表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君と契りて 言はで思ふ心の理  作者: はまちゃん
それでもなお証明を諦めない

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/42

またねは希望

研究室へ戻っても、海斗は机に向かうだけだった。


目の前にはいつもの光景が広がっている。


積み重ねられた数学書。


書きかけの論文。


ホワイトボードに残された数式。


いつもなら、それらを見るだけで胸が高鳴った。


まだ誰も知らない答え。


誰も辿り着いていない真理。


その可能性を追いかけることが、海斗にとって何よりの喜びだった。


しかし。


今日は違った。


論文を開く。


証明を読み返す。


ノートに数式を書く。


ペンを走らせる。


けれど、途中で何度も手が止まった。


文字は目に入っている。


数式も理解できている。


なのに、頭の奥では別の声が響いていた。


「バイバイ、海斗君。」


たった一言。


ただの別れの挨拶。


それだけのはずだった。


なのに。


その声だけが何度も何度も繰り返される。


「……考えすぎか。」


海斗は小さく呟く。


数学なら、根拠のない不安は排除するべきだ。


証明できないものを真実として扱わない。


それが数学者としての姿勢だった。


しかし。


人の心だけは、数式のようにはいかなかった。


「玲ちゃん……。」


名前を口にした瞬間。


胸の奥が少し痛んだ。


翌日。


大学院の会議が終わると、海斗は空いた時間を確認した。


予定表を見る。


午後の研究まで、少しだけ時間がある。


以前なら、その時間をすべて研究に使っていただろう。


しかし今は違う。


自然と足は大学病院へ向かっていた。


「……少しだけでも。」


会いたかった。


理由は、それだけだった。


病院の廊下を歩く。


昨日とは違う。


不思議と足取りは軽かった。


病室の前に着く。


コンコン。


「玲ちゃん。」


扉を開ける。


「あっ!」


玲は顔を上げると、大きく目を見開いた。


「え、海斗君!」


驚いた表情は、すぐに柔らかな笑顔へ変わる。


「来てくれたの?」


「ああ。」


海斗も自然と笑った。


「来たよ。」


その笑顔を見た瞬間。


海斗の中にあった昨日からの不安が、少しずつほどけていく。


「それと。」


海斗は持っていた小さな箱を差し出した。


「これ。」


玲は首を傾げる。


「え? 何?」


「開けてみて。」


玲は不思議そうに包装をほどく。


そして。


箱の中身を見た瞬間、目を丸くした。


そこに入っていたのは一本のボールペンだった。


黒い軸。


銀色の装飾。


派手ではない。


けれど、手に持った時に自然と馴染むような、上品なデザインだった。


「わあ……。」


玲はそっと手に取る。


「綺麗。」


「素人の私でも、高そうなの分かるよ。」


海斗は少し照れくさそうに視線を逸らす。


「研究で使っているメーカーのものなんだ。」


「書きやすいから。」


玲はボールペンを何度も眺める。


「でも……本当にいいの?」


「こんなの、もらっていいのかな。」


海斗は静かに頷く。


「玲ちゃんは、いつも俺のノートに式を書いていただろ。」


「だから。」


「今度は玲ちゃん自身のノートに、思いついたことを書けるように。」


その言葉を聞いた瞬間。


玲はしばらく黙った。


ボールペンを握る指が、少しだけ強くなる。


そして。


「……ありがとう。」


小さな声。


でも、そこには昨日の不安な響きはなかった。


海斗は少し笑う。


「そのペンで、また一緒に証明を書こう。」


玲は顔を上げる。


そして、力強く頷いた。


「うん。」


「いっぱい書く。」


「新しい数も。」


「新しい証明も。」


「海斗君との思い出も。」


最後の言葉だけ、少し小さかった。


けれど、海斗には聞こえていた。


玲が大切そうに胸元で握るボールペン。


それはただの筆記具ではなかった。


二人の時間を記録するための、小さな証明だった。


しばらく数学の話をした後。


海斗はふと腕時計を見る。


時間が迫っていた。


「……そろそろ行くよ。」


「午後の研究があるから。」


海斗は立ち上がり、鞄を肩に掛ける。


「ごめん。」


「あまり長くいられなくて。」


すると玲は、くすっと笑った。


「今日は海斗君が時間確認するんだね。」


「いつもは私なのに。」


その言葉に、海斗も笑う。


「……確かに。」


いつもなら玲が言っていた。


「もうこんな時間だよ」


「研究しすぎ」


そう言って笑っていた。


そんな何気ない時間が、今では何より大切に感じる。


海斗はドアへ向かう。


ドアノブに手を掛ける。


その瞬間。


「またね、海斗君。」


背中から声が届いた。


海斗はゆっくり振り返る。


玲は笑っていた。


昨日と同じ笑顔。


けれど。


言葉だけは違って聞こえた。


昨日の「バイバイ」。


そこには、どこか終わりを感じさせる響きがあった。


でも。


今日の「またね」。


そこには未来があった。


次に会う約束。


続きがある時間。


海斗は安心したように微笑む。


「ああ。」


「また来る。」


玲は嬉しそうに頷いた。


「待ってる。」


病室の扉が静かに閉まる。


昨日は、その音が不安を残した。


けれど今日は違った。


その音は。


次に続く時間の始まりのように聞こえた。


海斗は廊下を歩きながら、鞄の中のノートへ触れる。


そこには交互完全数の計算。


そして、玲からもらったような言葉が書かれていた。


「まだ続きがある。」


数学も。


研究も。


そして。


二人の時間も。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
数学と恋愛を絡め数学者を目指す主人公の話。 知識が無くても読めるが世の文系には刺さりにくいので、ドクターストーンみたいに人間ドラマにするか、1話最後にヒロインの病気か事故を持ってきてインパクトで継続…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