あれから
春。
研究室の窓から差し込む光は、あの日と同じように柔らかかった。
海斗は机の上に置かれた一冊のノートを開く。
そこには、今まで積み重ねてきた数式が並んでいる。
交互完全数。
交互友愛数。
そして、最後のページ。
そこだけは、今でも開くたびに胸が痛んだ。
「数学は、人を幸せにできる。」
玲の字。
何度見ても、そこにいるような気がした。
「……本当にそうだったな。」
海斗は小さく呟く。
以前の自分なら、この言葉を理解できなかっただろう。
数学は真理を追求するもの。
正しい答えを求めるもの。
感情など必要ない。
そう思っていた。
しかし。
玲と出会ってから、その考えは変わった。
数字には、人の想いが宿る。
誰かが何百年も前に考えた証明。
誰かが人生をかけて残した定理。
それらは、ただの記号ではない。
そこには必ず、人間の時間が存在している。
海斗は新しい論文の原稿を見る。
タイトル。
「交互約数構造における新たな対称性について」
まだ途中だった。
けれど、この研究を完成させる理由は、昔とは違っていた。
名誉のためではない。
名前を残すためでもない。
ただ。
玲に伝えるためだった。
「できたよ。」
そう言うために。
海斗はペンを握る。
その瞬間。
研究室の扉が開いた。
「肥後先生。」
後輩の声だった。
「また研究ですか?」
「ああ。」
「相変わらずですね。」
後輩は笑う。
しかし、その表情には昔とは違う海斗への尊敬があった。
以前の海斗は、近寄りがたい研究者だった。
話しかけても返事がない。
研究以外は何も見えていない。
そんな印象だった。
けれど今は違う。
学生の質問にも答える。
研究の楽しさを語る。
そして時々、優しい笑顔を見せる。
「先生。」
「何だ?」
「どうして、そんなに数学を続けられるんですか?」
海斗は少し黙った。
窓の外を見る。
桜の花びらが風に舞っている。
そして。
静かに答えた。
「約束があるからだ。」
後輩は首を傾げる。
「約束?」
海斗はノートを見る。
そこには、60という数字が書かれていた。
「昔、一緒に数学を楽しんでくれた人がいた。」
「その人に、まだ見せたいものがある。」
後輩は何も言わなかった。
ただ、その言葉の意味を感じ取ったように静かに頷いた。
海斗は再び机へ向かう。
数式を書く。
一つ。
また一つ。
その途中で、ふと気づく。
昔なら、答えだけを追い求めていた。
しかし今は違う。
答えへ向かう過程。
誰かと考えた時間。
悩んだ日々。
笑った瞬間。
そのすべてが数学なのだ。
夕方。
研究室に一人残った海斗は、最後の式を書き終える。
ペンを置く。
「……玲。」
静かな部屋で名前を呼ぶ。
返事はない。
それでも。
不思議と寂しくはなかった。
窓から吹き込む風が、机の上の紙を揺らす。
そこには、新しい定理の証明があった。
そして、その横には小さく書かれた一文。
「君と出会ったことが、僕の人生で一番美しい証明だった。」
海斗は空を見上げる。
どこまでも広がる青空。
その向こうに、玲がいるような気がした。
数学の旅は、まだ終わらない。
新しい数。
新しい定理。
新しい発見。
そのすべてを抱えて、海斗は歩き続ける。
いつかまた。
一番最初に伝えるために。
「見つけたよ。」
その言葉を届けるために。




