共に結婚数と名づけよう
数式が並ぶノートを眺めながら、海斗は静かに呟いた。
「……面白いな。」
昼下がりの図書館。
窓から差し込む秋の陽射しが、机の上に広げられたノートを柔らかく照らしていた。
ページいっぱいに並ぶ数字や式。
他の学生なら難しい顔をして閉じてしまいそうな内容だったが、玲は興味津々といった様子で身を乗り出していた。
「何が?」
海斗はノートを玲の方へ向ける。
そこには、大きく二つの数字だけが書かれていた。
168 ↔ 248
玲は数字を見つめる。
「これ?」
「ああ。」
海斗は頷く。
「まだ正式な名前をつける前の、新しい関係を持つ数字だ。」
玲は目をぱちぱちさせる。
「新しい数?」
「正確には、新しい数の関係だな。」
海斗はペンを指先で回しながら続けた。
「最初は……交互婚約数と呼んでいた。」
「婚約数?」
玲は不思議そうに聞き返した。
「婚約って、あの婚約?」
「そう。」
「数学にそんな名前があるの?」
海斗は笑って首を横に振る。
「いや、普通はない。」
「これは俺が仮につけていた名前だ。」
「普通の友愛数を参考にしながら考えていた時期にな。」
玲は「へぇ」と感心したように頷いた。
「どうして婚約なの?」
海斗はノートを一枚めくり、ゆっくりと説明を書き始める。
「まず、交互約数和を定義する。」
ペン先がさらさらと紙の上を滑る。
T(n)=\sum_{d\mid n,\ d<n}(-1)^d d
玲は数式を眺める。
「……読めない。」
海斗は苦笑した。
「だよな。」
「簡単に言うと、自分自身を除く約数を全部集める。」
「でも普通に足すんじゃない。」
「偶数の約数はプラス。」
「奇数の約数はマイナス。」
玲はゆっくり頷く。
「プラスとマイナスを分けるんだ。」
「ああ。」
「それだけで、不思議なくらい違う世界が見えてくる。」
海斗は数字を書いた。
「例えば、168。」
約数を書き並べていく。
1、2、3、4、6、7、8、12、14、21、24、28、42、56、84
「奇数は引く。」
「偶数は足す。」
玲も一緒になって指を動かしながら計算を追っていく。
しばらくして。
「あ。」
「248!」
海斗は嬉しそうに笑う。
「そう。」
「つまり。」
T(168)=248
さらに次の式を書く。
T(248)=168
玲は目を丸くした。
「戻ってきた!」
「そう。」
「168から248へ。」
「248から168へ。」
「互いに相手を導く。」
玲は数字をじっと見つめる。
「なんだか。」
「人みたい。」
海斗は少し驚いた。
「人?」
玲は数字を指でなぞる。
「片方だけじゃないもん。」
「どっちも相手を見つけてる。」
「片思いじゃない。」
「ちゃんと両思い。」
海斗は思わず吹き出した。
「数学で両思いって表現は初めて聞いた。」
「でも。」
玲は笑う。
「そう見えるよ。」
海斗はノートへ視線を落とした。
数学者として見れば、これは二周期軌道。
ただの写像の性質。
それだけの話だった。
しかし玲は違った。
そこに関係を見ている。
数字ではなく、つながりを見ている。
海斗は小さく息をついた。
「……そうかもしれない。」
「完全数は。」
「自分一人で完成する。」
玲は頷く。
「うん。」
「でも、この数は違う。」
「自分だけでは完成しない。」
「相手がいて初めて、この関係が成立する。」
玲は嬉しそうに笑った。
「素敵。」
「完全数も好きだけど。」
「私はこっちの方が好きかも。」
海斗は少し意外そうな顔をした。
「どうして?」
玲は少し考えてから答える。
「一人で完成するより。」
「誰かと一緒に完成する方が。」
「私は幸せだと思うから。」
その一言が、海斗の胸に深く残った。
図書館は静かだった。
ページをめくる音だけが聞こえる。
海斗はノートを閉じず、数字を見つめたまま言う。
「だから最初は。」
「交互婚約数って呼んでいた。」
玲は首を傾げる。
「婚約?」
「ああ。」
「まだ約束の段階。」
「これから先、一緒に歩いていくことを誓う。」
玲は少し笑った。
「でも。」
「この数字って。」
「もう約束してるだけじゃないよね。」
海斗は玲を見る。
「どういうこと?」
玲は168と248を交互に指差した。
「だって。」
「もうお互いがお互いを支えてる。」
「約束だけじゃなくて。」
「ちゃんとつながってる。」
海斗は言葉を失った。
数学的には何も変わらない。
しかし、その見方はあまりにも自然だった。
「なるほどな……。」
海斗は静かに呟く。
「婚約より。」
「もっと深い関係か。」
玲は頷いた。
「うん。」
「だから。」
「結婚の方がぴったり。」
海斗は思わず笑った。
「玲ちゃんらしい発想だ。」
「変?」
「いや。」
「すごく面白い。」
海斗は新しいページを開いた。
しばらく考える。
ペン先が止まる。
何度も書こうとして、消す。
そして最後に、一文字ずつ丁寧に書いた。
結婚数
玲はその文字を見る。
「いい名前。」
「本当に?」
「あったかいもん。」
「数学なのに。」
「人の気持ちが入ってる。」
海斗は少し照れくさそうに頭をかいた。
「数学者に怒られるかもしれない。」
「『もっと学術的な名前にしろ』って。」
玲はくすっと笑った。
「でも。」
「最初に名前を考える人には、その人の気持ちが入るんでしょ?」
海斗は頷く。
「そうだな。」
「完全数も。」
「友愛数も。」
「誰かが、その美しさを感じて名前をつけた。」
玲は数字を見つめた。
168。
248。
まるで寄り添うように並んでいる。
「この二つ。」
「ずっと一緒なんだね。」
海斗は静かに答えた。
「ああ。」
「写像を繰り返しても。」
「168は248へ。」
「248は168へ。」
「何度計算しても変わらない。」
玲は安心したように微笑んだ。
「なんだか羨ましい。」
「ずっと離れないなんて。」
海斗はその言葉に、少しだけ胸が締めつけられた。
けれど表情には出さず、穏やかに笑う。
「数学の世界ではな。」
「現実は違うかもしれない。」
玲は首を横に振る。
「ううん。」
「現実でも。」
「人って、お互いを大切に思えば。」
「きっと心は離れないよ。」
海斗は玲を見つめた。
その笑顔は、秋の柔らかな陽射しよりも温かかった。
「……そうだな。」
海斗はもう一度ノートを見る。
そこには新しく書かれた文字。
結婚数
そして、その下に並ぶ二つの数字。
168 ↔ 248
まだ誰にも知られていない、小さな発見。
未来でどんな名前になるのか。
本当に数学の世界で認められる日が来るのか。
それはまだ分からない。
けれど、その日この図書館で交わした会話だけは、海斗にとって何より大切な記憶になった。
二つの数字は静かに並んでいた。
168。
248。
まるで互いを見つけ、互いを支え合いながら、永遠に寄り添い続ける二人のように。




