バイバイは寂しい
病院を出ると、外はすっかり夜になっていた。
昼間の暖かさは消え、少し冷たい風が頬を撫でる。
海斗は歩きながら、何度も後ろを振り返りそうになった。
けれど、振り返ってもそこに玲はいない。
あるのは、静かに光る病院の建物だけだった。
「……また来る。」
自分で言った言葉を思い出す。
約束した。
だから、行かなければならない。
そう思うのに。
胸の奥に残った違和感は消えなかった。
玲の最後の声。
「バイバイ、海斗君。」
ただの別れの挨拶。
いつもなら何でもない言葉。
図書館でも。
病室でも。
いつも聞いていた言葉。
なのに、なぜか今日は違って聞こえた。
まるで――。
「……考えすぎだ。」
海斗は小さく呟く。
数学では、根拠のない予測は意味を持たない。
証明できないことを真実として扱ってはいけない。
そう何度も自分に言い聞かせる。
しかし。
人の感情だけは、数式のように整理できなかった。
研究室へ戻った海斗は、机の上にノートを置いた。
そこには、交互完全数について書かれた大量の計算。
60。
そして、その先に続く可能性。
いつもなら、未知の数字を見るだけで胸が高鳴る。
新しい定理。
新しい発見。
数学史に残る可能性。
それこそが、今まで海斗を動かしてきたものだった。
しかし今日は違った。
ノートの端に書かれた小さな文字。
『玲』
その名前に視線が止まる。
「……。」
海斗は静かにペンを握った。
そして、新しいページを開く。
交互完全数の研究を書くためではない。
別の言葉を書き残すためだった。
『玲との時間を大切にする』
書いた瞬間。
自分でも少し驚いた。
数学者としての自分なら、もっと別のことを書くはずだった。
研究計画。
証明方針。
予想される定理。
けれど。
今の自分が一番守りたいものは、それではなかった。
翌日。
海斗はいつもより早く大学病院へ向かった。
手には昨日のノート。
交互完全数の続きを話すため。
そして。
玲に会うため。
病室の前に立つ。
コンコン。
「玲ちゃん。」
しかし。
返事がない。
海斗の胸が一瞬だけ強く締め付けられる。
昨日と同じ光景が頭をよぎる。
誰もいない病室。
整えられたベッド。
嫌な想像を振り払うように、もう一度ノックする。
「玲ちゃん。」
すると。
「……海斗君?」
小さな声が返ってきた。
その瞬間。
海斗の肩から力が抜ける。
扉を開けると、そこには玲がいた。
ベッドの上で、少し眠そうな顔をしながら笑っている。
「早いね。」
「……悪いか。」
「ううん。」
玲は嬉しそうに笑う。
「ちょっと嬉しい。」
その一言に、海斗は少し目を逸らした。
「今日は昨日の続きをする。」
「交互完全数?」
「ああ。」
玲は目を輝かせる。
「やっぱり海斗君は海斗君だね。」
「どういう意味だ?」
「数学のことになると、すぐ真剣になるところ。」
海斗は苦笑する。
「玲ちゃんもだろ。」
「私?」
「ああ。」
「新しい発想を出す時の顔。」
玲は少し照れたように笑った。
「そんな顔してる?」
「してる。」
二人は笑った。
その瞬間。
海斗は思った。
この時間を。
この笑顔を。
絶対に失いたくない。
数学では、失われたものを取り戻すことはできない。
過去へ戻ることもできない。
だからこそ。
今ある時間を、証明するしかない。
「ねえ、海斗君。」
玲がノートを見る。
「もしさ。」
「交互完全数が、もっとたくさん見つかったら。」
「ああ。」
「その時、名前を付けた人って残るのかな。」
海斗は少し考える。
「たぶん。」
「でも、名前より大切なものもあると思う。」
「何?」
海斗はノートを見る。
60という数字。
そして、その横に書かれた小さな文字。
玲。
「誰と見つけたか。」
玲は少し驚いた顔をした。
そして。
ゆっくり笑う。
「そっか。」
「じゃあ、この数字にはちゃんと意味があるんだね。」
「ああ。」
海斗は頷く。
「ただの数字じゃない。」
「誰かと過ごした時間の証明だ。」
窓の外では、春の風が静かに吹いていた。
まだ誰も知らない。
この小さな病室で交わされた会話が。
やがて数学史に残る発見へとつながることを。
そして。
一つの数字が。
二人の人生そのものを証明する存在になることを。




