの。そういうものが、家ごとではなく村として置かれている場所なのだろう。まだ詳しい仕組みまでは知らないのに、入口の空気だけで、ここがただの倉庫ではないことが伝わってくる。籠の置き方も、箱の動かし方も、人の足の向きも、勝手に近づいていい感じではなかった。


 私は自然と、少しトルヴァンさん側へ寄った。


 気になる。


 とても気になる。


 でも、勝手に近づいてはいけない気がしたからだ。


「入るなよ」


「はい」


 先に言われた。


 足が寄っていたのかもしれない。いや、寄ってたと思う。気になるものを見ると足が動く癖、ほんと危ない。ここは博物館ではないし、私は見学客でもない。


 共同倉の前にいた男性が、トルヴァンさんへ目を向けた。


「グレッグなら広場側だ」


「分かった」


 トルヴァンさんは足を止めずに返す。


 その人も、こちらを少し見た。やっぱり、私よりアーミヤで視線が止まる。王冠猫は当然みたいに歩いていた。見られても、毛づくろいを始めたりしない。逃げもしない。むしろ「見たいなら見れば?」くらいの落ち着きがある。


 親善大使というより、村へ視察に来た偉い猫みたいなんだけど。


 いや、猫って元々そういうところあるけど。


 共同倉を過ぎると、家々のあいだが少しひらけた。


 広場まではもう近いらしい。地面が少し広く使われていて、荷車の跡が薄く曲がっている。道の端には切り株を使った腰掛けのようなものがあり、その近くに小さな木片が落ちていた。どこかで誰かが何かを削ったのかもしれない。


 その向こうから、子どもの声が聞こえた。


 数人が家の脇にいて、何かを抱えている。木片だろうか、布だろうか。遊んでいるようにも見えるし、手伝いの途中にも見える。こちらに気づくと、声が少し小さくなった。


 視線が、私へ来る。


 それから、アーミヤへ吸われる。


「猫……?」


 小さな声がした。


「王冠……」


 別の子が言った。


 分かる。


 そこは見る。


 私も逆の立場なら、絶対そこを見る。


 その中に、見覚えのある子たちがいた。


 昨日、鶏舎の前で卵の籠を抱えていたミラ。王冠から目を離せなかったヨハン。それから、ミラの後ろからこちらを見上げて、「猫、えらいの?」と聞いた小さいシア。


 名前まで覚えている自分に、少しだけ驚いた。昨日の私は、頭の中がほとんど雪崩だったのに、こういう小さい札だけは、ちゃんとどこかに残っているらしい。


 アーミヤは足を止めた。子どもたちの方へ近づきすぎるわけでもなく、逃げるわけでもなく、ただ少しだけ頭を向ける。しっぽの先が、ゆっくり動いた。


 その動きに合わせて、シアが半歩だけ前へ出かける。


 ミラが、その手首をそっと押さえた。


「触っちゃだめだよ。昨日も言ったでしょ」


「見るだけ?」


 シアが聞く。


「見るだけ」


 ミラは短く答えて、それからトルヴァンさんへ目を向けた。


「村長のところ?」


「ああ」


 その横で、ヨハンはもうアーミヤの王冠を見ていた。昨日と同じだ。いや、昨日より少しだけ遠慮が少ない。触りたい気持ちが、足の先に出ている。


「ヨハンも」


 トルヴァンさんが言うと、ヨハンは一歩出かけた足を止めた。


「……見るだけ」


 うん。そう。


 つまり、ちょすな案件。


 私の頭の中ではそう変換されたけれど、もちろん口には出さない。現地の言葉は意味としてすっと入ってくる。でも、響きが北海道の言葉になるわけではない。私の中で一番近い言い方を探すと、どうしても「ちょすな」が浮かぶだけだ。


