安房の落日
天文二十年(1551年)三月(九歳)。
雪解け水が川を濁らせる頃、戦線は大きく南下していた。
富津から鴨川を結ぶライン。ここが、追い詰められた里見家の絶対防衛線となっていた。
ここを突破されれば、里見の本拠である安房国が剥き出しになる。
上総国、佐貫城外郭。
冷たい小雨が降る泥濘の中で、里見軍五千が、千葉軍六千と対峙していた。 里見軍を率いるのは、先の敗戦から奇跡的に回復した猛将、正木時茂。 彼は、負傷した右肩を布で固く縛り、左手一本で手綱を握っていた。 「者共、引くな! ここが正念場ぞ! 安房の地を踏みにじらせるな!」 時茂の咆哮が響く。彼の鬼気迫る闘志は、恐怖に震える雑兵たちを鼓舞し、辛うじて戦線を維持させていた。
だが、その奮戦も、俺にとっては「想定内の抵抗」でしかない。 「……正木時茂。惜しい男だ」 俺は、望遠鏡(南蛮渡来の硝子レンズを組み合わせた試作品)で、泥まみれになって戦う時茂の姿を見ていた。 「個の武勇としては関東随一だろう。そして、彼の存在が、敵の精神的支柱になっている」
隣に立つ原胤貞が、複雑な表情で頷いた。 「……武士として、銃撃で倒れるような最期は見たくないものですが」
「胤貞。気持ちはわかるが、時代はこうして移り行くものだ」
「ははっ。承知しておりましたが、こうして目の当たりにしますと敵が哀れに思えました」
「うむ、まことに致し方無きことだ。だが、勝ち続け前に進むためにはやむを得ぬ・・・せめては討ち死にという栄誉を捧げてやろう」
俺は右手を挙げ、静かに振り下ろした。 最前線に配置された鏑木胤永が、合図を受け取る。 「第一狙撃班、目標、赤備えの騎馬武者! ……放てッ!」
雨除けの工夫がされた火縄銃が咆哮を上げる、パパパパーン――乾いた破裂音が、戦の喧騒を切り裂いた。
乱戦の中、先頭を切って千葉の槍隊に突撃しようとしていた正木時茂。 その身体が、突然、見えない衝撃によって弾かれたように仰け反った。 「ぐっ……!?」 胸の中央。鎧の隙間ではなく、厚い鉄板そのものを貫通した穴から、鮮血が噴き出す。 「時茂様ッ!?」 家臣の悲鳴。 時茂は落馬しながらも、気力だけで立ち上がろうとした。 (まだだ……まだ、槍を……振るわねば……) だが、視界が急速に暗くなる。 霞む目の前にあるのは、名乗りを上げる敵将の顔ではなく、無表情に装填を行う鉄砲隊の列と、機械的に槍を構える兵士の壁だった。
(無念……) 薄れゆく意識の中で、時茂は悟った。 (槍働きの戦は、もう終わったなどと……義堯様、申し訳、ありませぬ……)
里見家最強の武士、正木時茂。 享年三十八。
その死は、伝統的な一騎打ちによるものではなく、銃による「集中砲火」による討ち死であった。 精神的支柱を失った里見軍は総崩れとなり、佐貫城は即日開城。千葉軍はついに、安房国の玄関口に足をかけた。
時茂の討死は、久留里城に籠る里見義堯を打ちのめした。
「時茂が……」 義堯は、一晩で十年老け込んだような憔悴を見せていた。
主力の軍は敗退し、配下の国人衆は次々と寝返っている。
正面からぶつかれば、次は確実に滅ぼされる。 「……もはや、千葉を止めることはできぬ。かくなる上は古河公方様に仲裁の労を取ってもらうしかあるまいな」
義堯は、最後の望みを古河公方による仲裁に持ち込もうと考えた。 古河公方・足利晴氏。関東の諸大名の上に君臨する権威である。
古河公方様の仲裁があれば、停戦に持ち込めるはずだ。里見家は代々、公方様に忠義を尽くしてきた。今こそ報いて頂こうではないか。
「至急、古河へ使者を送れ! 千葉の暴挙を訴え、停戦の御内書をいただくのだ!」 義堯は、使者に密書を託し、闇に紛れて城を出させた。 一度ではない。念には念を入れ、別々の経路で五人の使者を放った。
だが、待てど暮らせど、古河からの返答はなかった。 一週間、十日、一ヶ月。
梨の礫である。 「なぜだ……公方様は、我らをお見捨てになられたのか?」 義堯は焦燥に駆られ、広間を往復した。
彼は知る由もなかった。その使者たちが、下総の国境を越えることすらできていなかったことを。
――下総国境、利根川沿いの葦原。 月明かりもない深夜。一人の男が、泥の中に突っ伏していた。 背中には短刀が突き刺さり、懐の密書は既に奪われている。
その死体を見下ろす影が二つあった。 一つは、千葉家の諜報部隊「葉隠衆」。
もう一つは、禍々しい気配を纏う、北条家の「風魔衆」の忍びである。
「……これで四人目か」 葉隠の男が、奪った密書を懐に収めながら呟いた。
「ああ。残る一人は、関宿の手前で我らが始末した」 風魔の忍びが、感情のない声で答える。 「里見の書状は、誰にも届かせぬ」 「殿(親胤)のご命令は『里見からの古河公方様への密使の阻止』だ。公方が騒げば面倒なことになる。里見が干からびるまで、この半島から鳥一羽逃がさぬように引き続き助力頂きたい」
