寝ぼけ眼な儚き時間
病室の静かな空気を破るように、優しい声が耳へ届いた。
「ねえ、海斗君。」
肩へ触れる手は、とても軽かった。
「起きて。」
海斗はゆっくりと瞼を開く。
白い天井。
規則正しく鳴る心電図の電子音。
カーテンの隙間から差し込む、柔らかな冬の朝日。
昨夜見た夢の荘厳な神殿とはまるで違う景色だった。
そして、その光の中に一人の少女が立っていた。
「私。」
玲は少し照れくさそうに笑う。
「十八歳になったよ!」
その笑顔は、どこか疲れを隠せていなかった。
頬は以前より細くなり、声も少しかすれている。
それでも、その瞳だけは変わらない。
図書館で初めて海斗へ「完全数って面白いよね」と話しかけてきた、あの日と同じまっすぐな瞳だった。
海斗は寝ぼけたまま玲を見つめる。
その笑顔が、一瞬だけ夢の中のアリスモスと重なった。
(今度は逆なんだな……。)
夢ではアリスモスが神殿で自分を呼び起こした。
現実では玲が病室で自分を起こしてくれる。
二人は違う人物のはずなのに、不思議なくらい笑い方が似ていた。
海斗は思わず小さく笑う。
「誕生日、おめでとう。」
玲は嬉しそうに目を細める。
「ありがとう。」
その一言だけで十分だった。
二人の間に静かな時間が流れる。
窓の外では、澄み切った冬空が広がっている。
遠くの街路樹には葉がほとんど残っていない。
季節は、もう冬だった。
玲は少しだけ身体を起こすと、ベッドサイドの引き出しへ手を伸ばした。
「それでね。」
何かを大切そうに取り出す。
白い封筒だった。
「これ。」
海斗へ差し出す。
「サインして。」
海斗は何気なく受け取り、封筒から書類を取り出した。
そして、その瞬間。
思わず息をのんだ。
「……。」
婚姻届。
役所へ提出する正式な書類だった。
一番上には、はっきりとその文字が印刷されている。
海斗は目を見開いたまま固まった。
「玲……。」
玲は少し照れながら笑う。
「驚いた?」
「……ああ。」
海斗はゆっくりと書類へ視線を落とす。
そこには、すでに丁寧な字で書かれた名前があった。
浜辺玲
見慣れた、少し丸みのある文字。
何度もノートへ書いていた数字の横で見てきた字だった。
その名前を見ただけで胸が熱くなる。
さらに視線を下へ移す。
証人欄。
浜辺結衣。
浜辺隆志。
玲の両親の署名だった。
海斗は思わず玲を見た。
「……もう。」
「みんな了承してるのか。」
玲は小さく頷いた。
「うん。」
「昨日、お父さんとお母さんに話したの。」
海斗は驚いたまま聞いていた。
玲は静かに続ける。
「最初はね。」
「二人とも泣いてた。」
「そりゃそうだ。」
海斗が小さく呟く。
玲は少し笑う。
「でも。」
「私がね。」
「『海斗君と家族になりたい』って言ったら。」
玲は少しだけ涙ぐみながら笑顔を作った。
「お母さんが。」
『玲が自分で決めたことなら、お母さんは応援する。』
「そう言ってくれた。」
玲は一度言葉を切る。
「お父さんは。」
少しだけ笑う。
「しばらく何も言わなくて。」
「うん。」
「それで急に。」
玲は父の真似をするように、少し低い声を作った。
『泣かせたら許さんぞ。』
海斗は思わず吹き出した。
「……らしいな。」
玲も笑う。
「うん。」
「そのあと。」
「『よろしく頼む』って。」
病室が静かになる。
海斗は婚姻届を見つめた。
そこには玲だけではなく、両親の想いまで詰まっていた。
娘の未来を願いながら書いた名前。
その重みが、紙一枚とは思えないほど手に伝わってくる。
玲は少し照れくさそうに言う。
「だから。」
「海斗君だけが、まだだった。」
海斗は何も言えなかった。
昨日まで、この婚姻届は存在しなかった。
それなのに。
玲は自分が眠っている間に、すべてを準備していた。
十八歳になる、その日のために。
海斗は静かに息を吸う。
「……ペン。」
玲は微笑み、小さなボールペンを差し出した。
「あの日。」
「東京で買った手帳と一緒に入れてた。」
海斗はペンを受け取る。
見覚えのある一本だった。
神保町を歩いた帰り。
文房具店で玲へ贈ったボールペン。
「まだ使ってたのか。」
玲は少し頬を赤くする。
「大事な時に使おうって決めてた。」
「だから。」
「今日。」
海斗は小さく笑う。
「そういうことか。」
玲は照れながら頷いた。
「うん。」
海斗は婚姻届を机へ置く。
震える手を、一度だけ握り直した。
数学の証明を書く時とは違う。
論文へ署名する時とも違う。
人生で一番緊張する瞬間だった。
ゆっくりとペン先を紙へ置く。
一画目を書く。
肥。
続いて。
後。
海。
斗。
一文字ずつ。
これまで歩んできた人生を刻むように。
そして最後の一画を書き終えた。
肥後海斗。
海斗は静かにペンを置く。
不思議だった。
書き終える前まで胸の中を埋めていた不安が、すっと消えていた。
代わりに、静かな覚悟だけが残っている。
玲はその名前を見つめる。
涙が一筋、頬を伝った。
「……ありがとう。」
海斗は婚姻届を両手で持ち上げた。
「すぐ出してくる。」
玲は安心したように微笑む。
「うん。」
「待ってる。」
海斗は立ち上がる。
病室の扉へ向かって歩き始める。
その一歩一歩が、とても重い。
だが、不思議と迷いはなかった。
扉へ手を掛けた時だった。
「海斗君。」
玲が呼ぶ。
海斗は振り返る。
玲は少し照れながら笑っていた。
「これで。」
「本当に夫婦だね。」
海斗も微笑む。
「ああ。」
「まだ提出前だけどな。」
玲は小さく笑う。
「海斗君らしい。」
「そういうところ。」
「好き。」
その一言だけで十分だった。
海斗はもう一度だけ玲を見つめる。
十八歳になったばかりの少女。
病気と闘いながらも、未来を諦めなかった少女。
そして今日。
自分の妻になろうとしている人。
海斗は胸の前で婚姻届を大切に抱えた。
「行ってくる。」
「いってらっしゃい。」
玲は笑顔で手を振る。
その姿は少し弱々しく、それでも誰よりも美しかった。
病室を出ると、冬の朝日が長い廊下を照らしていた。
海斗は婚姻届を抱えたまま、ゆっくりと歩き始める。
その紙には、二人の名前が並んでいる。
それは数学の証明でも、研究成果でもない。
けれど海斗にとっては、人生で最も大切な「証明」だった。
誰にも証明できない未来。
どれほど一緒に過ごせるかも分からない時間。
それでも二人は、自らの意思で同じ道を歩くことを選んだ。
冬の柔らかな陽光は、その新しい一歩を静かに祝福するように、病院の廊下を優しく照らしていた。




