数の女神様(終)
その眼差しには、何一つ後悔はなかった。
神殿は静まり返る。
長い沈黙のあと、ピタゴラスはゆっくりと玉座から立ち上がった。
「……セオドロス。」
「お前は変わったな。」
海斗は黙ってその言葉を受け止める。
「かつてのお前なら。」
「迷うことなく数学を選んでいただろう。」
「だが今は違う。」
「お前は真理より、一人の人間を選んだ。」
神殿中の視線が集まる。
ピタゴラスは静かに目を閉じた。
「それもまた、一つの真理か。」
教団の者たちがどよめく。
「教祖様!」
「なりません!」
しかし、ピタゴラスは手を上げるだけで、その声を制した。
「友愛数は、確かに美しい。」
「だが。」
「人の心を動かす美しさには敵わぬ。」
ゆっくりと二人を縛る縄がほどけていく。
アリスモスは信じられないように自分の手を見つめた。
「……え。」
「行くがよい。」
ピタゴラスは静かに告げる。
「もう二度と、この神殿へ戻るな。」
海斗は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
アリスモスも涙を流しながら頭を下げる。
二人は手を取り合い、神殿をあとにした。
外へ出ると、そこには眩しい朝日が広がっていた。
アリスモスが小さく笑う。
「これから、どこへ行こうか。」
海斗も笑う。
「どこでもいい。」
「君と一緒なら。」
二人は丘の上へ歩いていく。
風に揺れる草原。
青い空。
その景色の中で、アリスモスは海斗の肩にもたれた。
「セオドロス。」
「うん?」
「今度こそ、一緒に生きよう。」
海斗は優しく頷く。
「ああ。」
「今度は、最後まで。」
その瞬間――
世界は白い光に包まれた。
……
海斗はゆっくりと目を覚ます。
病室の窓から、冬の朝日が差し込んでいる。
隣では玲が静かに眠っていた。
海斗はそっと玲の手を握る。
夢の中で救えた二人。
今度は現実で、この手を離さない。
そう心に誓いながら、海斗は穏やかに微笑んだ。




