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君と契りて 言はで思ふ心の理  作者: はまちゃん
東京旅行編

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東京旅行①

退院できる――。


その一言は、病室の空気を変えるには十分だった。


「一週間後の今日、退院できるって!」


玲は嬉しそうにそう言って、小さく両手を胸の前で握った。


その笑顔は、入院してから見せた中でも一番明るいものだった。


海斗は一瞬だけ言葉を失う。


それから、ゆっくりと息を吐いて微笑んだ。


「それは……本当によかった。」


心からそう思った。


入院してから何度も検査を受け、点滴を替え、薬を飲み、思うように体が動かない日もあった。


元気そうに笑っている日があれば、ほとんど眠って過ごす日もある。


その姿を近くで見てきたからこそ、「退院」という二文字がどれほど大きな意味を持つのか、海斗にはよく分かっていた。


玲は照れくさそうに笑う。


「うん。」


「先生がね、『まだ無理は禁物だけど、家で療養しても大丈夫でしょう』って。」


「もちろん、定期的に通院はあるけど。」


「でも、お家に帰れるんだ。」


その声には、子どものような喜びがあふれていた。


海斗は静かに頷く。


「家に帰れるっていうのは、大きいな。」


「うん!」


玲は何度も頷く。


「病院のみんな優しかったけどね。」


「やっぱり自分の部屋が恋しくなるんだ。」


「自分のベッドで寝たいし、お母さんのご飯も食べたいし。」


少しだけ寂しそうに病室を見回す。


「この部屋にも、いっぱい思い出できちゃったけど。」


海斗も同じように病室を見渡した。


窓際の椅子。


何度も数学の話をしたテーブル。


ノートを広げた場所。


夕日を一緒に眺めた窓。


最初は無機質な病室だったはずなのに、今ではそこら中に二人の思い出が残っているように感じられた。


「退院したら、この景色ともお別れか。」


海斗がぽつりと言う。


玲は少しだけ名残惜しそうに窓の外を見つめた。


「うん。」


「最初は毎日ここにいるの嫌だったけど。」


「今は少しだけ寂しいかも。」


「不思議だね。」


「人って慣れるものなんだな。」


海斗が言うと、玲はくすっと笑った。


「そうかも。」


しばらく二人で窓の外を眺める。


梅雨が終わった空は高く、青く澄み渡っていた。


病院の中庭では、風に揺れる木々が夏の訪れを知らせている。


その光景を見ながら、海斗の胸には一つの思いが浮かんでいた。


玲に外の世界を見せたい。


病室の天井ではなく、青空を。


病院の廊下ではなく、知らない街を。


数学の本だけではなく、新しい景色を。


自然と、その思いが言葉になる。


「玲ちゃん。」


「ん?」


「退院したら、どこか行きたい場所はあるか?」


玲はきょとんとした顔で海斗を見た。


「行きたい場所?」


「ああ。」


「せっかく外へ出られるんだから。」


「どこか気分転換でも。」


玲は少し考え込む。


指先でシーツをなぞりながら、小さく首をかしげた。


「うーん……。」


「遊園地とか?」


「水族館とか?」


「映画とか?」


海斗が候補を挙げるたびに、玲は首を横へ振る。


「違う?」


「うん。」


「もっと……。」


少し恥ずかしそうに笑う。


「遠く。」


「遠く?」


「うん。」


玲は窓の向こうを見つめる。


まるで、その先にある景色を思い浮かべるように。


「東京。」


その一言は、とても静かだった。


海斗は少し驚く。


「東京か。」


玲は頷いた。


「テレビではいっぱい見るけど。」


「ちゃんと歩いたこと、あんまりないんだ。」


「本屋さんもいっぱいあるんでしょ?」


「ああ。」


「神保町なんて、本好きには有名な街だ。」


「あとね。」


玲は少し照れながら続ける。


「大きな駅とか。」


「夜景とか。」


