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君と契りて 言はで思ふ心の理  作者: はまちゃん
君と信じた不言論

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数の女神様④

「うん……嬉しい。」


玲は涙を流しながら、小さく笑った。


「こんな私だけど……よろしくお願いします。」


海斗は何も言わなかった。


ただ、その手をそっと包み込み、静かに頷く。


その一つの頷きだけで、玲には十分伝わっていた。


安心したように玲は目を閉じる。


張りつめていた糸が切れたように肩の力が抜け、呼吸は少しずつ穏やかになっていく。


やがて、小さな寝息が病室に響き始めた。


「おやすみ、玲。」


海斗は優しく髪を撫で、その寝顔をしばらく見つめていた。


長い間、病気と戦い続けてきた少女。


誰よりも明るく笑い、誰よりも前を向いて生きようとしてきた少女。


そんな玲が今だけは、何も恐れることなく眠っている。


その寝顔を見ていると、海斗の胸の奥に込み上げるものがあった。


(守りたい。)


その想いだけが、静かに心の中へ広がっていく。


病室の時計は静かに時を刻み続ける。


夕日が少しずつ窓の外へ沈み、部屋は茜色から藍色へと変わっていった。


海斗は玲の手を離さず、眠る彼女の傍らで静かに座り続けた。


その日、玲はほとんど目を覚ますことはなかった。



六日後。


十二月二十七日。


冷たい冬の朝だった。


吐く息が白く染まり、大学病院へ続く並木道には霜が降りている。


海斗は両手をコートのポケットへ入れながら歩いていた。


研究室へ向かう日と変わらないはずの道。


それなのに、足取りはどこか重かった。


病室の前で立ち止まる。


深呼吸を一つ。


ゆっくりと扉を開けた。


「……玲。」


返事はない。


玲は今日も眠っていた。


以前より頬は少し痩せ、肩も細く見える。


呼吸は浅く、胸がゆっくりと上下している。


ときおり苦しそうに眉を寄せることはあっても、目を覚ます様子はなかった。


ベッドサイドには、新しい花が飾られている。


数日前まで咲いていたタモトユリは役目を終え、淡い色のガーベラへと替えられていた。


看護師が気を利かせてくれたのだろう。


海斗は静かに椅子へ腰を下ろす。


「今日は調子が悪いのか。」


返事はない。


もちろん、眠っているのだから当たり前だ。


それでも海斗は、普段と変わらない声で話しかける。


「研究室でな。」


「海野が相変わらずうるさかった。」


小さく笑う。


「お前がいたら笑ってただろ。」


玲は眠ったままだ。


海斗はバッグから本を取り出した。


東京の書泉グランデで一緒に選んだ数学書だった。


玲のために買ったものと、同じシリーズ。


ページを開く。


整数論。


約数関数。


完全数。


友愛数。


そこには自分たちが歩んできた時間が、そのまま詰まっているようだった。


だが。


文字は目に入る。


それだけだった。


内容が頭へ入ってこない。


ページをめくっても、同じ場所を何度も読み返してしまう。


「駄目だな。」


海斗は本を閉じた。


研究なら集中できる。


証明なら何時間でも考えられる。


それなのに今は、一行すら読むことができない。


視線は自然と玲へ向く。


穏やかな寝顔。


規則正しい呼吸。


その姿を見ているだけで十分だった。


「誕生日まで、あと一日か……。」


独り言が病室へ溶けていく。


十二月二十八日。


玲が十八歳になる日。


二人で祝う約束をした日。


婚約者として迎える、最初の誕生日。


「目を覚ましたら。」


「ケーキでも買いに行こう。」


「無理なら病室で食べればいい。」


「プレゼントも渡したいしな。」


玲は眠ったままだ。


海斗は少しだけ笑った。


「聞こえてないか。」


静かな病室。


時計の秒針だけが時を刻む。


カチ。


カチ。


カチ。


その音を聞いているうちに、海斗の瞼は少しずつ重くなっていく。


ここ数日、研究室と病院を往復する生活が続いていた。


論文も。


研究も。


玲も。


どれも手放したくない。


その気持ちだけで走り続けてきた。


知らないうちに疲れは積み重なっていたのだろう。


