誓い
天文十五年(1547年)二月(五歳)
下総の冬は厳しく、乾いた北風が本佐倉城の板戸をカタカタと鳴らしていた。
だが、城内を包む寒さは、冬の風のせいだけではなかった。この千葉家を支えてきた大黒柱、当主・わが父、千葉利胤の命の火が、今まさに消えようとしていたからだ。
症状から見るに、たぶん結核だと思われる。
石鹸で衛生事情を変えたが、結局歴史には勝てないのか。
病床の枕元には、すでに医者もなすすべなく、重臣たちが沈痛な面持ちで控えていた。
少し前から医聖と呼ばれる永田徳本を探させていたが、甲斐の国をすでに出ていて信濃に移ったあと、諸国を巡っているらしく所在がわからなかった。
もっとも、抗結核薬なぞこの時代にあるわけもないので、彼を連れて来たところで治る保証は何もなかったが・・・。
この世界に来てからの親ではあったが、この5年で情もわいたのか、身体年齢がそうさせるのかわかないが、悲しくて涙が止まらない。
父は、すでに起き上がる体力もなく、布団の中で浅い呼吸を繰り返している。その痩せこけた頬は、かつての威厳を偲ばせるものの、死相は誰の目にも明らかだった。 利胤は、うつろな瞳をゆっくりと巡らせ、そして一箇所で止めた。 「……民部丸。これへ……」 掠れた、枯れ木が擦れるような声。 俺は、涙をこらえて父の顔を覗き込んだ。 「はい、ちちうえ。みんぶまるはここに……ここにおりまする」
俺は両手で、父の骨ばった手を包み込む。冷たい。生きている人間の温かさが、指先から逃げていこうとしている。
利胤は、俺の顔をじっと見つめた。 その瞳には、父としての慈愛と、そしてどこか畏敬にも似た光が宿っていた。 「民部丸よ……。そなたは、まこと不思議な童よな」 「……ちちうえ?」 利胤は苦しげに、けれど口元に微かな笑みを浮かべた。 「儂はな……そなたと話していると時折、自分よりも遥かに年かさの、徳の高い賢人と話しているような心地になることがあった……三歳で塩水選を説き、四歳で酒を造り、この家を富ませた。その手腕、その眼差し……とても幼子のものとは思えなんだ」 俺の心臓が早鐘を打った。
父は、気づいていたのか。俺の「中身」が、単なる幼児ではないということに。 利胤は、民部丸の動揺を宥めるように、握られた手に僅かな力を込めた。 「……案ずるな。そなたの中に宿る魂が、神仏の使いか、あるいは古の知恵者か、それは分からぬ。だがな、民部丸。そなたが、儂とあやめの間に生まれ、儂を『父』と呼び、慕ってくれた。……それだけで、儂は果報者であったよ。良き嫡男に恵まれたと思うておる」 「ちちうえ……っ」 俺の目から、堪えきれないほど涙が溢れ出してきた。 前世の記憶を持つ自分を、異物としてではなく、愛すべき息子として、そして千葉家を救う希望として受け入れてくれていたのだ。
利胤の視線が、ふと虚空を彷徨った。 「……そなたの母も、草葉の陰で喜んでおろう……」
母は、身分は高城氏の娘であり、位は低くは無かったが側室であり、俺を産むと同時にこの世を去った。
父は妻の、民部丸の亡き母のことを片時も忘れてはいなかったのだ。
「あやめには、苦労ばかりかけた。……だが、これでようやく詫びに行ける。……民部丸のことは、立派な跡取りに育てたと、胸を張って報告できる……」 息継ぎが、次第に荒くなっていく。
だんだんと最期の時が迫っていた。 父は、残る力を振り絞っているであろう力で、俺の手を強く、強く握りしめる。
「民部丸……あとを、頼む……嵐が来るぞ。里見、そしてやがては北条も、牙を剥くだろう……。
