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君と契りて 言はで思ふ心の理  作者: はまちゃん
エピローグ

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エピローグ

春。


柔らかな陽射しが大学の構内を包んでいた。


満開の桜並木を歩く学生たちの笑い声が、穏やかな風に乗って聞こえてくる。


新しい教科書を抱える新入生。


卒業式を終え、未来へ歩き出そうとする学生。


それぞれが、それぞれの春を迎えていた。


「先生、ありがとうございました!」


研究室の扉の前で、卒業する学生たちが深く頭を下げる。


海斗は穏やかに微笑み、一人ひとりの顔を見つめた。


「こちらこそ。皆さんと研究できて楽しかったです。」


「これから先、証明に行き詰まることもあるでしょう。」


「でも、答えが見えない時間にも意味があります。」


「焦らず、自分の歩幅で進んでください。」


学生たちは何度も頷き、名残惜しそうに研究室を後にしていった。


「先生!」


一人の男子学生が振り返る。


「交互完全数の論文、本当に感動しました!」


「ありがとうございました!」


海斗は少し照れたように笑う。


「ありがとう。」


「でも、あれは一人で見つけた研究じゃない。」


学生は不思議そうな顔をした。


海斗はそれ以上は語らず、小さく手を振った。


研究室が静寂に包まれる。


壁一面の黒板には、無数の数式。


ラックには数学雑誌が並び、机の上には査読中の論文が積まれている。


世界中の数学者から届いた手紙。


国際会議の資料。


賞状。


どれも十二年前には想像もしなかった景色だった。


しかし、その研究室の一角だけは、昔から変わっていない。


窓辺には、一輪のタモトユリ。


そして、その隣には小さな写真立て。


そこには十八歳の玲が笑っていた。


東京で撮った一枚。


数学の本を胸に抱え、少し照れながら笑う写真だった。


海斗は写真の前へ歩き、静かに花瓶の水を替える。


「今年も春が来たよ。」


優しく語りかける。


「君がいなくなって、もう十二年か。」


長いようで、短かった十二年。


最初の数年間は、研究に没頭した。


研究を止めれば、玲との約束まで止まってしまう気がしたから。


泣きながら論文を書いた夜もある。


ページに涙が落ちて書き直したことも、一度や二度ではなかった。


それでも海斗は歩みを止めなかった。


交互完全数。


結婚数。


交互友愛数。


交互社交数。


玲と一緒に笑いながら考えた数たちは、少しずつ世界へ知られていった。


国際学会で発表した日。


質疑応答が終わったあと、一人の海外の数学者がこう言った。


「あなたの研究は、美しい。」


その言葉を聞いた瞬間、海斗の胸に浮かんだのは賞賛ではなかった。


「玲。」


「聞こえたか。」


そんな思いだけだった。


論文が掲載された日も。


学生が博士号を取得した日も。


賞を受け取った日も。


最初に伝えたい相手は、十二年前から変わらなかった。


窓の外では桜吹雪が舞っている。


その景色を眺めながら、海斗は引き出しを開けた。


中には一本のボールペン。


銀色の装飾は少し擦れていたが、大切に使われ続けた跡が残っている。


玲へ贈ったものと同じメーカーの一本。


「あの日を思い出すな。」


誕生日。


婚姻届。


照れながら笑った玲。


「海斗君。」


「サインして。」


あの幸せそうな笑顔は、今でも昨日のことのように思い出せる。


海斗はボールペンを指先でゆっくり回した。


「まだ使ってるよ。」


「君が言った通り、このペンでたくさん証明を書いた。」


ふと、優しい声が聞こえた気がした。


『海斗君。』


『そのペンなら、きっと素敵な証明が書けるね。』


海斗は少しだけ笑う。


「まだまだだよ。」


「証明したいことは山ほどある。」


新しいノートを開く。


最初のページには、昔と変わらない字で書かれていた。


『君と見つけた数学』


その文字を書くたびに、玲が隣で笑っているような気がする。


海斗は静かにペンを走らせる。


数式が並ぶ。


定義を書く。


補題を書く。


証明を書く。


だが、その一つひとつには、玲と過ごした日々が重なっていた。


図書館。


病室。


神保町。


東京駅。


浄輪寺。


屋上。


タモトユリ。


交互完全数を初めて見つけた夜。


「すごい!」


と目を輝かせた玲。


その笑顔が、今も海斗の数学を支えていた。


研究室の時計が午後五時を告げる。


帰ろうと立ち上がった、その時だった。


コンコン。


「失礼します。」


若い女子学生が顔をのぞかせた。


「先生、整数論について相談があるんですが……。」


「どうぞ。」


学生は少し緊張しながらノートを開く。


「完全数は理解できたんです。」


「でも、友愛数って、どうしてこんな名前なんですか?」


海斗は少しだけ目を細めた。


「いい質問だ。」


黒板へ歩き、168と248を書く。


「この二つは、お互いがお互いを導く数なんだ。」


学生は興味深そうに見つめる。


「人間関係みたいですね。」


その一言に、海斗は少し驚く。


十二年前。


玲も同じことを言っていた。


「なんだか、人みたい。」


あの声が耳の奥によみがえる。


海斗は優しく笑った。


「そう。」


「数学には、人と人のように結び付く数がある。」


「一人で完成する数もある。」


「でも、お互いがいて初めて意味を持つ数もある。」


学生は目を輝かせた。


「そんな考え方、初めて聞きました。」


海斗は頷く。


「数学は数字だけじゃない。」


「そこへ意味を見いだすのは、人だから。」


学生は何度も頷き、ノートへ夢中で書き込んでいく。


しばらくして、ふと顔を上げた。


「先生は、どうして数学者になったんですか?」


海斗は少し考えた。


そして写真立てへ視線を向ける。


「昔、一人の女の子が教えてくれたんだ。」


「数学は、一人で解くものじゃないって。」


学生は首をかしげる。


海斗は穏やかに続けた。


「どんなに美しい定理でも。」


「喜びを分かち合える誰かがいて初めて、本当に美しくなる。」


「私は、そのことを彼女から学んだ。」


学生は静かに微笑んだ。


「素敵ですね。」


「私も、そんな数学者になりたいです。」


海斗は嬉しそうに頷いた。


「きっとなれる。」


学生が帰ったあと、研究室には再び静けさが戻る。


夕日が窓から差し込み、写真立てを黄金色に照らした。


その光の中で、玲の笑顔が少しだけ柔らかく見えた。


『海斗君。』


『これからも、いっぱい新しい数学を見つけてね。』


風が吹く。


窓辺のタモトユリが、静かに揺れた。


海斗は写真へ向かって、ゆっくり頷く。


「ああ。」


「約束だから。」


「君と交わした約束は、まだ続いている。」


海斗は新しい論文の一行目を書き始める。


その先に、どんな数が眠っているのか。


どんな証明が待っているのか。


それは、まだ誰にも分からない。


けれど、一つだけ確かなことがある。


人生には、数式では証明できないものがある。


それでも、人は確かにそれを信じて生きていける。


一輪のタモトユリから始まった出会い。


一つの完全数。


一組の結婚数。


そして、一人の数学者と一人の少女が紡いだ、交互の純白な愛。


その物語は終わったのではない。


海斗が数学を愛し続ける限り。


誰かがその研究を受け継ぐ限り。


玲の笑顔もまた、数学のどこかで生き続ける。


海斗は静かにペンを走らせる。


数式の向こう側には、いつも玲がいた。


そして今日もまた、新しい証明が、一枚の白い紙の上に生まれていく。


読んでいただきありがとうございました!

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