178.スキー教室 3
桝さんの冷たい視線にいたたまれなくなり、私は俯いた。
「すごく上手ですよね。人に取り入るところ。で、で、でも私は騙されません。外部生のくせに芙蓉会からも信頼が厚い。八坂くんにも、ひ、氷川くんにも大事にされて……、内部生の友達もたくさんいる。私があなたにイジメられていると訴えても、せ、先生も同級生も勘違いだって笑う。私から歩み寄ったら、なんて指導、被害者に言うべきじゃないのに」
「イジメてないもの! 本当に桝さんの居場所を奪うつもりなんてなかったわ」
「でも、無視してました! それは、う、う、嘘じゃないでしょう? 私がどんなに、い、い、生駒くんと一緒にいても、へ、平気な顔して笑って、まるで私なんか見えないみたいに!」
「そんなことないわ!」
「あなたがそう言えば、み、みんながあなたを信じます。幼等部からずっとまじめにやってきた芙蓉会の私なんかより、外部生で問題児の、あ、あなたを信じるんです」
「それは……私には……よくわからないけど……」
桝さんは私の顔を見て、忌々し気に睨んだ。
「他人事みたいですね。……わ、私は、せっかく芙蓉会にいても絆を深められるわけでもない。その上、勉強しかできないのに学校でも信用されていない。ひ、一人娘で優秀な婿を取らなければならないのに社交的でもない。数学しかできない私は、か、価値がないって知っています」
自嘲する桝さんの顔が青い。静かな桝さんの圧縮された思いなのか、苦しそうな顔をして言葉を吐く。
「でも、い、生駒くんだけは違いました。そのままでいいって、言ってくれました。生駒くんがいたから、嫌いな学級委員もがんばれたんです。か、会計だって本当は絶対に嫌だったけど、生駒くんがいたから頑張ったんです。会計に選ばれたのだって、家の力だってわかります。だけど、生駒君に頼まれたから、生駒くんができるって言ってくれたから、生駒くんと少しでも一緒にいたかったから、だから引き受けました。でも、そうなって初めて、父は『淑子の未来が楽しみだ』って言ってくれました。生駒くんが現れて、わ、わ、私の世界は変わったんです」
桝さんはハラハラと涙をこぼした。
ああ、桝さんは綱に救われたのだ。
だからこんなに綱のことが大好きなのだ。
わかる。私も何度も綱に救われた。『姫奈のままでいい』と綱は言ってくれた。一緒に頑張りましょうって言ってくれたから、私も桝さんと同じで頑張れた。
「あなたはたくさん持っているんです。『ただの幼馴染』くらい、私にくれたって罰は当たらないでしょう?」
でも、その言葉にカチンとくる。
「……綱は物じゃないわ」
「知っています。あ、あなたこそわかっていませんよね? あなたは生駒くんをただの幼馴染だという。だったら彼を、じ、自由にしてあげてください」
「最初から、私、何もしてない」
「いつもそうやってまたいい子ぶりっ子ですよね。と、登下校も昼食も一緒。幼馴染の大義名分で彼の時間を当たり前に奪う。嫌な仕事は彼に押し付ける。生駒くんが断れないと知っていて、わかってやっているんでしょう? か、彼から早く自立してください。彼はあなたの依存で身動きが取れなくなっているんです。……お願いします。生駒くんを自由にしてあげて。あなたより彼を大切にしますから。絶対にあなたよりも私の方が彼を必要としています」
桝さんは深く頭を下げた。
獰猛な雪の世界が戻ってくる。しんしんと冷たさが染み入って、凍りそうになる唇とは逆に、沸々とした怒りが胸の中で湧いてくる。
私より綱を大切にする? 私より綱を必要としてる? そんなわけない。絶対に、そんなわけない。
桝さんが、心の底から綱に焦がれていることはわかった。相手が綱でさえなければ、私だって同情して応援したいと思う。
だって、気持ちは痛いほどわかるから。その気持ちは私のものだから。
だけど。だけど。だからこそ、感情があふれ出す。