家中も荒れるであろう。だが、そなたなら……そなたなら、できる……」 「はい……!」 「千葉の……千の葉が舞うこの地を……守り抜け……」
父の手の温もりが、徐々に、しかし確実に失われていく。 握り返す力も消え、手は布団の上に力なく崩れ落ちた。
しかし穏やかな顔だった。すべての荷を下ろし、天へと旅立った、安らかな死に顔。
「……ちちうえ。ごあんしんください」 俺は、声を絞り出すように父の耳元で、子供の言葉ではなく、魂からの言葉を紡いだ。 「ちばのいえは、このみんぶまるがかならずやもりたててみせまする。……ちちうえがまもり、のこしたこのくにを、だれにもわたしたりはしませぬ」
部屋を支配していた静寂が、一人の男の慟哭によって破られた。 「殿……ッ! お早すぎまする……ッ!」 控えていた胤清だった。 「うおおおおおおおおおっ」彼は床に額を打ち付け、肩を震わせて泣き崩れた。
別の世界線では傀儡を企てたはずの男が、今や誰よりも深く、主君の死を悼んでいた。その姿につられるように、胤貞をはじめとした家臣たちからも、嗚咽が漏れ始めた。
大の大人が、武骨な武人たちが、声を上げて泣いていた。それは、千葉利胤という人物が、いかに家臣たちに慕われていたかの証左でもあった。
俺は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
これから俺は千葉家当主として立たなければならない。
父の死を乗り越え、俺、民部丸は今、戦国乱世という名の荒野へ放り出されるのだ。
天文十五年二月。千葉家二十五代当主・千葉利胤、逝去。享年三十二。
葬儀は城下の菩提寺、勝胤寺にてしめやかに行われた。
北条家からも当主代理として一門衆であり外交担当重臣の北条幻庵が出席した。
葬儀の喧騒が静まり、冷気だけが漂う本佐倉城の一室。 そこで、わずか六歳の新当主の俺、民部丸が原胤清を伴い、北条家の宿老であり「相模の黒衣」とも評される北条幻庵に対峙することになった。
幻庵は、俺が幼いので後見人的な介添役として胤清がいると思い、最初は胤清に向き合おうとした。
「幻庵殿。新当主はこちらにおわす民部丸様にございます。話の向きは民部丸様にお話しくださるようお願いしまする」胤清がそれを察して幻庵に俺に話をするように促した。
「ほう。左様でございましたか。それは失礼いたした。さりとて幼き御子に某の言葉がわかりますかな?」
「おこころづかい、かたじけなくおもいまする。さしつかえありませぬ。」
幻庵は、指で数珠を弄びながら、細められた瞳でじっと目の前の幼子に見える俺を観察した。
その眼光は、獲物を鑑定する老練な鷹のそれであった。
「さて……千葉家のご嫡男、いや、民部丸殿。此度は、誠にご愁傷様でござる。利胤殿という名君を失ったことは、関東の静謐を願う我が北条にとっても痛恨の極み」
幻庵は深々と頭を下げた。だが、その声には湿り気はなく、どこか試すような響きが含まれている。
「ありがとうございます、げんあんどの。えんろ、おだわらよりのごちょうもん、ちちもくさばのかげでかんしゃしておりましょう」
俺は微塵も動じず、凛とした声で応えた。 おおよそ五歳児とは思えぬその落ち着きに少し驚いたのか、幻庵の眉がわずかに動く。
「時に、民部丸殿。聞き及んでおりますぞ。三歳にして農法を説き、四歳にして銘酒を醸したとか。……いやはや、まるで菅原道真公の再来のような。左様な『神童』が隣国におられること、わが主氏康も大変お喜びで、ぜひ後見として支えたいと申しておりましてな」
胤清がビクッと身動きしたのが横目で見えたが
「こうけん……でございますか」
俺は、幻庵の言葉の裏にある「傀儡化」という罠に気づいた。
