共に導きたい
玲はしばらく何も言えなかった。
ただ、海斗の手を握ったまま、静かに涙を流していた。
病室の窓から差し込む夕日が、二人の間を淡く照らしている。
以前なら、玲はきっと笑っていただろう。
「海斗君って、本当に変なところで真面目だよね。」
「数学者なのに、突然そんなこと言うんだ。」
そんなふうに、いつものように冗談を言っていたかもしれない。
でも今の玲には、そんな余裕はなかった。
嬉しい。
怖い。
申し訳ない。
いくつもの感情が胸の中で絡み合っていた。
「……海斗君。」
ようやく出た声は、小さく震えていた。
「ん?」
海斗は優しく返事をする。
玲は視線を落とした。
「私ね。」
「ずっと……怖かった。」
海斗は黙って聞く。
「病気になってから。」
「何かを失うことばっかり考えてた。」
玲の指が、海斗の手を少し強く握る。
「学校に行けなくなって。」
「友達と会う時間が減って。」
「やりたいことも、どんどん諦めるようになって。」
「旅行も……本当は怖かった。」
海斗は驚いたように玲を見る。
「東京旅行?」
玲は小さく頷く。
「うん。」
「楽しみだった。」
「海斗君と一緒に行けることが、本当に嬉しかった。」
「でもね。」
一瞬、言葉が詰まる。
「帰って来られなかったらどうしようって。」
「途中で倒れたらどうしようって。」
「ずっと考えてた。」
海斗は胸が痛む。
あの日、玲は笑顔だった。
新幹線ではしゃいで。
神保町の本屋で目を輝かせて。
スカイツリーから東京の街を見下ろしていた。
その裏側で、そんな不安を抱えていたなんて。
海斗は知らなかった。
「でも。」
玲は涙を拭きながら、少しだけ笑った。
「楽しかった。」
「今までで一番。」
海斗は静かに頷く。
「俺もだ。」
「だから。」
玲は海斗を見る。
「だからこそ……。」
「海斗君の人生を、私で止めたくない。」
その言葉に、海斗は少しだけ目を細めた。
「止まってなんかいない。」
玲は首を横に振る。
「でも……。」
「私がいなくなったあと。」
「海斗君は一人になる。」
「私との思い出ばっかり残って。」
「きっと苦しくなる。」
海斗はしばらく黙った。
そして、ゆっくり口を開く。
「玲。」
「数学にはな。」
玲は少し不思議そうに見る。
「保存されるものがある。」
「証明された定理。」
「発見された数。」
「一度見つかったものは、時間が経っても消えない。」
海斗は窓の外を見る。
「昔の数学者が残したものを、今の俺たちは受け取っている。」
「何百年経っても。」
「その人が生きた証は残る。」
玲は静かに聞いていた。
「俺にとって。」
「玲と過ごした時間も同じだ。」
「消えない。」
「苦しいだけの記憶になんてしない。」
「図書館で初めて会ったことも。」
「交互完全数を見つけたことも。」
「東京へ行ったことも。」
「全部、俺の人生を変えた大切な証明になる。」
玲の目から、また涙が落ちる。
「……証明。」
玲は小さく呟く。
「海斗君らしいね。」
海斗は少し笑った。
「そうかもしれない。」
玲も涙を浮かべながら笑う。
「でも。」
「一つだけお願いしてもいい?」
「何だ?」
玲は少し迷ってから言った。
「私がいなくなっても。」
「ちゃんと幸せになって。」
その言葉に、海斗の胸が締めつけられる。
「玲。」
「それは……。」
「約束して。」
玲の声は弱かった。
でも、その瞳は真剣だった。
「海斗君には。」
「私と出会ったせいで、不幸になってほしくない。」
海斗はしばらく玲を見つめた。
そして、優しく微笑む。
「分かった。」
玲の表情が少し緩む。
「約束する。」
「俺は幸せになる。」
「玲と出会ったことを、後悔しないために。」
玲は静かに頷いた。
「……ありがとう。」
しばらく二人は何も話さなかった。
ただ、手を握っていた。
その沈黙は、不思議と苦しくなかった。
以前の海斗なら、沈黙は避けるものだった。
何か意味のある言葉を探していた。
だが今は違う。
言葉よりも大切な時間があることを知っていた。
しばらくして、玲が小さく笑う。
「ねえ。」
「ん?」
「結婚って。」
「指輪とか必要なのかな。」
海斗は少し驚いた。
「……考えてなかった。」
「数学者なのに?」
玲が少しだけいつもの調子で笑う。
「人生最大の問題なのに、準備不足だね。」
海斗も笑った。
「難問すぎるからな。」
「証明できない。」
玲は嬉しそうに笑う。
「じゃあ。」
「一緒に考えよう。」
海斗は頷いた。
「ああ。」
その瞬間。
海斗には分かった。
自分が求めていた答えは、最初から一つだったのだと。
長い証明の途中で迷っても。
未来が見えなくても。
最後に残るものは、数式ではなく、人との繋がりなのだと。
夕日が沈み、病室が少しずつ暗くなる。
それでも二人の手は、離れなかった。
三か月という時間。
それは短い。
あまりにも短い。
けれど。
二人にとっては、これから始まる新しい証明の第一行だった。




