南方三十三館の臣従と各地の動向
年は明けて天文二十二年(1554年3月 12歳)。
南下進攻してくる佐竹軍に対し、同盟国である常陸の小田氏を救うべく、千葉軍が援軍に駆け付け、佐竹の軍勢を完膚なきまでに叩き伏せたその報は、野火のごとく常陸国中を駆け巡った。
そして、その後に小田氏治が千葉氏に臣従したという報せは更に諸国を驚かせた。
これまで佐竹の威勢を恐れ、あるいは古河公方の気まぐれな風向きに翻弄されていた大掾氏や鹿島氏ら、いわゆる後世に「南方三十三館」と呼ばれる常陸東南部の国人衆にとって、それは青天の霹靂であった。あの佐竹の軍勢を正面から粉砕した千葉氏の軍事力。かつてない衝撃は、彼らの心に「誰の下につくことが真の安寧か」を改めて考えさせる結果となった。
特に先の戦役では佐竹氏に脅されたとはいえ、佐竹軍の領内通過を黙認した大掾氏は千葉にいつ詰問されるか、戦々恐々としていた。
俺はその機を見逃さない。
「よし、この勢いで南常陸の海側を平らげるぞ」
俺の命を受けた原胤清は、わずかな護衛を伴い、単身に近い形で外交へ向かった。
胤清は、大掾氏の居城を皮切りに、鹿島氏ら、主要なる十二家の本拠地を順に巡る。
俺が命じたことだが大掾へは先の佐竹氏への融通を咎める事は一切せず、立場に理解を示している事を伝えたうえで、力で威圧するのではなく、今の常陸が置かれた危うい情勢と、これから千葉がもたらすであろう平和と安定について滔々と説明をした。
「佐竹の影に怯え、古河の命に翻弄される日々は、もう終わり。千葉の翼の下にこそ、貴殿らの家と領民の未来がある」
胤清の説得は、様子見のため沈黙していた国人たちの心を動かしたようだ。
利害を考え、千葉という勢力の強大さとその信頼性に、彼らは臣従を決意したようだ。
数日後。本佐倉城の大広間は、かつてない緊張と熱気に包まれていた。
南方三十三館から結集した十二家に加え、その傘下にある小領国人・地侍衆も含めた総数二十五家の当主たちが、皆平伏している。
・・・・あれ?今は南方三十三館とは呼ばれていない事はこの間知ったが、三十三家じゃないんだな。いくつかは滅びたとかかな?
(注:後世江戸時代に水戸から見て「南の方向(鹿島郡・行方郡)にある、たくさんの(三十三の)館・城主たち」という意味合いで名付けられた。仏教用語で「三十三」という数字は「無数」「至る所」「網羅されている」という意味合いを含む、おめでたくも重みのある数字だった)
俺は着座すると上座から見渡して声を掛けた
「一同、おもてを上げてくれ」
「ははー!」
皆一斉に顔を上げる。
一段前に着座している髭もじゃが大掾かな?
すると、その髭もじゃが「常陸府中が城主、大掾慶幹にございまする。以後お見知りおき下さりませ」とよく通る野太い声だった。
顔のイメージとピッタリだな。
そしてその後、鹿島次郎通幹をはじめとする国人衆が次々と名乗っていった。
その中には卜伝で有名な塚原氏の名前もあった。
現当主は塚原土佐守安幹だったか。
そうだ、後で塚原卜伝の事を尋ねてみよう。あわよくば千葉家の剣術師範として招きたい。
「早速であるが、此度は一同揃ってどのような赴きで来られたのかな?」
「はっ!此度、千葉介親胤様に申し上げたき儀がございまする」
すると大掾慶幹が、深く額を床に擦り付けながらそう言った。
「我ら常陸南領の者、千葉様へ臣従致したくお願いに罷り越しました。どうか千葉家の末席にお加え頂けますようお願い申し上げまする」
「お願い申し上げまする」そうして一同がひれ伏した。
一斉に頭を下げる二十五家の主たち。これによって南常陸の海岸沿いが我が千葉の版図に組み込まれたことを意味する。俺はゆっくりと頷き、一人ひとりに視線を巡らせた。
「一同、おもてをあげよ」
「皆の志、しかと受け取った。常陸南領の衆、これよりは千葉家と一体となり、共に平穏なる国を築いて参ろうではないか」
「ははー!」
その言葉とともに、広間には安堵と決意を示す熱気が満ちたように感じた。
千葉の勢力圏が常陸南部すべてに浸透した瞬間だ。
土浦以東の大掾氏、鹿島氏などを攻略・臣従させて太平洋岸に面する東南常陸も手中に入れ、銚子湊の安全性も高まった。
だが、この報は北の地で、猛獣の如き男の怒りを呼び起こした。
常陸太田城にて南領二十五家の千葉家臣従の報を受けた佐竹義昭は、届いた書状を握り潰し、丸めて強く握りしめた。
「おのれ千葉親胤!!下総の小童が・・・」
義昭の目には、燃えるような焦燥が宿っていた。南領(南方三十三館)の千葉氏臣従は、佐竹が悲願とする「常陸統一」にとって、致命的な障害となった。このまま傍観していれば、佐竹の常陸一統支配は根底から覆る。