幻庵は笑みを浮かべたまま、さらに言葉を重ねる。
「左様。下総の国衆は一筋縄ではいかぬ者たちばかり。ましてや南には安房の里見が、虎視眈々と千葉の領土を狙っておりまする。幼き当主お一人では、風除けも必要かと存じましてな。どうかな、この老いぼれの知恵、あるいは北条の武威、いつでもお使いくだされ」
俺は、ゆっくりと幻庵の瞳を見つめ返した。
「げんあんどののおことば、いたみいります。……なれど、ごあんしんめされよ。わがちちはゆくまぎわに、こうもうしました。『このしもうさのちを、まもりぬけ』と。さとみがきばをむくならば、そのきばをおり、しもうさを、たいらくおさめるのがわがやくめ。ほうじょうさきょうだゆうさまとは、よしみをむすび、たすけあうほうゆうとして、となりあっていられれば、それがいちばんのしあわせにございます」
「……ほう」
幻庵の数珠を繰る手が止まった。 「助け合う朋友」――。 それは、北条の傘下に入ることを拒絶した言葉、俺の意志だ。
幻庵はわざとらしく、高く笑い声を上げた。
「くく……、ははは! これは一本取られましたな。なるほど、ただの神童ではござらぬ……ですが、民部丸殿。あまりに早熟な果実は、鳥に啄まれやすいものですぞ。過ぎたる知恵は、時として身を滅ぼす火種ともなりかねませぬ」
「ごちゅうこく、きもにめいじます。なれど、ひえきったこのしもうさでは、そのひだねこそがたみをあたためるたねびとなりますゆえ」
幻庵の右眉がピクッと痙攣したように見えた。
ちょっとカチンと来たかな?だが俺は、少しも引かないし引くつもりも無い。
幻庵は、立ち上がり、最後に一瞥をくれた。その表情は、先ほどまでの柔和な「隠居」のものではなく、乱世を生き抜く政治家の顔になっていた。
「(……恐ろしい童よ。利胤殿、貴殿はとんでもない化け物を残していったな。単なる童ならば御しやすいが、この眼差し……進むべき道を決め、すでに先を見据えておる。千葉家、いや、この民部丸という童は、今のうちに北条の下に封じ込めておかねば、いずれ関東の主導権を奪いかねん)」
「では、私はこれにて。……民部丸殿。いずれまた、ゆっくりとお話を伺いたいものですな」
「ええ、そのときをたのしみにしておりまする」
幻庵が部屋を去り、板戸が閉まる。 その瞬間、幻庵は廊下で立ち止まり、深く息を吐いた。彼の背中には、冷や汗が流れていた。五歳の子供を相手に、これほどまでの威圧感と、底知れぬ恐怖を感じたのは初めてだった。
一方、部屋に残された俺は、小さく震える自分の手を見つめた。 恐怖ではない。武者震いだ・・・と思う。そう思いたい。別に怖かったわけじゃない。
後世、歴史に名だたる北条家の妖怪とも称される北条幻庵との邂逅にしばらく興奮が収まらなかったんだ。
北条幻庵か……俺の中身はこいつよりずっと年上の爺なんだよな。。
外は寒く下総の空はどこまでも高く、乾いた風が吹き抜けていく。
父の死と共に、俺は齢五歳にして千葉家第二十六代当主となった。
前世では定年まで会社を勤め上げ、穏やかな引退生活を送るはずだった男が今は乱世の荒波の只中に立っている。
あらためて思うが、中々にハードモードすぎる……。だが、やるしかない。基盤は作った。味方もいる。
そして父の葬儀の喧騒の裏で、安房の里見義堯のような関東の梟雄たちが、幼き当主の誕生を好機と見て、不穏な動きを見せるだろう。
そろそろ本気モードで国作りを進めて行くときが来たな。
お読み下さり有難うございます。
初投稿の素人ですので、稚拙な個所や至らぬ点が多々あるかと思います。
生暖かい目で見てくださると幸いでございます。




