高校時代からの腐れ縁
夕暮れの光が研究室の窓から差し込み、長く伸びた机の影を床に描いていた。
壁一面に設置されたホワイトボードには、数え切れないほどの数式が並んでいる。
約数和。
合同式。
証明の途中で消された跡。
黒板消しで消しきれなかった白い粉が、幾重にも重なって残っていた。
机の上にも、計算用紙が何十枚と積まれている。
その中央で海斗は一冊のノートを開き、ペンを走らせていた。
「ここをこう変形して……。」
小さく独り言を漏らしながら式を書き足す。
交互完全数。
まだ誰も知らない、新しい数の世界。
証明は完成していない。
それでも少しずつ輪郭が見え始めていた。
ふと、ノートの隅に書かれた小さな文字が目に入る。
『もっと面白い条件があるかも! 玲』
少し丸みを帯びた、元気のいい字。
それを見た瞬間だった。
海斗の口元が自然と緩む。
「ふっ……。」
小さく笑い声が漏れた。
その笑い声は、静かな研究室では思った以上によく響いた。
「……お?」
離れた机で論文を読んでいた海野が顔を上げる。
「今、笑ったか?」
海斗は慌てて表情を戻した。
「いや。」
「笑ってない。」
「いやいや。」
海野は椅子を回しながら立ち上がる。
「俺の耳はそんなに悪くないぞ。」
ゆっくりと海斗の机へ歩いてくる。
「何か面白い論文でも見つけたか?」
「違う。」
「じゃあ、新しい定理?」
「違う。」
「未解決問題が解けた?」
「それも違う。」
海野は海斗の机を覗き込む。
そこにはいつものように数式がびっしりと並んでいた。
交互完全数についての計算。
約数和。
偶奇による符号。
新しい予想。
証明途中の式。
どれも見慣れた光景だった。
「……やっぱり変わったな。」
海野がぽつりと呟く。
海斗は顔を上げる。
「何が?」
「お前。」
海野は椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「昔のお前ならさ。」
「新しい数を見つけたって聞いたら。」
「朝まで絶対帰らなかった。」
「研究室で寝て。」
「朝起きてまた続きをやって。」
「飯も忘れて。」
「風呂も後回し。」
「そんな生活だった。」
海斗は苦笑する。
「それは今も変わらない。」
「いや。」
海野はゆっくり首を横に振った。
「変わった。」
「前のお前は。」
「数学のためなら全部捨ててもいいって顔をしてた。」
その言葉に海斗は黙る。
海野は続けた。
「友達も。」
「趣味も。」
「休みの日も。」
「全部数学。」
「恋愛なんて時間の無駄。」
「人付き合いも最低限。」
「そんな人間だった。」
「そこまでじゃない。」
海斗が苦笑すると、海野はすぐ返す。
「そこまでだった。」
「研究室のみんな言ってたぞ。」
「肥後は数学と結婚する気なんだろうって。」
海斗は思わず吹き出した。
「そんなことまで言われてたのか。」
「有名だった。」
海野も笑う。
「でも今は違う。」
海斗は少し真面目な表情になる。
「違う?」
「ああ。」
海野は机のノートへ視線を落とした。
「数学を大切にしてる。」
「それは昔と変わらない。」
「でも。」
「人との時間も大切にしてる。」
その一言に、海斗は何も返せなかった。
反論しようと思えばできる。
研究時間は減っていない。
論文も書いている。
計算量も以前と同じだ。
しかし。
胸のどこかで分かっていた。
変わったのは事実だった。
以前の自分なら。
昼休みに図書館へ行く理由は、本を読むためだけだった。
誰かと話すためではない。
誰かと笑うためでもない。
それなのに今は。
昼休みが近づくと、時計を見る自分がいる。
図書館へ向かう足が自然と速くなる。
その理由を考えないようにしているだけだった。
海野はそんな海斗を見ながら、小さく笑う。
「図星だな。」
「……否定はしない。」
海斗は静かに答えた。
研究室に少しだけ沈黙が流れる。
窓の外では夕焼けが少しずつ赤みを増していた。
海斗は開いたノートを見つめる。