「美味しいものとか。」


「全部見てみたい。」


海斗はその話を聞きながら頭の中で予定を組み立て始めていた。


名古屋から東京なら新幹線で一時間半ほど。


日帰りでも行ける。


しかし、玲の体力を考えると移動だけでも負担は大きい。


無理はさせたくない。


「一泊くらいがいいか。」


思わず口から漏れる。


玲は目を丸くした。


「泊まるの?」


「ああ。」


「せっかく行くなら、急がなくていいように。」


「休みながら回ればいい。」


玲は嬉しそうに笑った。


「本当に?」


「ああ。」


「ホテルも駅の近くに取れば歩く距離も少なくて済む。」


「途中で疲れたら休めばいい。」


「全部ゆっくりでいい。」


玲はしばらく海斗を見つめていた。


その視線には、少しだけ驚きが混じっている。


「海斗君。」


「ん?」


「変わったね。」


「そうか?」


「うん。」


玲は優しく笑う。


「前だったら。」


「『研究が忙しいから』って言ってたと思う。」


海斗は苦笑した。


否定できなかった。


以前の自分なら、きっとそうしていた。


研究を最優先にして、旅行なんて後回しだっただろう。


「予定は調整する。」


静かに答える。


「研究は逃げない。」


「でも。」


「玲ちゃんと出かける機会は、今しかないかもしれない。」


その言葉に、玲は少しだけ目を潤ませた。


「ありがとう。」


小さな声だった。


海斗は照れくさそうに頭をかく。


「礼を言われるようなことじゃない。」


「俺も行きたいと思っただけだ。」


玲は嬉しそうに笑う。


「じゃあ、一緒だね。」


「ああ。」


「一緒だ。」


病室に穏やかな沈黙が流れる。


玲は嬉しそうに指を折り始めた。


「東京駅。」


「神保町。」


「本屋さん。」


「美味しいご飯。」


「あと、公園も行きたい。」


「欲張りだな。」


海斗が笑う。


「だって、一泊あるもん。」


玲も笑う。


「いっぱい思い出作れる。」


「そうだな。」


海斗はノートを開いた。


白紙のページに、大きく文字を書く。


東京旅行計画


玲は身を乗り出した。


「もう書くの?」


「予定は忘れるからな。」


「数学者らしい。」


「数学者は記録が仕事だから。」


「そっか。」


玲はくすくす笑う。


海斗はその下へ予定を書き始めた。


午前、新幹線。


昼、神保町。


午後、書店巡り。


夕方、ホテル。


翌日は体調を見ながら散策。


一つ一つ確認するたびに、玲の表情は明るくなっていく。


「楽しみ。」


何度もその言葉を口にする。


そのたびに海斗も嬉しくなった。


数学の新しい定理を思いついた時とは違う。


もっと穏やかで、温かい喜びだった。


「約束だからね。」


玲は小指を差し出した。


海斗は少し照れながら、小指を絡める。


「約束する。」


「絶対?」


「ああ。」


「絶対だ。」


玲は満足そうに頷いた。


病室の外では、夏の風が木々を揺らしている。


窓から差し込む陽射しは、二人の間に置かれたノートを明るく照らしていた。


その日の午後も、二人は少しだけ数学の話をした。


交互完全数について新しい条件を考え、数字を書き並べ、途中で玲が首をかしげ、海斗が説明する。


「やっぱり難しい。」


そう言って玲は笑う。


「でも面白い。」


その一言だけで、海斗は十分だった。


病気のことも、研究の悩みも、その時間だけは少し遠く感じられた。


その日、二人が得た一番大きな成果は、新しい数を見つけたことでも、新しい条件を思いついたことでもない。


退院したら東京へ行く。


一緒に本屋を歩く。


同じ景色を見て、同じ時間を過ごす。


そんな未来の約束を、二人で作ることができたこと。


それこそが、海斗にとっても玲にとっても、どんな美しい数式より価値のある、新しい「希望」の証明だった。

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