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君と契りて 言はで思ふ心の理  作者: はまちゃん
それでもなお証明を諦めない

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7/42

満たされるまで

翌日。


海斗は講義を終えると、いつもの研究室へ戻ることなく、その足で大学病院へ向かった。


手には昨日のノート。


そこには、交互完全数について書かれた数式と、玲と一緒に考えたメモが残っている。


「今日は昨日の続きを話そう。」


そう思っていた。


新しく見つかった条件。


まだ分かっていない性質。


60以外の交互完全数が存在する可能性。


話したいことはたくさんあった。


それ以上に。


玲の笑顔を見たかった。


病院の廊下を歩く。


白い壁。


静かな足音。


昨日と同じ景色なのに、なぜか少し緊張していた。


病室の前に着く。


表札には、


『浜辺玲』


の名前。


海斗は一度深呼吸をしてから、軽くノックをした。


コンコン。


「玲ちゃん。」


返事はない。


もう一度。


「玲ちゃん、入るよ。」


しかし、部屋の中から声は返ってこなかった。


少し不安を感じながら、ゆっくり扉を開ける。


「……あれ?」


部屋の中を見渡す。


誰もいない。


ベッドの上には、きれいに整えられた白いシーツ。


丁寧に畳まれた毛布。


机の上には、小さな花瓶と昨日まで玲が使っていたノート。


それだけだった。


その光景を見た瞬間。


海斗の胸が強く締め付けられる。


「……まさか。」


一瞬。


最悪の考えが頭をよぎった。


鼓動が速くなる。


手に持っていたノートを握る力が強くなる。


「玲ちゃん……?」


無意識に一歩、病室の中へ踏み込んだ。


その時だった。


「あら。」


後ろから落ち着いた女性の声が聞こえた。


海斗は勢いよく振り返る。


そこには、白衣を着た女性が立っていた。


優しい目元。


玲によく似た穏やかな雰囲気。


「もしかして……あなたが肥後さん?」


海斗は少し戸惑いながら頷く。


「はい。」


「肥後海斗です。」


女性は安心したように微笑んだ。


「やっぱり。」


「玲から、お話は伺っています。」


その言葉に、海斗は少しだけ驚く。


「玲ちゃんが……?」


女性は頷く。


「ええ。」


「あなたのこと、よく話していましたから。」


その言葉を聞いて、胸の奥が少し温かくなる。


しかし、すぐに不安が戻る。


「玲ちゃんは……?」


恐る恐る尋ねる。


女性は病室の奥へ視線を向けた。


そして、静かに答える。


「安心してください。」


「今朝、検査に行っています。」


その瞬間。


海斗の身体から力が抜けた。


「……そう、ですか。」


大きく息を吐く。


自分でも気付かないほど、緊張していたらしい。


女性はそんな海斗を見て、小さく微笑んだ。


「とても大切なお友達なんですね。」


海斗は少しだけ目を伏せる。


「……友達、なんでしょうか。」


自分でも分からなかった。


玲は特別な存在だった。


けれど、それを表す言葉をまだ知らなかった。


女性は優しく首を横に振る。


「少なくとも玲は。」


「あなたと数学の話をする時間を、とても大切にしていますよ。」


海斗は何も答えられなかった。


ただ、窓から差し込む光を見つめる。


数学。


今まで自分にとって、それは真理を追い求めるためのものだった。


しかし今は違う。


数学は、人と人をつなぐものにもなっていた。


海斗は軽く頭を下げる。


「失礼しました。」


女性は穏やかに笑う。


「あ、ご挨拶がまだでしたね。」


「私は、玲の母です。」


「浜辺結衣と申します。」


「お母さん……。」


海斗は少し驚いた表情を見せる。


結衣はゆっくり頷く。


「玲から、あなたのお話は何度も聞いています。」


「図書館で出会った大学院生。」


「数学のことになると、周りが見えなくなる人。」


海斗は苦笑する。


「そんなふうに話していたんですか。」


「ええ。」


結衣は優しく笑った。


「でも、それだけじゃありません。」


「『海斗君と数学を話している時間が、一番楽しい』とも言っていました。」


その言葉に。


海斗は黙り込む。


玲がそんなことを言っていたとは知らなかった。


結衣は窓の外を見る。


「玲は昔から数学が好きだったわけではないんです。」


「そうなんですか。」


「ええ。」


「病気が分かってから……。」


「自分の未来について考えるようになりました。」


「何か夢中になれるものを探していたんです。」


少し寂しそうな笑顔。


「でも、なかなか見つからなかった。」


「そんな時に、あなたと出会ったんです。」


結衣は海斗を見る。


「図書館から帰ってくるたびに、玲は本当に楽しそうでした。」


「『今日ね、海斗君がこんな証明を考えたんだよ』って。」


「『こんなすごい数字を見つけたんだよ』って。」


海斗はゆっくりとうつむく。


「でも……。」


「実際に始まりを作ったのは玲ちゃんです。」


「交互完全数は、玲ちゃんの一言から生まれました。」


結衣は静かに微笑む。


「それでも。」


「その一言を、本気で受け止めてくれた人はあなたです。」


その言葉が、海斗の胸に響く。


誰かの思いつきを笑わず。


可能性として向き合う。


それが数学者の役割なのかもしれない。


しばらく沈黙が続いた。


やがて結衣が口を開く。


「玲は、もうすぐ検査から戻ってきます。」


「その前に、一つだけお願いがあります。」


海斗は顔を上げた。


「お願い……ですか。」


結衣は真っ直ぐ海斗を見る。


「どうか。」


「これからも玲と数学を続けてあげてください。」


「病気のことを忘れられる時間。」


「未来を考えられる時間。」


「あの子にとって、それは何より大切なんです。」


海斗は静かに頷いた。


「分かりました。」


そして、はっきりと言う。


「交互完全数の証明が終わるまでじゃありません。」


「玲ちゃんが『もういいよ』と言う、その日まで。」


「一緒に考え続けます。」


その言葉を聞いた瞬間。


結衣の表情が少しだけ柔らかくなった。


「ありがとうございます。」


その時だった。


廊下から、聞き慣れた声が響く。


「……あれ?」


「海斗君?」


二人が振り返る。


そこには、少し疲れた表情をしながらも笑っている玲が立っていた。


「来てくれてたんだ。」


海斗は笑う。


「ああ。」


「昨日の続きをしよう。」


玲は嬉しそうに目を輝かせた。


「交互完全数?」


「もちろん。」


その日も。


病室には数学の話が響いた。


まるで、図書館にいる時と同じように。


ただ一つ違うことがある。


海斗はもう知っていた。


この時間が、どれほど大切なものなのかを。

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