「……とにかく今は次の挙兵に備えて兵を整えよ。必ずや再び南へ攻め上る。今度は腑抜けた猫武士の小田などではなく千葉を叩き、常陸の地より叩き出さねば、常陸一統は望めぬ」
義昭は右手の拳で脇の畳を激しく叩いた。
常陸の空には再び、暗雲が立ち込めようとしていた。
南方三十三館の臣従によって手に入れた束の間の平和は、より巨大な戦火の予兆を呼び寄せる。
天文二十三年(1554年)5月(12歳)。
房総から常陸南部にかけて、新緑を抜ける温かい風が吹き抜けていた。
俺はひとり、城の天守から遠くの筑波山を見ながら物思いに耽る。
我が千葉家が里見、結城を降し、佐竹・真壁連合軍を退け、南常陸の「不死鳥」小田氏治や南方三十三館を傘下に収めた報は、瞬く間に関東全域や南東北の諸大名を震撼させたようだ。
その噂は遠く近江まで届き、三好と仲違いをして再び朽木谷に身を寄せている、時の室町幕府将軍「足利義藤(義輝)」の耳にも入り、再び京に戻れるように支援を求める御内書を送り付けて来た。
今はまだ遠い畿内の事など構ってはいられないが、いずれは幕府とも関りが出て来る事も考え、京へ戻る際の費用の足しとして銭一万貫文と澄酒を10樽、ほかに干しシイタケと魚の干物などを贈ってやった。
義藤は忠義の臣は関東にもいると大層喜んだらしく、太刀二振りと上総介、そして安房守の名乗りの許可と屋形号の許しも出た。
大盤振る舞いだな。よっぽど嬉しかったみたいだ。
俺は関東公方をいじめた張本人なのに特に糾弾される事もなかったので、ちょっと意外だった。
この一族は意外に疎遠なのかも知れない。
そして、幕府のついでではないが、良い機会なので朝廷にも内裏の修復費用の足しにと、同じものを贈った。
今上天皇は後奈良天皇で、大層お喜びになり、涙を浮かべられたとの事。
現関白の近衛前久から感謝の手紙が返って来た。
現代語で崩して要約すると
「このたびは有難う。御上もとても喜んでいたよ。見返りは無用との事だったが、御上が是非にと言うし、出来る事と言えば官位の斡旋しか出来ないので、せめてそれで許して欲しい。代々千葉介を継いでいるようだが、今回は下総守(正五位下)ではなく右近衛少将(正五位上)を授ける事に決まったよ。良ければ受け取りに上洛してね」
なんと、朝廷から呼び出しがかかってしまった・・・。
まだ目立つことはしたくなかったが、仕方がない。
ただ、往路に朽木谷に寄る必要が出ちゃったな。
面倒に巻き込まれなければ良いけど。
そして、関東公方の足利義氏には常陸の戦のあとで佐竹を唆した事や、戦を邪魔したことを軽くお話をしたが、素直に謝ってきた。
どうやら、これ以上対立しても埒が明かないと理解したのだろう。
敵に回らなければどうという事はないので、毎年米五百石と一千貫文の銭を献上の名目で送って保護する事にした。
それが効いたか、その後は大人しい。
余計な事をされたら面倒だからな。気を付けないと。
朝廷や将軍家に寄進したので、一応権威を敬っていますよという建前だけは見せておかないと、他国にもつつかれたりしそうなので、これは必要な事と割り切った。
なお、義氏のところにいた元関宿城主の梁田晴助は自領を奪った俺を許せなかったのか、上野にいる関東管領の上杉憲正のところに移っていったらしい。
その上杉も後北条に攻め立てられて風前の灯火と化している。
もうすぐ越後の長尾を頼って再び亡命するだろうな。
梁田はついていくのだろうか?あいつ景虎(のちの上杉謙信)に俺の事を告げ口したりして、景虎が正義感で義憤にかこつけてこっちに攻めてくるか?なんか嫌なフラグを立ててしまったようだ・・・・。
虎退治の策を考えておかないといけないな。
史実では浄三が追い払っているから何とかなる気もしているのだが、どうだろう。
そんな事を考えていたら、その裏で後北条・千葉連合軍に惨敗を喫した今川家とその戦で甘い汁を吸うことが出来なかった武田家が急接近していたようだ。
武田家の駒井高白斎(政武)と向山政辰が頻繁に駿河と甲府を行き来していると葉隠衆より報告があり、後北条家も風魔から報告を受けて警戒していたが、とうとう同盟を結ぶに至ったらしい。
甲駿同盟と呼ばれたそれは十中八句、後北条・千葉連合に対抗するものだろうな。
正史では甲相駿三国同盟だったけど、今川と後北条は今バッチバッチだからな。
だがこれで関東に関しては三すくみの様相を呈した形になった。
千葉・北条vs武田・今川vs長尾・上杉。
謙信が関東管領(正義感)を振りかざしてこちらに来ようとしたら、武田がその下腹(信濃)に食いつくだろうから迂闊には動けないだろう。