椅子にもたれたまま、海斗はゆっくりと意識を手放した。


……


…………。


冷たい石の床。


松明の炎。


張り詰めた空気。


海斗はゆっくりと目を開ける。


「また……ここか。」


夢だと分かっていた。


それでも感触は現実そのものだった。


巨大な神殿。


何本もの白い大理石の柱が天井を支えている。


左右には白い法衣をまとった教団の者たち。


誰一人として声を発さない。


ただ、その視線だけが中央へ集まっている。


「罪人、セオドロス。」


低く響く声。


神殿全体を震わせるような威厳があった。


「罪人、アリスモス。」


海斗はゆっくりと顔を上げる。


最奥。


玉座。


そこには、一人の男が座っていた。


長い白髪。


深い眼差し。


威厳に満ちた姿。


ピタゴラス。


夢の中で何度も見た人物だった。


その瞬間。


海斗はすべてを思い出す。


ここでは自分は肥後海斗ではない。


セオドロス。


数学を愛し、真理を求め続けた若き学徒。


そして隣には。


縄で拘束されたアリスモスが立っていた。


白い衣は土埃で汚れ、細い手首には縄が食い込んでいる。


それでも彼女は泣いていなかった。


静かに微笑んでいた。


その笑顔が玲と重なる。


胸が締めつけられた。


「何か異議はあるか。」


ピタゴラスが問う。


静まり返る神殿。


海斗――セオドロスはゆっくりと頭を下げた。


「異議はありません。」


その声は驚くほど落ち着いていた。


友愛数。


二人だけの宝物。


教団へ隠した、美しい数。


幸い、石板も記録もすべて処分していた。


教団が知るのは「友愛数」という名だけ。


具体的な数列も。


証明も。


誰も知らない。


だから彼らは最後まで、その秘密を求めている。


「ですが。」


海斗は一歩前へ出た。


神殿中の視線が集まる。


「一つだけ願いがあります。」


ピタゴラスは静かに腕を組んだ。


「申してみよ。」


「友愛数のすべてをお教えします。」


ざわめきが広がる。


教団の者たちが顔を見合わせる。


「その代わり。」


海斗は続けた。


「この世界で、森羅万象よりも大切なものだけは、お救いください。」


ピタゴラスの瞳が細くなる。


「……何だ。」


神殿に沈黙が落ちた。


海斗は迷わず隣を見た。


涙をこらえるアリスモス。


その姿は、病室で眠る玲と重なって見えた。


そして、はっきりと言う。


「アリスモスです。」


その瞬間。


神殿が大きく揺れたようにざわめいた。


「愚かな!」


「数学者が数を捨てるだと!」


「正気ではない!」


非難の声が次々と飛ぶ。


だが海斗は、一歩も退かなかった。


ピタゴラスは静かに問いかける。


「数ではなく。」


「真理でもなく。」


「教団でもなく。」


「たった一人の人間を選ぶというのか。」


「はい。」


迷いはなかった。


「数は万物です。」


「だからこそ、美しい。」


「ですが。」


海斗は胸に手を当てる。


「その美しさは、誰かと分かち合って初めて、本当の意味を持ちます。」


神殿は静まり返る。


「アリスモスのいない世界で。」


「数学だけが残ったとしても。」


「私には、その世界に価値を見いだせません。」


「私が守りたいのは、数ではありません。」


「数を見て、一緒に『きれいだ』と笑ってくれる、この人です。」


その言葉を聞いた瞬間。


アリスモスの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「やめて……。」


震える声。


「やめて、セオドロス。」


「あなたは数学を捨てちゃ駄目。」


「私なんかのために……。」


海斗は静かに微笑む。


「違う。」


「数学は捨てない。」


アリスモスが顔を上げる。


「数学を愛しているからこそ分かった。」


「証明は、一人では完成しない。」


「誰かが読み。」


「誰かが理解し。」


「誰かが受け継ぐ。」


「数学は、人がいるから数学なんだ。」


涙が止まらないアリスモスへ向かって、海斗は最後に一度だけ頷いた。


その眼差しには、何一つ後悔はなかった。


そして神殿の奥で。


ピタゴラスが、初めて小さく目を閉じた。

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