そこに並ぶ数字。
六十。
交互完全数。
以前なら、それらはただ研究対象だった。
証明すべき命題。
解析すべき対象。
それだけだった。
だが今は違う。
六十という数字を見るたびに思い出す。
玲が初めて目を輝かせた日。
「すごい!」
と身を乗り出した姿。
一緒に計算して。
途中で間違えて。
二人で笑った時間。
数字そのものではなく、その向こうにある思い出まで浮かんでくる。
「……不思議だな。」
海斗が呟いた。
海野は静かに耳を傾ける。
「何が?」
「数学は。」
海斗はノートを優しく閉じる。
「ずっと一人で追いかけるものだと思ってた。」
「自分だけで考えて。」
「自分だけで証明して。」
「自分だけで答えを見つける。」
「そういう世界だと。」
海野は頷いた。
「でも。」
海斗は窓の外を見る。
「誰かと一緒に考えることで。」
「初めて見えるものもある。」
「誰かに説明することで。」
「自分でも気づかなかったことが見えてくる。」
「数学って。」
「案外、一人だけのものじゃないのかもしれない。」
海野は少し驚いたように目を見開いた。
「お前からそんな言葉が出るとはな。」
「俺も驚いてる。」
海斗は苦笑する。
「昔の俺なら絶対言わなかった。」
海野は腕を組みながら笑った。
「それを教えてくれたのが。」
「図書館のあの子か。」
海斗は少し照れたように頭をかく。
「……そうかもしれない。」
「いや。」
海野は即答した。
「間違いなくそうだ。」
「失礼だな。」
「褒めてる。」
海野は笑う。
「昔のお前。」
「完璧主義だったから。」
「答えが出るまで人に相談しない。」
「全部自分で抱え込む。」
「誰にも頼らない。」
「そんな数学者だった。」
海斗はゆっくり頷いた。
「悪い癖だとは思ってる。」
「でも。」
海野は真剣な表情になる。
「その子のおかげで。」
「少し楽になったんじゃないか?」
海斗はしばらく考えた。
研究室は静かだった。
時計の針だけが音を立てる。
やがて海斗は小さく頷く。
「……ああ。」
その答えは驚くほど自然に口から出た。
玲と話す時間。
数学について笑い合う時間。
「分からないね。」
「面白いね。」
そんな何気ないやり取り。
それは研究の邪魔ではなかった。
むしろ。
止まりかけていた自分を、もう一度前へ歩かせてくれる力になっていた。
海野は満足そうに笑った。
「なら。」
「その時間、大事にしろ。」
「研究は逃げない。」
「でも。」
「人との時間は、その瞬間しかないからな。」
海斗は静かに頷く。
「分かってる。」
その時だった。
机の上のノートが風で一ページめくれた。
そこには玲が書いた小さな落書きがあった。
数式の横に、小さな笑顔の顔文字。
その横には、
『もっと面白い条件があるかも!』
と書かれている。
その文字を見た瞬間。
海斗はまた笑ってしまった。
「……おい。」
海野がすかさず指を差す。
「今笑った。」
「笑ってない。」
「いや。」
「笑った。」
「研究ノート見て笑う数学者なんて初めて見たぞ。」
海斗は慌ててノートを閉じる。
「これは関係ない。」
「はいはい。」
海野はニヤニヤしながら立ち上がる。
「分かった分かった。」
「研究愛が恋愛に変わる日も近そうだ。」
「だから違う。」
海斗は即座に否定する。
「本当に違う。」
「また否定した。」
「違うものは違う。」
海野は肩をすくめる。
「その否定も、そのうち聞けなくなりそうだけどな。」
「ならない。」
「どうだか。」
研究室に二人の笑い声が響く。
窓の外では夕日がゆっくり沈み始めていた。
その日の研究は、数式だけを見れば大きな進展はなかった。
新しい定理を証明したわけでもない。
決定的な発見があったわけでもない。
それでも海斗にとっては確かな前進だった。
数学だけを見つめ、孤独の中で答えを探していた青年が。
初めて、誰かと笑い合う時間の中にも、新しい発見へ続く道があることを知り始めた日だった。