「承知。もとより左京太夫様より協力するように命じられておるゆえ……それにしても、お主らの主、恐ろしい御方よ。九歳にしてこの軍略・・・恐れ入った」
「我らも最初、それはもう驚いたものだが、このところは慣れてしもうたわ」
「ふふふふふ」二人の押し殺したような笑い声が重なる。
闇の中で交わされた短い会話。 親胤と氏康の同盟は、表の軍事行動だけでなく、裏の諜報戦においても連携を見せていた。
里見家は、物理的に包囲されているだけでなく、情報的にも完全に孤立無援状態に閉じ込められていたのである。
天文二十年(1551年)四月
稲村城の大広間は、重苦しい沈黙に支配されていた。
外は春の陽気が満ちているというのに、この部屋だけは真冬のような寒々しさがあった。
「……公方様からの返答は、まだないか」 義堯の声は、掠れて小さくなっていた。
家臣たちは誰も顔を上げられない。
返答がないどころか、放った使者が誰一人として帰ってこないのだ。
それが何を意味するか、愚か者でなければ察しがつく。
北は千葉の軍勢、西は海その先は千葉と同じく敵の北条、東は海。そして南も海。
助けを求める声すら、握り潰されたのだ。
その間、千葉方からは何度も降伏を呼びかける使者が送られて来た。
だが、いずれも義堯の命により断りを入れて帰された。
先ほど突き返した使者は、通告が受け入れられなけば一刻をもって大筒による総攻撃を行うと告げた。
そして一刻後、いきなり雷鳴のような轟音が響き渡ったかと思えば城壁の内側にあった物見櫓の一つが跡形も無く吹っ飛んだ。
それを手始めに次々と雷鳴が起こり、城壁の一部が吹き飛ばされたり、兵舎の一つが吹き飛んだりしたが、千葉が何かをしたのだろうとは思えても、何が起こったのか全くわからない為、ただ右往左往したりその場にうずくまって神仏に助けを祈り始めるもの多数。もはや戦を続けられる士気を保つ術はなかった。
「殿……」 重臣の一人、安西一族の生き残りが、血を吐くように進言した。
「もはや、我らに抗う力は残っておりませぬ。兵糧も尽きかけ、逃亡兵が後を絶ちませぬ。これ以上は……」 「……降れと、申すか」 「……口惜しゅうございますが」 それを聞いた他の家臣が床に拳を叩きつけ、涙を流す。
義堯は目を閉じた。 脳裏に浮かぶのは、千葉介親胤の名だった。
一度も直接会った事もなく、言葉すら交わしていない。だが、彼の描いた絵図面の上で、自分はただ踊らされ、追い詰められ、そして窒息させられたようなものだ。 (あれは、決してただの子供ではない)
戦って散ることは、た易い。だが、それは里見の家を途絶えさせ、国を荒らし、少なくない領民を道連れにすることになる・・・義堯は、「房総の虎」としての誇りを、その胸の内で抑える事に決した。
「……使者を出せ」 義堯は目を開き、虚空を見つめた。 「降伏の使者だ。……ただし、千葉家ではない」 「は? では、何処へ?」 「小田原の北条左京太夫殿へ、だ」
家臣たちがざわめく。 義堯の最後の意地であった。 千葉に直接降れば、生殺与奪の権をあの少年に握られる。それよりも家格も高く、古くからの因縁もある北条を介して降伏することで、少しでも誇りを保ち、有利な条件、あるいは家の存続を引き出そうという、最後の賭けだった。
「北条殿ならば、関東の覇者としての面目もあろう。……千葉の童なぞに全てを委ねるよりは、まだましと思うたのじゃ」
数日後、千葉本陣。 俺の手元に、一通の報告書が届いていた。 「……里見義堯、北条へ降伏調停の使者を派遣。……か」 俺は、淹れたての焙じ茶を啜りながら、報告書を卓上に置いた。
傍らの白井浄三が、ニヤリと笑う。 「北条に泣きつきましたな。殿の予想通りです」
「ああ。里見義堯ほどの者なら、誇りにかけて俺に直接頭は下げないだろうと踏んでいた。古河公方様への密使が失敗に終っている現状、北条に仲裁を頼むことで、少しでも交渉の余地を残したかったのだろう」 「いかがなされますか? 北条に、使者を追い返すよう要請しますか?」 「いや、受け入れて頂こう」 俺は立ち上がり、南の空を見上げた。 「北条に借りを一つ作る形になるが、現状では致し方なし。」
少し考えて思考を巡らせた。 里見を完全に滅ぼし、新参者として、新たな支配者として入っていった場合、領民との関係を考えると安房の統治に重大な影響が生じる。
ならば、里見家自体は存続させ、実利(経済権益と港)だけを千葉が吸い上げる方が、効率が良いだろう。
「北条左京太夫殿に文を送れ。 里見の仲裁要請、お請けいただきたい。ただし――」 「条件についてはすべて千葉が用意いたす、とな」
房総半島における長い戦いは、千葉軍の「勝利」によって終幕を迎えつつあった。
お読み下さり有難うございます。
初投稿の素人ですので、稚拙な個所や至らぬ点が多々あるかと思います。
生暖かい目で見てくださると幸いでございます。




