177.スキー教室 2
桝さんは片足だけ膝を立て、立てた膝に頭を付けて鼻をすすった。泣いているのかもしれない。
私も不安だ。激しく雪の吹き付ける中、風の音しかしない。
それに、ありがとうとも、ごめんなさいとも言わない桝さんに、正直ムカついている。
だけど、文句を言う気にすらならない。疲れた。いろんなことに疲れてしまった。
私は胸のポケットに隠し持っていたカラフルな糖衣チョコの筒を出した。
悪いことを考えるのはお腹がすいているからだ。少し糖分を摂取して、前向きに持ち直したい。
ポクンと筒を開けて、顔を上げない桝さんの腕をちょんちょんと叩く。胸の中がグルグルしている私は、無言で筒を差し出してみる。
桝さんは顔を上げて驚いた顔をした。手を出さない桝さんに筒を振ってみせた。チャラチャラとチョコが音を立てる。
桝さんは何か言おうとして、でも何も言わずに頭を振ってから、もう一度顔を伏せた。宙ぶらりんになったチョコレート。
「……わ、私なんて、こ、このまま消えてなくなれば、よよよ、よかったんです……」
桝さんが小さく呟いた。
「馬鹿いわないで」
「と、凍死は楽で美しいんですよ……」
「本当にやめてよ!」
イライラする。どうしてこんなときにそんなことを言うんだろう。言霊になって本当になったら怖いと思わないのだろうか。
だったら私は希望を口にする。桝さんの言霊を私の言葉で打ち消したい。
「綱が来るわ。絶対綱が来てくれるんだから」
「と、当然のように生駒くんが来てると思っているんですね」
低く冷たい声だった。
「だって、綱ならきっと」
「つ、綱、綱、綱、綱、……嫌味みたいに生駒君の名前、ま、ま、まるで自分のものみたいに見せつけて。私が彼を……す、す、す、好きだって、知っていての、い、意地悪でしょう?」
いらだちを隠さない、荒れた声だった。
「……そんな、……そんなつもりじゃないわ」
「だ、だ、だ、だったら、どんなつもりなんですか?」
いつもとは違うきつい口調で、ピシャリと問われて口ごもる。
「……ただ、だって、信じてるだけで……桝さんを傷付けようだとか、そんな……ごめんなさい」
「信じてる、で、ですか?」
桝さんは鼻で嗤った。
「し、信頼というのは対等な関係で初めて成立するものでしょう? 私はあなたと、い、生駒くんが対等にはとても見えません。我儘なお嬢様にしかたなく付き合う保護者にしか見えません。あ、あ、あなたにとって生駒くんはなんなんですか? 当然のように振り回して、ど、奴隷かなにかだと勘違いしていませんか?」
「……ちが……」
「違わないです、よね? い、い、今の言い方『綱が絶対来てくれる』なんて傲慢です。学院が二次被害を恐れて、せ、生徒を外に出すわけがないでしょう?」
理論的に責められて反論が思いつかない。桝さんはこんなに話す人だったのだ。そのことにも圧倒された。
「雪が降り止んで、先生から許可が出るまで彼は探しには来ません。来れるわけがないんです。そしてそれまで私たちがもつか、それはわかりません」
きっぱりと言い切った。
でも違う。絶対に綱は来てくれる。私はそう信じている。理屈ではないのだ。
「でも、だって、……綱は来るわ。絶対に来るわ」
私が綱を信じているとき、綱が私を裏切ったことはない。
「それがおかしいと言っているんです」
「でも、本当だもの」
「そういう無垢な顔をして、生駒くんに迷惑をかけて当然という態度、人として、さ、さ、最低です」
「そんなことしてないわ」
桝さんは軽蔑するような眼で私を見て、忌々しそうに大きく息を吐いた。
「う、嘘つき。私、生駒くんに聞かれました。大黒さんに、ど、動画を渡したのはあなたですか、と。そういう汚い役回りをあなたは平気で生駒くんにさせるくせに!」
「! っ桝さんだったの!? なんでそんなこと! そのせいで大黒さんがどうなったかわかってる?」
「白々しく大黒さんの心配ですか? あの人は自業自得です。私は編集した画像をペンケースに入れただけ。な、何もしていません。勝手に使って勝手に、じ、自滅したんです」
「でも! 桝さんならどうなるかわかっていたんでしょう?」
「なって欲しいけ、け計算はありました。でも、計算通りにはなりませんでした。そ、それに、使わない選択肢は、か、彼女にありました」
「でも、ひどい……」
「お、置いてあった包丁で、誰かが人を傷つけたとき、あなたは包丁を置いた人を、せ、責めますか?」
「それは」
「使った人が、あ、悪です。置いた人は悪くない」
きっぱりと言い切った。しかしあれは包丁なんかじゃない。上手く言えないけれど、違うのだ。
「い、生駒くんは……。私、生駒くんにパソコンの使い方を教えて欲しいと言われて、嬉しかった。PCルームで動画の作り方を教えて欲しいなんて言われて、う、う、浮かれました。自分のPCまで持ち込んで、一生懸命教えて、それなのに、生駒くんから大黒さんに渡したUSBを見せられて、へ、編集の、ファイルの癖が似ていると」
