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君と契りて 言はで思ふ心の理  作者: はまちゃん
君と信じた不言論

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32/42

タモトユリは太陽を向く(60)

それからの日々は、幸せ以外の言葉では表せなかった。


結婚という形を選んだからといって、何かが劇的に変わったわけではない。


病室で過ごす時間。


窓から見える空。


一緒に飲む温かいお茶。


そんな何気ない一つ一つが、以前よりもずっと大切になっただけだった。


翌日、海斗は改めて玲の両親へ挨拶に向かった。


応接間には静かな空気が流れていた。


玲の母・結衣は、婚姻届の受理証明を見つめると、目に涙を浮かべながら微笑んだ。


「玲が、本当に幸せそうだったんです。」


その言葉だけで、胸がいっぱいになる。


海斗は深く頭を下げた。


「玲さんを、最後まで大切にします。」


父・隆志も静かにうなずいた。


「ありがとう。」


その短い言葉には、父親として娘を託す覚悟と、海斗への信頼が込められていた。


海斗には両親がいない。


だから数日後、祖父のもとを訪ね、結婚したことを報告した。


祖父は受理証明を受け取ると、しばらく黙って目を通した。


やがて湯飲みを置き、静かに海斗を見た。


「そうか。」


長い沈黙。


そのあと、祖父はゆっくりとうなずく。


「最後まで尽くせ。」


「……うん。」


海斗はそれ以上何も言わなかった。


その一言だけで十分だった。


それからの日々は、本当に穏やかだった。


玲は少しずつ話すことが難しくなっていった。


最初は言葉が短くなり。


やがて一文話すだけでも息が上がるようになった。


そして、ある日を境に、ほとんど声が出なくなった。


それでも玲は、笑うことだけは忘れなかった。


海斗が病室へ入る。


玲はベッドの上でゆっくりと目を開ける。


そして、小さく目を細める。


「おはよう。」


海斗がそう言うと。


玲は口元を少しだけ動かし、優しく笑う。


それが返事だった。


海斗も自然に笑う。


「今日は大学でな。」


「一年生が完全数について質問してきた。」


「六と二十八しか知らなかったみたいだ。」


玲の瞳が少し大きくなる。


海斗には、それだけで何を考えているのか分かった。


「そうだな。」


「玲なら『もっとあるよ』って言うよな。」


玲は小さくうなずいた。


目だけで笑っていた。


「交互完全数の話はしなかった。」


「まだ論文を書いてる途中だから。」


すると玲は、ほんの少しだけ頬をふくらませる。


まるで、


「教えてあげればいいのに。」


そう言っているようだった。


海斗は苦笑する。


「秘密なんだ。」


「完成したら、一番最初に聞いてもらう予定だったんだけどな。」


その言葉に、玲の瞳が少しだけ潤む。


海斗はすぐ話題を変えた。


「そうそう。」


「病院の庭の木、少し色づいてた。」


「もうすぐ冬だな。」


玲は窓の外を見る。


そして、ゆっくりと目を閉じる。


静かな呼吸。


眠ってしまったのかと思った。


だが海斗が帰ろうとして立ち上がると、玲はそっと目を開けた。


帰らないで。


そんなふうに見えた。


海斗はもう一度椅子へ座る。


「もう少しいるよ。」


その言葉だけで、玲は安心したように目を細めた。


言葉はなくても、気持ちは伝わる。


二人はそんな時間を何度も重ねていった。


十二月も終わりに近づく頃。


玲は一日のほとんどを眠って過ごすようになっていた。


起きている時間は、ほんの数十分。


それでも海斗が来る時間になると、不思議と目を覚ますことがあった。


ある日。


海斗が病室へ入ると、玲は窓の外を見ていた。


「今日は富士山が見えるらしい。」


そう声をかける。


玲はゆっくり振り向き、海斗を見る。


そして目を細める。


東京旅行。


新幹線の窓から見た富士山。


その記憶が二人の間によみがえっていた。


「また見たいな。」


海斗がそう言うと。


玲は小さくうなずく。


「うん。」


そう言ったように見えた。


だが、もう声は出なかった。


目だけが、優しく笑っていた。


余命宣告から二か月。


冬の朝。


病室には医師と看護師が慌ただしく出入りしていた。


海斗も、玲の両親も呼ばれた。


機械の電子音だけが一定のリズムで鳴っている。


