今度の機会
病院を後にした海斗は、そのまま大学の研究室へ戻ることはしなかった。
いつもなら研究室へ戻り、机に向かう時間だった。
新しい式を考える。
論文を読む。
まだ見つかっていない答えを追い続ける。
それが、これまでの海斗の日常だった。
しかし今日は違った。
自然と足は、大学図書館へ向かっていた。
理由は、自分でも分かっていた。
「玲でも読める本……。」
呟きながら、数学書が並ぶ棚の前に立つ。
高い本棚には、無数の書籍が並んでいる。
数論。
代数学。
解析学。
幾何学。
どれも海斗にとっては見慣れた分野だった。
けれど。
玲に渡す本として考えると、急に難しく感じた。
一冊を手に取る。
ページを開く。
そこには美しい数式が並んでいた。
しかし、その内容は大学数学を超えた専門的なものだった。
「これは……まだ早いな。」
静かに閉じる。
次の本を手に取る。
完全数について書かれた歴史書。
これは少し興味を持ってくれるかもしれない。
そう思って読み進める。
けれど。
説明は専門用語が多く、高校生が読むには少し難しい。
「うーん……。」
海斗は首を傾げる。
数学者としてなら、この本を選ぶ理由はいくらでも説明できる。
しかし。
今の自分が探しているのは、知識を与えるための本ではなかった。
玲が読んで。
玲が楽しめて。
そして。
一緒に話せる本。
それが必要だった。
何冊か手に取り、ページをめくる。
けれど、どれもしっくりこない。
やがて海斗は、小さく息を吐いた。
「今は、まだ早いか。」
無理に選ぶ必要はない。
数学は焦って答えを出すものではない。
それは研究でも。
人との時間でも同じなのかもしれない。
海斗は本を棚へ戻した。
その時、ふと気づく。
玲なら、きっとこう言うだろう。
「一緒に選べばいいじゃん。」
そう。
一人で決める必要なんてなかった。
今までの海斗なら、自分で最適な答えを探そうとしていた。
研究者として。
数学者として。
正しい答えを求めていた。
でも。
玲と出会ってから少しずつ変わっていた。
答えを一人で見つけることだけが、数学ではない。
誰かと考える時間。
誰かと悩む時間。
その過程にも意味がある。
「また今度、一緒に選ぼう。」
小さく呟く。
その言葉を口にした瞬間、不思議と心が軽くなった。
ふと窓の外を見る。
夕日が大学のキャンパスを赤く染めていた。
学生たちが帰路につく姿。
研究室へ戻る人影。
いつもの景色。
なのに。
今日は少し違って見えた。
海斗は鞄の中を見る。
そこには研究ノート。
そして、玲へ渡したボールペンと同じ種類のペンが入っていた。
「次に会ったら。」
「一緒に選ぼう。」
心の中でそう繰り返す。
次に会えることを。
当たり前のように考えている自分に気付く。
以前の海斗なら。
未来の予定など、研究以外ではほとんど考えなかった。
明日の研究。
来週の発表。
論文の締切。
そんなことばかりだった。
けれど今は。
「次は玲ちゃんと何を話そう。」
そんなことを考えている。
その変化に、海斗自身も少し驚いていた。
数学だけを追いかけていた人生。
そこに、一人の少女が現れた。
そして。
数字だけでは測れない大切なものを教えてくれた。
海斗は静かに図書館を出る。
外の風は少し冷たかった。
けれど、不思議と寒くは感じなかった。
次に会う約束。
一緒に選ぶ本。
また交互完全数について語る時間。
それらを想像すると、自然と口元が緩む。
「……早く次の日にならないかな。」
誰にも聞こえない声で呟く。
そして。
いつもの帰り道を歩き始める。
その足取りは。
今までのどんな研究成果を得た日よりも。
少しだけ軽かった。