厄介極まりないことだが、今のところは俺にとって謙信の牽制をしてくれる勢力は大歓迎だ。
ただ、依然として今川がフリーハンドなのでHPを回復したらまた攻め込んで来るのではないかと見ている。
尾張の織田がもう少し今川の牽制をしてくれると良いのだが。
今は、絶賛尾張統一の最中で、いっぱいいっぱいだろうな。
よく考えたら、信長というラスボスもどう対処するか考えておかないといけないな。
前に考えた基本方針の時と状況も変わっている可能性があるから、都度修正が必要だろう。
戦国乱世とはよく言ったもので、本当に過酷なサバイバルだ。
葉隠によると、今川の有力水軍である興津水軍が船を増やしており、渡海準備を進めている予兆があるとの事だった。
まぁ十中八句南房総へ攻め寄せようと考えているのではないかと思う。
この見解は後北条家も同じ認識を持っているとの事。
来たら一網打尽にしてやる。
実はポルトガルの造船技師を招聘してキャラック船を造船した。
少し大きめの重キャラックに分類されるらしいが、これを4隻までそろえた。
続々進水する予定だが、とりあえずの目標の20隻まではまだ数年かかる。
交易や偵察用のキャラベル船も5隻建造した。
いずれも大筒を搭載している。
この日ノ本には未だ大筒を載せた戦船は存在しないから、海上ではかなり優位に立ったと思う。
そのうち今川も制圧して東海地方を牛耳れば、かなりの経済圏を確保できるな。
間に北条がいるし、今のところは占領したところで、維持するだけの国力や人的リソースが足りない。
もっと力をつけないと・・・・。
最近、葉隠衆と風魔一族の仲が良いのでお互いの意思疎通に苦労しなくて良いみたいだ。
ん?後北条に取り込まれないよな?大丈夫か?・・・大丈夫なはずだ。
ここは疑うところではないな。
湯浅作左衛門や息子の次郎兵衛は信頼に値する。
裏切ろうと思えば、これまでいくつも機会があったはずだが、微塵もそのような動きも、考えすら見せていない。
逆に風魔をスカウト出来ないかな?・・・氏康や幻庵が健在なうちは無理かな。
チャンスがあったら考えよう。
そういえば、氏政って今年元服じゃなかったか?
確か俺の2つ3つ年上だったと思う。
長男の氏親が一昨年に亡くなったという報せが来ていて弔問の使者を出したけど、その後はどうしていたのだろうか。
手紙のやり取りなど1回もしていないし、次世代という事で交流は持っておいた方が良いだろう。
後世の評価だと割と両極端な評価が入り乱れていたように思うけど、実際の為人がどうなのかは知っておきたいところだ。
そのうちまた、小田原を訪れるとするかな?
前に蒲鉾の作り方を教えてから、1大産品になって潤ったみたいだし、その辺も見ておきたい。
販売権を買って千葉領内にも流したいな・・・。
前世の仕事の感覚がまだ残っているみたいだな。ちょっと苦笑してしまう。
さて、ところで千葉家の表向きの石高はついに百三十万石の大台を突破。しかし、実態はその数字を遥かに凌駕している。関所の撤廃による物流の爆発的増加、規格化された「千葉秤・千葉升」による公正な取引、そして今や京の都ですら珍重される「澄み酒」の販売占有率の拡大。これらを合算した実質的な国力は、二百万石、常備軍六万、領内徴兵最大動員兵力十万を超える。当初は二十万石もなかったのだが、我ながらよくぞここまで頑張ったと思う。
また、今川仮名目録を手本にした分国法「千葉家法度百八条」を制定したことにより、領内の統治を安定化させる事ができた。
領内での諍いの裁判や徴税の決まりなど、代官の匙加減で毎回変わる事が無いようにした為、民心が安定した。
実際に、分国法を制定したにも関わらず悪事を働いていた代官は捕えて見せしめとして斬首のうえ、罪状を書いた立て札と共に晒した。
こうした公平性の高い政によって民衆が安心して暮らせる千葉領となったのだ。
これらは俺の目となり耳となってくれた葉隠衆のお陰もある。
彼ら藤ヶ谷の里には一千石加増の上、報奨金を二千貫文ほど支給したが、おおいに喜んでくれ、一層の忠誠を誓ってくれた。
最近は領地経営で得た資金で人員の増強も行っているらしく、諜報活動に従事する者は千人規模にまで増えたらしい。
これでまた諸国から精度の高い貴重な情報を得る事が出来るようになって来た。
しばらくは広がった領地の整備と情報収集と今後の方針・対策を練って更なる飛躍を目指そう。
お読み下さり有難うございます。
稚拙な個所や至らぬ点が多々あるかと思います。
生暖かい目で見てくださると幸いでございます。