「……あっ! あなたはいいじゃない! 好きな人を好きだといえて! 私は言えないのよ。ううん、本当は想ってもいけないの。好きな人を好きだと想ったら、みんなに迷惑がかかるのよ。好きな人を追いつめるわ。だったら、黙っているしかないでしょう? 黙って諦めるしかないでしょう? 心の中で想うくらい許してよ! あなたの方が本当はずるいのよ! 絶対あなたの方がずるいんだから! あなたなんか綱に優しくされて、私はいつも怒られてばっかりよ! ダメだって叱られてばっかりなの。頑張って努力していい子でいたいと思っても、いつだってできなくて、それなのにいい子ぶりっ子だとか! そうよ、私はそもそもいい子じゃないもの。いい子の真似をするしかないじゃない! 一体それの何が悪いの!」
一言口に出したら、攻撃的な言葉が機関銃のように止まらなくなった。桝さんはあっけにとられた様子で私を凝視した。
ずるい。桝さんの方がズルい。
「綱はどっかに行っちゃうわ。いずれどこかにいっちゃうわ。私の側にいてくれるのはきっとあと数年しかないの。だから、その数年、ただ側にいるだけよ。何も言わないし何も望まないわ。綱がどこかへ行くと言ったら、誰かを好きだと言ったら、引き留めたりしないわ。ちゃんと送り出すわ。だって『ただの幼馴染』だもの。もうちゃんと決めている。それしか方法がないんだから。だから少しでも側にいたいのに。好きだって想える桝さんはずるい。好きだって言えるなんてずるい。あなたなんか。あなたなんて。あなたの方が絶対にずるいわ!! だって、可能性があるじゃない!」
言葉があふれて止まらない。
まだ告白すらしていない桝さんは、いつか報われるかもしれない。きっと正しい手順を追って、綱を望めば可能性がないわけじゃない。誰も反対はしない。皆に祝福すらされる。
だけど、私の想いを知られてしまったら、きっと生駒は綱を連れて出ていくだろう。そうなれば、白山家は優秀な執事を失って、彰仁は綱を失って、生駒は仕事を失って、綱は今の学院生活を失うのだ。せっかく綱が積み上げてきた、学院内での地位もすべて失う。下手をしたら進路まで。
今までのすべてが壊れてしまう。好きな人を不幸にする。
たった一人、私の我儘のためにそんなことできるわけなかった。
カッと夜空が光り、驚いて体を強張らせる。咄嗟に耳を覆った。数秒後に大きな雷鳴がとどろいた、思わず無様な悲鳴を上げる。初めて見た冬の雷。余りの大きさに、何事かと呆気にとられ、呆然と空を見上げた。
「……雷が怖いんですか」
桝さんが馬鹿にするように言った。
「怖いわよ。近くに落ちたらあなたも私も死んじゃうんだから!」
イライラして怒鳴り返す。
「い、今の雷は一キロくらいの落下地点です」
「なんでわかるのよっ!」
「計算すれば、か、簡単です」
桝さんはそう答えて、とても不安そうな顔をした。
「……。計算? 暗算したの? とっさに? 凄いわね……」
「簡単ですから」
「でも、やだ! 一キロって近いじゃない!!」
「冬の雷は一発で終わることが、お、多いです」
「良く知ってるのね。でも、それじゃあ安心していいのね?」
単純に驚いて感心する。私なんて雷を見て距離を計算しようという発想がない。冬の雷なんて初めてで、天変地異の前触れかと動揺したくらいだ。
「……生駒くんも……そう……。そういうところだけ似ているだなんて、本当に嫌になる」
ハッとして桝さんを見た。
気まずそうに歪な顔をして、泣いているのに、唇だけは震えるように笑って。
「こういう話をすると、みんな変なものを見るような目をするんです。あからさまに、嫌味だっていう人もいました。頭がいいのをひけらかすなって、怒られたこともあります。可愛げがないって、父も笑っていました。お、お、お、男なら良かったのにって。……私はただ、本当のことを言っているだけなのに」
こうやって小さな言葉でじわじわと呪いをかけられ、桝さんは話せなくなったのだ。その呪いを綱が解いてしまった。呪いを解いた王子様を姫が望むのは当然のことだ。