「……それで一緒にいたの……」
「それなのに、私、だ、騙されたのに、嬉しかったわ。私の癖を見つけられるくらい、見てもらえたんだって。生駒くんだけが、私を見つけたんだって!」
ああ、苦しい。桝さんの言葉が苦しい。好意でなくてもいい。自分を見てくれるのならば、怒られてもいい。その気持ちが良くわかる。前世の私はそうやって氷川くんを何度も怒らせた。気を引きたかったのだ。
「でも」
「そんなもの証拠にならないと答えました。そうしたら生駒くん、悲しそうな顔をして、これ以上の証拠で私に汚点を残したくないと言いました。多分それ以上の証拠も持っているんです。なのに、これ以上証拠を出さない代わりに、あ、あ、あなたを二度と、き、傷つけないでほしいと頭を下げたんです。せ、責めるでもなく、罵るでもなく、私が声をあげるまで、ただ静かに頭を下げ続けて……。追いつめる手段を持ちながら退路を残してくれる、頭の良い人だなと思いました。彼は落としどころを用意してくれる優しい人なんです。そうしたら私……生駒くんに言われたら私……あ、あ、謝るしかないじゃないですか。こんな風にいわれたらもう、こ、こ、こ、告白だって、で、できない……」
「告白……してなかったの」
こんな桝さんを見ながら、その事実にホっとする自分が汚いとおもった。桝さんはそんな私を見透かしたかのようにキッと睨む。
「ネクタイくださいって、ゆ、ゆ勇気を出して言ったのに、あげる人がいると言われたら、それ以上何が言えると思ってるんですか!? あなた、本当に無神経ですよね?」
その剣幕に口を噤む。
「い、生駒くんに汚いことをさせる、あなたのほうがずっと酷い。もし、か、仮に私が無実で、生駒くんが私に訴えられても、あ、あ、あなたは痛くもかゆくもないんでしょう?」
「そんなこと私させてない!」
「大嘘つき! だ、だったら、生駒くんがそんなことするメリットがありますか? 生駒くんには損はあっても得はないでしょう! 何も言わなくても自発的に、生駒くんがあなたのために犠牲になるとでもいうんですか!?」
言い切られて呆然とする。確かに、綱に得はない。父が頼んだとは思えないのだ。もし白山家で対応するつもりがあるのなら、初めから被害届を出しているだろう。
だったら、なんで。なんで綱は。
「……本当に、桝さんだったの……」
ずっと疑っていた。でも物証はどこにもなくて。USBは大量生産品のどこででも買えるもの、もちろん指紋もついていない。入っていたのは編集動画だけ。被害を訴えていない私は弁護士にも協力を仰げない。証拠をつかむのはとっくに諦めていた。
綱が桝さんと仲良くしているように見えたのは、それを調べていたからなの?
綱は、全部、私のために?
私を桝さんから守るために、自分の時間を犠牲にして。成績も落ちて、一歩間違ったら芙蓉会の桝さんを敵に回すことになるのに?
だから、私に教えなかったんだ。私を共犯にしないため。私をここから守るため。全部、全部、私のため。それなのに、私は綱を責めた。綱を疑った。
「そうよ」
「なんで……こんなこと」
「なんで? で、ですか?」
桝さんの目はこの冬の空よりも冷たく曇っている。
「ひ、他人を平気で、い、イジメる人は言うことが違いますね。私だって仕返しぐらいします!」
「イジメてない!!」
「ちゅ、中二の時、クラスで私の居場所を奪ったのはあなたでしょう? 私だって、自分が芙蓉会が向いてないことは知っています。私だって嫌だけど、自分なりに頑張って芙蓉会らしくと思っていたのに、あ、あ、あなたがまるでクラス委員のように振る舞った。挙句『白山さんの方が芙蓉に相応しい』だなんて。あ、あ、あなたがみんなに言わせたんでしょう?」
そんな陰口を言われていたのか。いくらなんでもあんまりだと思う。
でも私にだって言い分はある。
「そんな、私は桝さんが苦手かと思ったから……」
「あくまで善意ですか? 私たち、と、友達でもないのに信じられない。どうせ生駒くんを好きな私が邪魔だっただけでしょう」
「あの頃は友達になりたかったわ」
「わ、私は『芙蓉銀行頭取の娘』ですものね。利用したかったですか?」
私は息を飲んだ。突きつけられた自分の汚さ。無意識にしていた無礼。
確かにそうだ。そう言われては反論できない。仲良くなって銀行での手続きがスムーズにいけばいいなと、経済のことを少しでも教えて貰えたらいいなと思っていた。桝さんに対する興味がなかったわけではないけれど、肩書は話しかける大きな要因だった。
でも、興味を持つきっかけなんてそんなものではないのだろうか。
桝さんは私のことを鼻で嗤った。軽蔑、そうわかる笑いだった。







