第3話 偽りの兄弟
真の名を呼ばれた悠斗は、少しもあわてる様子もなく、先刻現れた青年の方を向いた。「大丈夫だと言ったのに来たのか。そんなに俺は頼りないか?」
少し寂しそうに言う悠斗に対し、青年は首を振った。
「そういうわけではありません。ただ私は――」
「いいよ、別に」
悠斗は青年の言葉を遮った。
「別に怒っているわけではない。ありがとう、来てくれて」
優しく言う悠斗に、青年は微笑み返した。実と始は事故以来、初めて見る悠斗の顔に驚いた。それはまるで子供を見守る親のようだった。
「さてと、とりあえず帰るか」
「そうですね」
二人はそう言って歩き出した。
「どうした、いつまでそうしている」
悠斗は呆然としていた実達に向かって言った。
「事情は後でゆっくり説明してやる。とりあえず帰るぞ」
実達は我に返り、急いで二人の後を追った。これから知らされる事実が、この生活に終わりを告げるものとは知らずに・・・。
家に着いた悠斗達は濡れた身体を暖め終え、熱い紅茶を飲んでいた。と、言っても、実際に飲んでいるのは悠斗と青年だけで、実と始はとても落ち着いて飲んでいられなかった。つい先ほどまで現実とは思えない光景に遭遇していたのだから、無理もない話である。それに対し、落ち着いている悠斗はゆっくりと紅茶を飲んでいた。
「さて」
急に口を開いた悠斗に実と始は驚き、紅茶をこぼしかけた。それにかまわずに悠斗は言葉を続ける。
「まず自己紹介しようか」
そう言われてみればこの青年の名前すら知らないことに気づいた二人は、あわてて言った。
「あ、杉崎実です。悠斗の双子の弟です。は、初めまして」
「兄の杉崎始です。初めまして」
青年の方は軽く礼をして言った。
「フェンリルといいます。初めまして」
丁寧に言われ実はぺこぺこと頭を下げた。始は大分落ち着いてきて、軽く礼を返した。「でも、さっき会った奴はフローズ・・・って」
「ああ、『フローズヴィトニル』は私の別名です」
フェンリルは始の質問を先に読みとり言った。
「それじゃあ、俺も自己紹介しておくか」
そう言った悠斗の方を全員が向いた。
「しかし、よろしいのですか?」
フェンリルが心配そうに言った。
「かまわないさ。どうせそろそろ潮時だと思ってたんだ」
悠斗は一度息を吐いて、ゆっくりとした口調で言った。
「俺の本当の名はロキ。欺瞞と悪戯を司る北欧神だ」
しばらく二人は何も言えなかった。急に言われたことを理解できない二人に対し、フェンリルが落ち着いた調子で言った。
「お二人とも落ち着いて聞いてください。これから話すことは全て事実です」
北欧神話。それはヨーロッパに伝わっていた神話である。この神話にはオーディンという名の神を筆頭に多くの神々が登場する。ロキはその中の一人である。そして彼はこの神話の中で大きな役割を担っているのだ。
この神話に登場する九つの世界は三つの平面に分けられる。頂上の平面には戦士の神々の領域アースガルド。二つめの平面は人間の住む中央の世界ミッドガルド。三つ目の平面は凍った霧と暗闇の世界ニヴルヘイム。そして三つの世界にはそれぞれ泉があり、そこはユグドラシルの根に繋がっている。ユグドラシルとは世界樹である巨大なトネリコの木のことである。三つの世界はこの世界樹の恩恵を受けていた。オーディンとその兄弟たちが作り上げたこの世界は、何事もなく、永久に続くかのように思われた。しかし、数百年、数千年続いた神々の支配はある時、予言通り終わりを迎える。神々と巨人族の戦い。これが後に神々の黄昏と呼ばれるものである。これにより神々の時代は終わりを告げる。ロキはこの戦いで神々と敵対し、息子たちと共に命を落とした。そして滅びた世界は希望の神バルドルによって再生する。ここまでが神話として語り継がれるものである。
しかし、現実は違った。神々の黄昏の後、ミッドガルドは別の次元へとばされ、今の人間界が誕生したのである。人間界に逃げ込んだロキは傷ついた魂を癒すために、長きに渡る休息を必要とした。そして新たな肉体を得るために一人の人間の魂と同化する。
「ちょっと待った」
始が話を途中で切った。フェンリルは一度悠斗の顔を見た。悠斗が軽くうなずくのを見ると、始に促した。始はそれを確認すると、ゆっくり言った。
「同化と言ったが、それはつまりどういうものなんだ?」
するとフェンリルは台所へ向かい、卵を二つ持ってきた。
「この二つのゆで卵で説明させていただきます」
家に着いてすぐにまず台所へ行ったのでおかしいと思っていたが、最初からこうするつもりだったのだと、実と始はあきれた。一方悠斗の方は感心したように言った。
「相変わらず準備がいいな」
「そんなことはありませんよ」
フェンリルはそう言って否定したが、本心ではうれしそうだった。そしてゆで卵の殻をむいた。