私は……どうしたらいいんだろう。あと数年側にいたいと望むのは勝手な我儘だ。どうせ期限がある想いなら、さっさと手放すのが正解だ。そうすれば、桝さんも……綱も、幸せになれる。そしてもしかしたら、私だって早く楽になれるのかもしれない。
「白山さんは……」
桝さんの次の言葉は恐怖だ。私は頷いてしまうかもしれない。もう一度桝さんに綱をくださいと懇願されたら、私は綱を諦めるしかなくなるかもしれない。
「もし、仮に、生駒くんが白山さんを望んでも、気持ちを隠すつもりなんですか?」
「まさか!」
反射のように答える。
「ど、どうして? 結果は同じでしょう?」
「綱が望んでくれるなら、私は白山を出るわ」
きっぱりと答える。桝さんはポケッと私を見た。
「私が白山のお嬢様でなければ、生駒だって家を出る必要はなくなるもの」
「お、お店はどうするんですか」
「父に返すわ」
「迷わないんですね」
「それが一番白山家の損害が少ないでしょう」
「あなたは一人、す、す、す、全てを失うのに?」
「綱が手に入るじゃない」
何を言っているのだ。夢みたいな話だ。綱が一緒に生きてくれる。
「ま、現実的には無理な話よ。綱が全てを捨ててまで、私なんか望むわけないのはわかってるから。私が白山の娘だから面倒をみているだけ。それに周りには素敵なお嬢様たちがたくさんいるわ。綱はモテるから選びたい放題でしょ? もっと良い家柄の、もっとかわいいお嬢様と綱は幸せになれるんですもの。ほら、あなたみたいなね」
小さく笑う。私がどんな夢を見ても、それが現実。
「……白山さん……」
桝さんは呟いて、何かを諦めたように笑った。
「私、白山さんの気持ち、だ、誰にも言わないことにします。本当は今の話を誰かに話してしまえば、あなたの守ってきたものはすべて無駄になるでしょう」
桝さんに指摘されてハッとする。そうだ、綱にそのまま伝えられたら、一巻の終わりなのだ。
「でも、止めます」
「どうして? 綱のため?」
「それもありますけど……、私は私のために生駒くんが欲しかったんだと気が付きました。でも、白山さんは生駒くんのために、あ、あ、諦めると言ったから。正解がわからなくなってしまいました」
「……! ありがとう! 本当に、本当に、ありがとう!」
「べ、別にあなたのためではありませんけど」
「それでも、綱のこと考えてくれてありがとう」
「……、それが気に障るってわかっていますか?」
桝さんは大きくため息をついた。
「ごめんなさい」
「あやまらなくてもいいです。私はあなたが何をしても、何もしなくても、き、き、気に障ると思いますから」
「それは良くわかるわ。私も桝さんが何もしなくてもムカつくもの」
「……む、ムカつくなんて止めてください」
「綺麗な言葉で言っても同じよ」
桝さんは一瞬言葉を失って、あからさまに大きな息を吐き出した。埒が明かない、そんな感じで、なんだかおかしい。
私はもう一度糖衣チョコの筒を差し出した。
桝さんが、「おやつの持ち歩きはいけないのでは?」なんて生真面目に言うから、秘密よと答えた。桝さんは、一瞬戸惑って、それでも手を差し出した。
白くて小さくて弱々しい桝さんの掌が震えている。その上に、私はチョコの筒を傾けた。乾いた音がサラサラと響いて、キラキラと虹色のチョコレートが転がりだす。
私も自分の掌にチョコを振り出した。最後にコロリとハート形のチョコが転がり落ちた。駄菓子屋さんで綱と一緒に買った時、「ハート型が入っていたらラッキーなんです」そう言ったっけ。
桝さんは小さな小さな声で、ありがとうと言った。彼女にお礼を言われるのは、初めてだったかもしれない。
まるで私たちの心みたいに、雪が段々静かになってくる。パキリパキリ、チョコレートのコーティングを噛む音が口の中で響く。小さなハートは最後に食べよう。きっといいことがおこるから。
二人で無言になって空を見上げた。
一体どれくらい経ったのだろうか。冬の雷は、桝さんの言った通り、あれ一度きりだ。







