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第4話   静かな変化と永遠の不変

「本当に良かったのですか?」

 荷物を下ろしている悠斗に、フェンリルが言った。

「何がだ?」

「あの御兄弟のこと」

「いいんだよ。もう人間ごっこはいい」

 悠斗は荷物を下ろし終えると、身体を伸ばした。

 本当にそうだろうかと、フェンリルは考えた。彼の父は自分の家族を何よりも大切にする。たとえそれが偽りの家族だったとしても、まったく愛情を感じなかったとは思えない。しかしそれを表に出すことは無いだろう。他人に奥まで入られるのを嫌う人だ。何よりも弱さを他人には見せない。自分の子供にも見せはしない。そして、唯一彼が全てを見せられる人は、もういない。

「明日ヘルを迎えに行ってくる」

「ヘルを? 大丈夫でしょうか」

「どうせ人間の医療では、あの子の身体を治すことはできないよ」

「そうですね・・・」

 フェンリルはそれ以上、何も言わなかった。


 大杉家の両親は「悠斗」がいなくなったことに、何も言わなかった。悠斗は宣言通り、「事後処理」をしていったらしい。始は夕食を食べ終えると自分の部屋に閉じこもってしまった。夕食の時も、何も言わなかった。実は食事もほとんどのどを通らなかった。

「二人ともどうしたの? 気分でも悪いの?」

 普段よりも暗く見える二人を母親は心配した。父親もそれに同意するようにうなずいた。実はそんな二人を見て怒りが沸いてきた。それはただの八つ当たりだろう。しかし何も知らずにいる両親が憎ましかった。悠斗がどういった事後処理をしたのかはわからない。しかし、十七年も育ててきた息子がいないのに、平然といられる両親の姿を見ていると、八つ当たりでもいいから怒りをぶつけたくなる。しかし実際にはできない。彼らに非はないのだ。

「何でもないよ、母さん」

 実はそう言って安心させると、自分の部屋へ帰った。

 実の部屋は元々悠斗と共有で、部屋には二人分の机と、二人が寝る二段ベッド、二人分の服が入っているクローゼットが置かれているはずだった。しかしいずれも昨日とは違っていた。ベッドは実の使っている上の段にしか布団が敷かれておらず、クローゼットには実の服しか入っていない。悠斗の机はなく、本来あるべき場所には長年、机が置かれていた古い跡があった。まるで何年も前から「大杉悠斗」がいないかのようだった。実は本棚からアルバムを取り出した。分厚いアルバムには埃が被っていた。アルバムに収められた写真は、どれも兄弟のいずれかが写っているものだった。家族で写っているもの、友人と写っているもの、学校行事の時のもの、始と実、そして悠斗が写っている。写真は三人が小学校に入ってからのものが多く、最近だと実の入学式などだ。実はアルバムをめくるうちに、予想していた通りの結果になっていることを確信した。悠斗の写っている写真が、二年前の日付以降のものが一枚もなかった。「大杉悠斗」は二年前に姿を消しているのだ。実はアルバムを持って始の部屋へ向かった。

 始は実から渡されたアルバムに目を通し終えると、しばらく黙り込んだ。そしてアルバムを閉じた。

「俺もたぶんそうなんだろうと考えていた」

 突然次男がいなくなれば周囲が混乱する。だからといって存在を消してしまっては、様々なところで矛盾が生じてしまう。しかしすでにいない人間ならば問題はない。写真からしても、悠斗が存在していたのは二年前の事故以前まで。実と始はこれらから考えられた想像が当たっているかを確かめるために、動き出すことにした。


 翌日は昨日の雨が嘘のような晴天だった。子供たちは昨日外出できなかった分を取り戻そうと、朝から外へ飛び出している。

 町の一角にある病院。そこは朝特有の静けさに包まれていた。受付を初めてすぐの待合室には、看護婦や医者が行き来しているだけだ。こんな朝早くから病院に来るものは少ない。入院患者も朝の検査や、朝食後の休憩を取っている。見舞いに来るものは少ない。そんな病院の廊下を、悠斗は一人歩いていた。彼は一つの病室の前で足を止めた。その部屋は一人用の個室で、壁に「幸村舞」と書かれた名札が掛けられていた。悠斗はその扉を数回ノックした。返事はすぐに返ってき、悠斗は中に入っていった。病室には青白い肌の少女がいた。ベッドから起き上がっている彼女は、いかにも病人らしかった。顔は青白く、ウェーブのかかった長い髪は、老人のように白かった。右手には包帯が巻かれており、顔の半分は垂れ下がった髪に隠されていた。

 悠斗の姿を見ると、彼女は生き返ったように明るくなった。

「いらっしゃい、お父様」

 自分を父と呼んだ少女に、悠斗は優しく笑いかけた。

「やあ、ヘル」

 悠斗が呼んだこの名こそが、少女の本当の名だ。彼女はヘル。邪神ロキの娘だ。


 ロキにはシギュンという忠実な妻がいた。しかし、彼は巨人族の女性アングルボダとの間に三人の子供をもうけていた。長男がフェンリル、次男がミドガルズオルム(ヨツムンガンド)、末の娘がヘルだ。この三人は三匹のモンスターと呼ばれ、神々から恐れられたいた。このモンスターたちの存在を知った最高神オーディンは、それぞれを引き離した。ミドガルズオルムは海に放り投げられ、世界を取り巻くほどの大蛇となった。ヘルは半身が死んでいる怪物で、死者の世界「ヘル」に放り込まれた彼女は、死者たちの女王となった。フェンリルは大地を飲み込むほど巨大な黒い狼で、神々にだまされ、チュール神の腕と引き替えに鎖に繋がれてしまう。