「このゆで卵が魂だとします。数千年前、ラグナロクの後、肉体を失った我々は新たな器を求めました。そして適正な人間の魂と同化することにしたのです。そして父上が選んだ人間が大杉悠斗。あなた達の兄弟です」
「・・・は?」
しばらくの間、一般人二人は何も言えなくなった。
「何だ。そんなにショックだったのか? まあ、無理もないが――」
「「父親?」」
部屋中に響いた声と予想していたものと違う驚きに、悠斗は逆に驚いてしまった。
「ちょっと待て! 父親ってどういうことだ?」
始は震える指で悠斗を指さして言った。
「・・・驚くのはそっちか? と言うか、おまえら北欧神話をまったく知らないのか」
「「知らない」」
息のあった兄弟の言葉に、悠斗はあきれて何も言えなかった。何も言えない父親に変わって、息子が説明した。
「私は父上の長男になります。さらに二人の弟妹がいます」
「と言うか、そこら辺は自力で調べろ。北欧神話くらい読んでおけ」
立ち直った悠斗が、後を引き継いだ。そしてフェンリルが話を進める。
「大杉悠斗は誕生する前に死ぬ運命でした。しかし父上の魂と融合した為、肉体は存命し続けたのです」
そう言いながらフェンリルは片方のゆで卵を半分に割った。中は半熟で黄身は完全には固まっていなかった。
「融合当時、父上の魂は完全には体に定着することができていませんでした。だから大杉悠斗の魂で自分の魂を覆うことで少しずつ定着していくことにしたのです。ちょうどこの卵の黄身と白身のようなものです」
そう言いながらさらにもう一つの卵を割った。こちらは完全に固まっている。
「十数年掛けて完全に定着するはずだったのですが、そこでおもわぬハプニングが起こります」
「二年前の交通事故か?」
始が訊くと、悠斗は何も言わずにうなずいた。
「二年前の事故で悠斗の魂は完全に俺に吸収された。予定よりも数年早かったが、まあさして問題はない」
「じゃあ、二年前までは悠斗だったの?」
実は身を乗り出した。
「表面上はな。だが基本は俺だ。最初から大杉悠斗なんて人間は生まれてないんだよ」
悠斗の言葉は残酷だった。しかしそれは真実だった。大杉家の次男、「大杉悠斗」は最初から生まれてなかったのだ。ロキはあくまでその肉体と魂、そして立場を利用したに過ぎない。
「人間の魂と融合したのはもう一つ理由がある。他の神々に気づかれないためだ。力が戻るまでは人間の振りをする必要があった」
融合したロキの魂は他の神々に気づかれた。そしてその為の刺客が送られてきた。それがトールだ。
「詳しいことは北欧神話を読んで勉強しろ」
悠斗はゆで卵をかじりながら言った。もうこれ以上説明する気はないようだ。すると始が口を開いた。
「一つ聞きたい」
「何だ?」
「おまえにとって、俺達との生活はただ利用するためだけのものだったのか?」
始は滅多に見せない表情で言った。それは怒りを抑えている顔だった。悠斗はそれを嘲るかのように言った。
「人間ごっこも、それなりに楽しかったよ」
始はテーブル越しに悠斗の襟をつかんで乱暴に引き寄せた。怒りに震えている兄に対し、悠斗は謝罪の念をまったく持っていなかった。動こうとしたフェンリルを無言で制し、見下すように言った。
「そんなに怒らなくてもすぐに出ていってやるよ。どうせ潮時だったんだ」
始の手を振りほどき、自分の部屋に向かった。フェンリルもその後を追った。実は立ちつくす始に何も言えなかった。
三十分ほど経った後、悠斗は荷物を持って部屋から出てきた。そしてそのまま玄関へと向かった。
「世話になったな」
ただそれだけを言うと、フェンリルを伴って扉の向こうへと姿を消した。実は始の様子をうかがった。始はうつむいたまま動こうとしなかった。実は悠斗達の後を追った。部屋に一人残された始は、テーブルを力一杯叩いた。テーブルの上にあったティーカップが倒れ、黒い水たまりを作った。
「くそっ・・・」
テーブルに広がったコーヒーは震える手を映していた。
「悠斗!」
実は出ていった悠斗を引き留めた。
「これからどこ行くの?」
「フェンリルが住んでるマンションに行く。前から考えて準備してたしな」
「出ていくことないじゃない」
しかし悠斗はそう言う実を哀れむように見つめて言った。
「今さら一緒に暮らせるわけないだろう。俺は「兄弟」の振りをしていた邪神なんだ」
「だからって・・・」
言葉に詰まりうつむいた実に、悠斗は一枚の紙を渡した。
「住所と電話番号だ。また誰か来たらここに来るよう言え。大杉家の両親のことは気にしなくていい。事後処理はちゃんとしておく」
何も言わない実の頭を、悠斗はまるで動物の頭を撫でるかのように軽く撫でた。
「じゃあな」
実が顔を上げたとき、悠斗達の後ろ姿が遠のいて行った。実は追いかけることもできず、ただ立ちつくすことしかできなかった。雨はすでに止んでおり、夕日が実の頬から落ちる涙を紅く染めていた。




