不言論を信じる者の覚悟
玲の瞳が大きく揺れた。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
何を言われたのか理解できないような表情を浮かべる。
「……え?」
小さな声が漏れる。
海斗は、握った玲の手を離さなかった。
「聞こえなかったか?」
「もう一度言う。」
海斗は玲の目をまっすぐ見つめる。
迷いはなかった。
恐れもなかった。
ただ、一つだけ確かな気持ちがあった。
「玲。」
「結婚しよう。」
玲の唇が震える。
その瞳には、驚きと戸惑い、そして信じられないという思いが浮かんでいた。
次の瞬間。
ぽろり、と涙が頬を伝う。
一粒。
また一粒。
止めようとしても止まらない。
「海斗君……。」
かすれた声が病室に溶けていく。
「……どうして?」
海斗は少しだけ笑った。
その笑顔は穏やかで、どこまでも優しかった。
「好きだからだ。」
短い言葉だった。
けれど、それ以上の説明はいらなかった。
玲は首を横に振る。
「私は……。」
言葉が続かない。
胸の奥に押し込めてきた思いが、一気にあふれそうになっていた。
「私は……あと三か月しか、生きられないかもしれないんだよ。」
「分かってる。」
海斗はすぐに答えた。
「海斗君の人生を……私が縛ることになる。」
「そんなことない。」
「私と結婚したら。」
「すぐ未亡人……じゃない、未亡人じゃなくて……。」
涙のせいで言葉がまとまらない。
「すぐ一人になっちゃう。」
「そんな人生、嫌だよ。」
海斗は静かに首を振る。
「俺が決めた。」
「玲と一緒にいたい。」
「それだけだ。」
玲は唇を噛んだ。
「でも……。」
「私、これからもっと迷惑かける。」
「病院にいる時間も増える。」
「歩けなくなるかもしれない。」
「声も出なくなるかもしれない。」
「海斗君の研究だって。」
「全部、邪魔しちゃう。」
そこまで言ったところで、海斗は少しだけ笑った。
「玲ちゃん。」
「……ん。」
「俺は研究を捨てるつもりはない。」
玲は驚いて顔を上げる。
「でも。」
海斗は続ける。
「研究だけが人生じゃないって。」
「玲ちゃんが教えてくれた。」
玲は黙った。
海斗は窓の外へ視線を向ける。
秋の空は高く澄み、雲がゆっくり流れていた。
「昔の俺は。」
「証明を書くことだけ考えてた。」
「新しい数を見つけること。」
「論文を書くこと。」
「それだけできれば十分だと思ってた。」
少しだけ笑う。
「研究室で夜を明かしても平気だった。」
「休日も大学へ来て。」
「人と話すより、数字を眺めている方が楽だった。」
玲は静かに聞いていた。
「でも。」
「玲ちゃんと出会って。」
「全部変わった。」
「図書館で。」
「『完全数って単純だよね』って笑ったあの日。」
「交互完全数を一緒に見つけた日。」
「病室でノートを広げた日。」
「東京旅行で神保町を歩いた日。」
「本を選んで。」
「笑って。」
「薬を飲む姿を見て。」
「屋上で風に当たりながら空を見上げて。」
一つ一つ思い返すように話す。
「その全部が。」
「俺の人生だった。」
玲の涙は止まらない。
海斗は優しく続ける。
「どれだけ美しい定理を書いても。」
「どれだけ世界に残る発見をしても。」
「それを。」
「『すごいね』って笑ってくれる人がいなかったら。」
「俺にとって、その喜びは半分になる。」
玲は両手で顔を覆った。
「……ずるい。」
小さく笑いながら泣く。
「そんなこと言われたら。」
「断れないじゃん。」
海斗も少し笑う。
「断ってもいい。」
玲は驚いたように顔を上げた。
「え?」
「俺は。」
「玲ちゃんに義務で結婚してほしいわけじゃない。」
「病気だから。」
「かわいそうだから。」
「そんな理由なら。」
「俺は絶対に言わない。」
玲は息をのむ。
海斗は真っすぐ言葉を続けた。
「俺は。」
「玲ちゃんだから、一緒にいたい。」
「病気があるからじゃない。」
「余命があるからでもない。」
「図書館で初めて会ったあの日から。」
「玲ちゃんという人を好きになった。」
病室が静まり返る。
聞こえるのは心電図の電子音だけだった。
玲は涙を拭きながら笑う。
「私ね。」
「本当は。」
「海斗君に会った時から怖かった。」
「楽しい時間が増えるほど。」
「失うのが怖かった。」
「こんなに幸せになったら。」
「神様に取り上げられちゃうんじゃないかって。」
海斗は何も言わない。
玲の言葉を、そのまま受け止める。
「だから。」
「海斗君には。」
「普通の未来を歩いてほしかった。」
「元気な人と恋をして。」
「結婚して。」
「子どもが生まれて。」
「おじいちゃんになって。」
「そんな未来を。」
「歩いてほしかった。」
海斗は静かに笑った。
「俺が欲しい未来は。」
「俺が決める。」
玲は涙で濡れた瞳を向ける。
「……本当に?」
「ああ。」
「後悔しない?」
海斗は少しだけ考えた。
そして、はっきりと言う。
「後悔する日もあるかもしれない。」
玲の表情が曇る。
「苦しくて。」
「泣く日もあると思う。」
「怖くなる日もある。」
「でも。」
海斗は玲の手を包み込む。
「玲ちゃんと出会わなかった人生の方が。」
「俺は、もっと後悔する。」
玲は声を上げて泣いた。
堪えていた涙があふれ続ける。
海斗ももう耐えられなかった。
目尻から、一筋だけ涙がこぼれる。
玲はそれを見て、小さく笑った。
「初めて見た。」
「海斗君が泣いてる。」
海斗は照れくさそうに笑う。
「数学じゃ泣かないからな。」
「そうだね。」
玲も笑う。
「海斗君って。」
「本当に数学者なの?」
「どういう意味だ。」
「だって。」
玲は涙を流しながら微笑んだ。
「答えが出ないことばっかり選ぶ。」
海斗も笑った。
「数学者だからだ。」
「答えが分からないから。」
「考え続ける。」
「証明できるまで諦めない。」
玲は優しく目を細めた。
「じゃあ。」
「私との未来も?」
海斗は迷わず頷く。
「ああ。」
「最後まで考え続ける。」
玲はゆっくり目を閉じた。
そして深く息を吸う。
もう一度、海斗を見る。
そこには病気を見る人ではなく、自分という一人の女性を見つめる人がいた。
玲は涙を拭き、精いっぱいの笑顔を浮かべる。
「……よろしくお願いします。」
その返事は小さかった。
けれど、誰よりも力強かった。
海斗は玲の手をそっと握り返した。
「こちらこそ。」
二人はしばらく言葉を交わさなかった。
夕日が病室を茜色に染める。
その光は、二人の重ねた手を優しく包み込んでいた。
限られた時間。
証明できない未来。
答えの見えない明日。
それでも二人は、恐れではなく希望を選んだ。
数学者が未知の定理へ挑むように。
少女が明日を信じようとするように。
二人は同じ未来を見つめながら、静かに歩き始めた。
それは、人生という長い証明の中で、誰にも書き換えることのできない、二人だけの最初の一行だった。




