眠りの姫
それから二週間が過ぎた。
季節は少しずつ、確かに次へ進んでいた。
夏の名残を残していた空気も、朝晩には少しだけ冷たさを含むようになっている。
大学の木々も、わずかに色を変え始めていた。
けれど、海斗にとって季節の変化を感じる余裕は、以前ほどなかった。
病室へ向かう足取りは、いつの間にか少しずつ重くなっていた。
理由は分かっている。
会いたい。
玲の顔を見たい。
声を聞きたい。
それでも、扉を開ける瞬間だけは、いつも小さな不安が胸をよぎる。
今日も、いつものように病院の廊下を歩く。
白い壁。
消毒液の匂い。
規則正しく響く足音。
何度も通ったはずの道なのに、最近は少し違って見えた。
海斗は病室の前で立ち止まる。
一度だけ深呼吸をしてから、ノックをした。
コンコン。
「入るぞ。」
「……うん。」
返ってきた声は聞こえた。
けれど。
いつものような明るさはなかった。
「海斗君!」
そう言って笑う声ではない。
静かな返事だった。
海斗はゆっくりと扉を開ける。
「玲ちゃん。」
「来てくれたんだね。」
玲はベッドの上にいた。
窓の外を見ているのか。
それとも、ただぼんやりしているのか。
少し遠くを見るような表情をしていた。
「今日は調子どうだ?」
海斗が尋ねる。
玲は少し考えてから、小さく笑う。
「まあまあかな。」
その笑顔は、以前と同じ形だった。
けれど、どこか弱かった。
海斗は椅子を引いて座る。
最近のことを思い出す。
少し前までは。
海斗が病室へ入ると、玲はすぐに顔を上げていた。
「今日は何持ってきたの?」
「新しい数学の話?」
「また難しいこと考えてるんでしょ?」
そんな言葉がすぐに飛んできた。
交互完全数の話。
交互友愛数の話。
証明ができた時の喜び。
東京旅行で見た景色。
病室でも、図書館でも、二人の時間はいつも何かで満たされていた。
しかし。
ここ二週間ほど。
少しずつ変化があった。
眠っている時間が増えた。
会話の途中で、玲が目を閉じることが増えた。
「ごめんね。」
「ちょっと眠いかも。」
そう言うことが増えた。
最初は疲れているだけだと思っていた。
入院生活は大変なのだろう。
検査もある。
治療もある。
だから疲れるのは当然だ。
そう思おうとしていた。
でも。
海斗には分かっていた。
何かが変わっている。
「最近、退院の話は?」
海斗が聞くと、玲は少し間を置いた。
「うん。」
「まだ難しそう。」
「そうか。」
短い返事しかできなかった。
本当なら。
「大丈夫だ。」
「また一緒に出かけよう。」
そう言いたかった。
けれど。
根拠のない希望を言うことが、本当に優しさなのか分からなかった。
玲は窓の外を見たまま、小さく呟く。
「ねえ、海斗君。」
「ん?」
「最近さ。」
「眠ってる時間、増えた気がするでしょ。」
海斗の手が止まる。
否定しようとした。
「そんなことない。」
そう言おうとした。
でも。
玲の目を見た瞬間、言葉が出なかった。
「……ああ。」
正直に答える。
玲は少し寂しそうに笑った。
「やっぱり分かるよね。」
「自分でも分かるんだ。」
「前より、起きていられる時間が短くなってる。」
その言葉が、静かな病室に落ちた。
海斗は何も言えなかった。
数学なら。
どんな複雑な問題でも考えることができる。
条件を整理する。
仮定を置く。
反例を探す。
証明を組み立てる。
でも。
今、目の前にある現実には。
式も。
定理も。
答えもない。
「医者は何て言ってる。」
ようやく出した言葉だった。
玲は少し首を傾ける。
「検査中だって。」
「詳しいことはまだ分からないって。」
「でも。」
玲は少し笑う。
「海斗君がそんな顔すると思わなかった。」
「どんな顔だ。」
「すごく難しい問題を解いてる時の顔。」
海斗は思わず苦笑する。
「そんな顔してるか?」
「してるよ。」
玲は少し楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、海斗は少しだけ安心する。
まだ玲はここにいる。
いつものように話してくれる。
だから大丈夫。
そう思いたかった。
玲は天井を見上げる。
「でもね。」
「怖くないって言ったら嘘かも。」
海斗は黙って聞く。
「寝る時にさ。」
「次に起きた時も、ちゃんと朝だったらいいなって思うことがある。」
その言葉に、海斗の胸が締めつけられた。
玲は慌てたように笑う。
「あ、ごめん。」
「暗い話しちゃった。」
「でも。」
海斗は静かに言った。
「話していい。」
玲が顔を上げる。
「怖いなら怖いって言えばいい。」
「無理に笑わなくていい。」
少しの沈黙。
玲は目を細めた。
「海斗君。」
「優しくなったね。」
「前はもっと数学のことしか考えてなかったのに。」
海斗は少し笑う。
「玲ちゃんのせいだ。」
「え?」
「数学以外のことも考えるようになった。」
玲は嬉しそうに笑った。
「そっか。」
その後、海斗は持ってきたノートを開いた。
けれど。
そこに書かれた数式は、いつものようには見えなかった。
交互友愛数の式。
証明の途中の計算。
まだ調べたいこと。
全部そこにある。
なのに。
今は遠く感じた。
玲が小さく声を出す。
「海斗君。」
「ん?」
「今日も来てくれてありがとう。」
いつも聞いていた言葉。
何度も聞いた言葉。
それなのに。
今日はなぜか胸に残った。
海斗はノートを閉じる。
「当たり前だろ。」
それしか言えなかった。
玲は安心したように微笑む。
「そっか。」
そして。
ゆっくりと目を閉じた。
「ちょっとだけ……眠っていい?」
海斗はすぐに頷いた。
「ああ。」
「寝ろ。」
玲は小さく笑う。
「うん。」
やがて呼吸が静かになる。
海斗は椅子に座ったまま、玲の寝顔を見つめていた。
窓から差し込む光。
白いシーツ。
静かな機械音。
すべてが穏やかだった。
それなのに。
海斗の胸の奥には、言葉にできない不安が残っていた。
机の上のノートを見る。
そこには無数の数字が並んでいる。
証明できた定理。
発見した数。
これから証明したい問題。
数学なら、いつか答えへ辿り着ける。
しかし。
人生には。
どうしても答えが見つからない問いがある。
海斗はそっとペンを握った。
そして、ノートの端に小さく書く。
「また明日も来る。」
それは数学の式ではなかった。
証明もできない。
保証もない。
ただ、自分が守りたいと思った約束だった。
海斗は静かに玲の眠る姿を見つめ続けた。