 ラグナロクの時、フェンリルは鎖の呪縛から解放され、ミドガルズオルムやヘルの兵士たちと共に父ロキに従い、神々と戦った。この戦いでフェンリルはオーディンを飲み込むが、その息子ヴィーダルによって討たれてしまう。ミドガルズオルムはトールと戦い命を落とした。ヘルも世界の崩壊と共に消滅した。


 急いで図書館から借りてきた北欧神話の一部を読み終えると、始は本を閉じ、深いため息をついた。

「・・・あいつ、狼だったんだ」

 悠斗に言われたとおりにするのは気に入らないが、自分たちが彼らについて無知に等しいのは本当のことだ。始と実はバスの中で北欧神話関連の書物を読みあさっていた。

「しかしこれを見ると、あいつどう見たって悪者だな」

 「あいつ」とは、昨日まで彼らの兄弟だった男のことである。彼らが兄弟と信じていた男の神の名はロキ。北欧神話に登場する邪神だ。

 ロキは悪戯と欺瞞を司る邪神だ。彼は北欧神話の中で最も謎に包まれていると言っても過言ではない。彼は神々と敵対する巨人族の出身でありながら、最高神オーディンと義兄弟の誓いを果たしている。彼の悪戯は時に度を超したものとなり、彼自身を危険にさらすこともあったが、彼はその要領の良さと頭脳でことごとく逃れてしまう。そんな彼は他の神々からも嫌われていたようだが、時には神々にすばらしい恩恵を与え、頼りにされることもあった。しかし最終的に神々を裏切りラグナロクの際、戦死した。これが一般に北欧神話に描かれているものだ。これを見るとたいていの人間は彼を悪者と呼ぶだろう。実際に始や実が受けた第一印象はそうだった。彼ら自身、悠斗の矛盾した性格に悪魔のような一面を見てきた。この神話をそのまま鵜呑みにするのはよくないことだが、今までの悠斗を思い返すと、信じてしまいそうになる。少なくとも、彼は善意満ちた神ではない。悠斗を見ても、それだけは断言できる。

「兄さん、着いたみたいだよ」

 弟に言われて、始はバスが目的地に到着していたことに気づいた。二人は本を鞄にしまうと、誰もいないバス停に降り立った。そのバス停は墓地の前にあった。


「ずいぶん早い時間ね」

「ああ、迷惑だったか?」

「ううん、お父様ならいつでも大歓迎よ」

 娘の嬉しそうな顔を、悠斗自身も嬉しそうに見ていた。実たちには見せたことがない、父親の顔だ。

「今日は迎えに来たんだ。フェンリルと三人で暮らそう」

 ヘルは一瞬、さらに明るさを増したが、それはすぐに消えた。そして逆に悲しそうな顔をした。

「・・・神々が来たのね」

「・・・ああ」

「けがはない?」

「ああ」

「本当に?」

 娘の心配する顔に、悠斗はやさしく触れた。

「俺は嘘つきだけど、おまえたちには嘘をつかないよ」

「でも、隠し事はするわ」

 悠斗は何も言えなかった。ヘルは悲しそうに父親を見つめた。

「否定してくれないのね」

「・・・ごめんな」

 そう言って悠斗はヘルを抱きしめた。それでもヘルは悲しそうだった。

「私達じゃ、代わりにもならないの?」

「・・・代わりが必要だと思ったことはないよ」

 人にとっては気が遠くなるほど長く、しかし神にとっては短い時間が流れた。しかしどんなに時が過ぎようとも、どんなに世界が変わろうとも、心の空白を埋める術は見つからなかった。いや、見つけようとしなかった。代わりになるものなどあるはずが無いと知っていたからだ。たとえ大きく、そして多くのものを得たとしても、まったく同じものを得ることは不可能なのだ。

「行こう、ヘル。俺達の家へ」


 始と実は一つの墓の前に立っていた。表面には「大杉家之墓」と書かれている。二人が見たのは墓の側面だ。いくつも故人の名が刻まれている。その中で一番新しい名だけを見た。他の名よりもはっきりと見えやすい字は、この名が刻まれてあまり時間が経っていない事を示している。日付は二年前、享年十五歳、名は大杉悠斗。彼らの兄弟の名だった。 悠斗は二年前の事故で死んだ。少なくとも世間、そして自分たち以外の人間の中ではそうなっている。これが悠斗の言っていた事後処理だ。おそらく誰に聞いても、この二年間の悠斗のことを知っている者はいないだろう。

「本当にいないんだ。『悠斗』は・・・」

 改めて落ち込む弟に対し、始は冷たかった。

「最初から『悠斗』という人間はいなかったんだ。ただそれだけの事だ」

 だが実は簡単には割り切れなかった。今さら「悠斗」と過ごした日々を消すことはできない。それは始にとっても同じだった。弟の存在が嘘だったとしても、弟として生きた人間がいたのは事実だ。しかし、それを全て受け止めることはできない。

「・・・帰ろうか」

 始の言葉に、悠斗は黙って首を縦に振った。兄弟の絆は切れたのである。

第1章「始まりを告げるは裁きの雷」終了です。

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