 触るな。いじるな。余計なことするな。


 王冠つきの大きな猫を前にした子ども達の判断としては、なまら正しい。


 ミラは昨日と同じように、近づきたい子の手を先に止めていた。卵籠を抱えていた時もそうだったけれど、この子はたぶん、見るより先に手を止められる子だ。


 ヨハンは、相変わらず王冠から目を離さない。聞きたいことが口の中に詰まっているのが、動かない足先で分かった。シアはミラの袖を軽くつかんだまま、アーミヤと私を交互に見ている。


 アーミヤたん、見られてるよ。


 心の中でそう言うと、しっぽの先が一度だけ揺れた。


 この猫、絶対わざと堂々としてる気がする。


「アーミヤ、寄るな」


 トルヴァンさんが短く言う。


 アーミヤの耳がぴくりと動いた。


 止まるわけではない。でも、少しだけ歩く位置が私の側へ戻る。


 ……聞いてる。


 聞いてるし、従ってる。


 私は内心で目を細めた。


 アンタ、ほんとにどういう基準で人の言うこと聞いてるんね。


 子ども達の声を後ろにしながら、私たちは広場の端へ入った。


 広場、といっても、石畳の大きな広場ではない。家と共同倉、井戸へつながる道、鶏舎へ向かう道、そのいくつかがゆるく交わる場所だ。地面は踏み固められていて、真ん中あたりには荷車を止められそうな空きがある。端には切り株を使った腰掛けらしきものや、道具を一時的に置く台のようなものも見えた。


 切り株のそばには、さっきまで誰かが座っていたのか、土が少しだけ削れていた。台の端には縄の跡が残り、荷車の轍は広場の真ん中で薄く曲がっている。ここは、ただ空いている場所ではなさそうだった。


 昨日の私は、たぶんこういう場所を見ても、ただの広い空き地だと思ったと思う。


 でも、今は少し違う。


 家から出る。井戸を通る。共同倉を横目に見る。子どもたちの視線を受ける。そうやって歩いてくると、この広場が、ただ空いているから空いている場所ではないのだと分かる。いや、分かると言い切るのは早い。そう見える、くらいに留めた方がいい。


 決めつけない。


 余計に触らない。


 聞かれたら答える。


 分からないことは、分からないと言う。


 その繰り返しだ。


 広場の一角に、年配の男性が立っていた。


 背は高すぎない。けれど、周りの人が自然にその人のいる場所を避けて動いている。道を譲るというより、そこが用事の中心だと分かっている動き方だった。髪には白いものが混じっていて、額や目元には深い皺がある。でも、弱々しい感じはしない。目が先に動き、言葉より早く状況を拾う人のように見えた。


 たぶん、この人だ。


 グレッグ村長。


 私がそう思った瞬間、トルヴァンさんが少しだけ足を緩めた。


「グレッグ」


 呼び方は、畏まりすぎてはいない。


 けれど、軽くもない。


 年上の村長を呼ぶ声であり、同じ村を動かしてきた相手へ向ける声でもあった。トルヴァンさんの短い声ひとつで、近くにいた何人かがこちらへ目を向ける。けれど、余計に近づいてはこない。


 グレッグさんは、こちらを見た。


 最初にトルヴァンさん。


 次に私。


 その視線は、想像していたより静かだった。


 服、靴、足元、手の位置。見られている、と思った時にはもう、かなりのことを拾われている気がした。怖いほどではない。でも、誤魔化せる相手でもない。私は背中が自然に伸びるのを感じた。借りた靴の中で、布を巻いた足が少しだけ汗ばむ。


 最後に、グレッグさんの視線がアーミヤへ移る。


 王冠のところで、ほんの少しだけ止まった。


 ほんの少しだけ。


 けれど、その少しが分かるくらいには、相手の目は落ち着いていた。


 アーミヤは座りもしない。逃げもしない。私の少し横で、ただ立っている。王冠つきの大型猫という、どう考えても情報量のおかしい存在なのに、本人、いや本猫は、まったく困っていない。困っているのはたぶん私だけだ。


 私は息を飲み込んだ。


 ここから、私がこの村で何者として扱われるのかが決まる。


 少なくとも、その最初の形が決まる。

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