玲は静かに横たわっていた。


細くなった指先。


浅い呼吸。


それでも目だけは開いていた。


海斗がそっと手を握る。


玲は残された力を振り絞るように、ほんの少しだけ指を動かした。


握り返そうとしている。


それだけで十分だった。


結衣が涙を流しながら娘の髪を撫でる。


「玲……。」


父・隆志も娘の手を包み込み、何度も名前を呼ぶ。


玲はゆっくり両親を見る。


目を細める。


ありがとう。


その気持ちは、声がなくても伝わった。


両親は涙を流しながら何度もうなずいた。


「分かってる。」


「分かってるよ。」


そして玲は、ゆっくりと海斗を見る。


その瞳は、十八歳の誕生日に婚姻届を差し出した時と同じだった。


優しく。


まっすぐで。


幸せそうだった。


海斗は涙で視界が滲む。


それでも笑おうとした。


「玲。」


「愛してる。」


玲の瞳が揺れる。


涙が一筋、頬を伝った。


もう言葉は返せない。


それでも彼女は、ゆっくりと何度もうなずいた。


そして。


ほんの少しだけ口角を上げる。


初めて図書館で出会った日の笑顔。


数学の話をして笑った笑顔。


東京で手をつないだ笑顔。


病室でタモトユリを抱きしめた笑顔。


そのすべてが重なった、人生で一番穏やかな笑顔だった。


海斗には、その瞳が語っている言葉が聞こえた気がした。


――ありがとう。


――幸せだった。


――またね。


静かに。


本当に静かに。


玲は目を閉じた。


まるで眠るようだった。


病室には、誰も何も言えなかった。


冬の日差しだけが、白いシーツを優しく照らしていた。


享年十八歳。


浜辺玲。


最後まで、人を笑顔にすることを忘れなかった少女だった。


それから春が訪れた。


海斗は研究を続けた。


論文を書いた。


新しい数を見つけた。


証明を完成させた。


学生たちへ数学を教えた。


教壇で美しい定理を説明するとき。


ふと、


「きれい。」


そう笑う玲の声が聞こえた気がすることがあった。


ある春の日。


海斗は、あの花屋を訪れた。


「あら。」


以前と同じ店員が海斗を見る。


何も聞かなかった。


海斗も短く言うだけだった。


「タモトユリを一本。」


店員は静かに花を包み、優しく微笑んだ。


「行ってらっしゃい。」


海斗は墓地へ向かう。


墓石には静かに名前が刻まれている。


浜辺玲


その下には、小さく刻まれた数字。


60


そして、そのさらに下には。


168 ↔ 248


誰にも意味は分からない。


けれど、二人には十分だった。


海斗はタモトユリを供え、しゃがみ込む。


「玲。」


「また新しい数を見つけた。」


「君なら、きっと『きれい』って笑うんだろうな。」


返事はない。


それでも、不思議と寂しさだけではなかった。


春風がそっと吹く。


タモトユリが揺れた。


まるで誰かが、優しくうなずいたように。


海斗は空を見上げる。


青空がどこまでも広がっている。


「またね、玲。」


静かな声でそう告げる。


その瞬間、もう一度風が吹いた。


タモトユリは太陽の方を向いたまま、小さく揺れ続けていた。


海斗は微笑み、ゆっくりと歩き出す。


もう隣に玲はいない。


けれど、その歩幅は一人ではなかった。


心の中では、今も二人で歩いていた。


数学には、数え切れないほど多くの定理がある。


人は証明を積み重ね、真理を探し続ける。


だが海斗が生涯をかけても忘れることのない証明は、一つだけだった。


それは数式では書けない。


論文にも載せられない。


誰にも完全には説明できない。


一輪のタモトユリから始まり、一つの完全数と、一組の交互友愛数が結んだ、小さな奇跡。


互いを思いやり、支え合い、限られた時間を精いっぱい生き抜いた二人の人生そのものが、その証明だった。


愛は証明できない。


それでも確かに存在する。


そして、その証明は、美しい数よりも、美しい定理よりも、永遠に人の心に残り続ける。


ご朗読ありがとございました。

その2年後海斗は1862172, 1937988, 1960452, 1970748

の交互社交数を見つける。

また海斗は生涯独身であった。

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天国で再会してくれ
玲ちゃん…
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