花言葉 純白の愛
九月も半ばを迎えた。
夏の暑さは少しずつ薄れ、朝晩には秋の気配を感じるようになっていた。
大学の中庭では、少し黄色くなり始めた葉が風に揺れている。
季節は確実に変わっていた。
けれど。
海斗の日常だけは、変わらないものが一つあった。
昼休みになると、必ず図書館へ向かうこと。
そして。
玲と数学の話をすること。
それが、いつの間にか海斗にとって当たり前になっていた。
その日も。
海斗はいつもの席へ座った。
机の上には、交互完全数について書かれたノート。
隣には、玲が以前選んだ数学の入門書。
「今日は、この部分を整理しておくか。」
海斗はペンを走らせる。
交互完全数の条件。
約数の構造。
偶数と奇数の関係。
まだ分からないことは多い。
だが、不思議と焦りはなかった。
以前なら、答えが出ないことに苛立っていた。
何日も何週間も進展がないと、不安になった。
しかし今は違う。
この時間そのものが、大切だと思えるようになっていた。
「玲ちゃんに説明するなら……。」
そう考えながら、できるだけ分かりやすい形に式を書き直す。
難しい証明を、誰かに伝えるために簡単にする。
それもまた、数学の大切な一面だった。
海斗は時計を見る。
昼休み開始から十分。
まだ来ない。
「珍しいな。」
玲はいつも少し早めに来る。
図書館の入口から顔を出して、
「海斗君!」
と明るく声をかけるのがいつもの流れだった。
二十分。
まだ来ない。
海斗は少しだけ時計を見る回数が増えていた。
三十分。
昼休み終了のチャイムが鳴る。
図書館にいた学生たちが、それぞれの場所へ戻っていく。
海斗は静かにノートを閉じた。
「……今日は来られなかったのか。」
理由は分からない。
用事かもしれない。
体調が悪かったのかもしれない。
そう思おうとする。
けれど。
胸の奥に、小さな不安が残った。
その日の夜。
研究室。
周囲には誰もいない。
パソコンの画面には論文の資料。
机の上には計算途中のノート。
いつもなら集中できる時間だった。
しかし。
今日は何度もスマートフォンへ視線が向いてしまう。
「……気にしすぎだ。」
自分に言い聞かせる。
その時だった。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
送り主。
浜辺玲。
海斗はすぐに開いた。
そこには短い文章が並んでいた。
『急だけど、今日からまた入院になっちゃった。』
『心配しないでね! 念のためだから!』
その文字を見た瞬間。
胸の奥が冷たくなる。
「……また。」
玲は明るく書いている。
心配させないように。
きっと笑顔で送ったのだろう。
でも。
海斗には分かった。
本当は、不安もあるはずだ。
病院という場所が。
検査という言葉が。
どれだけ心を締め付けるものなのか。
海斗はすぐに返信を打つ。
迷うことはなかった。
『明日、行く。』
送信。
たったそれだけ。
けれど、その言葉には自分でも気づかないほど強い決意が込められていた。
翌日。
講義が終わると、海斗はすぐに大学病院へ向かった。
途中。
何か持っていくべきだろうか、と考えた。
本?
数学書?
いつものノート?
どれも違う気がした。
玲が今欲しいものは、きっと知識ではない。
ただ。
少しでも安心できるもの。
そう思った。
病院へ向かう道の途中。
海斗は一軒の花屋の前で足を止めた。
「……花か。」
理由は分からない。
ただ、手ぶらで行くことに少し抵抗があった。
店の扉を開ける。
店内には色とりどりの花が並んでいた。
「いらっしゃいませ。」
声を掛けてきたのは、四十代ほどの女性店員だった。
「あら。」
「初めて見る顔ね。」
「何かお探しかな?」
海斗は少し戸惑いながら答える。
「あの……花を探しています。」
店員は優しく笑った。
「贈り物?」
「はい。」
「どんな方へ?」
その質問に。
海斗は一瞬、言葉に詰まった。
どんな人。
そう聞かれると、なぜかすぐに答えが浮かんだ。
「……明るい人です。」
店員は静かに聞いている。
「それから。」
海斗は少し考える。
「どんな時でも、前を向こうとする人です。」
店員の表情が柔らかくなる。
「なるほどね。」
そう言って、店の奥へ向かう。
しばらくして戻ってきた手には、一束の白い花があった。
「これなんてどうかしら。」
海斗は花を見る。
白く、美しく。
どこか玲の雰囲気に似ていた。
「これは?」
「タモトユリ。」
店員は説明する。
「真っ直ぐ上を向いて咲く花なの。」
「強くて、でも優しい印象があるでしょう?」
海斗はその花を見つめた。
玲みたいだと思った。
病気と向き合いながら。
怖さを抱えながら。
それでも笑っていた。
「……これにします。」
会計を済ませ、店を出ようとした時。
店員がふと思い出したように声をかける。
「あ、そうだ。」
海斗が振り返る。
「タモトユリの花言葉。」
店員は少しいたずらっぽく笑った。
「知ってる?」
海斗は首を横に振る。
女性は優しく告げた。
「『純白の愛』よ。」
「大切な人に渡してあげてね。」
海斗は少しだけ顔を赤くした。
「……ありがとうございます。」
小さく頭を下げ、病院へ向かった。
そして現在。
病室の扉を開く。
「海斗君!」
玲の明るい声が響いた。
ベッドの上の玲は、いつもの笑顔で手を振っている。
その姿を見て、海斗はようやく安心した。
「ああ。」
「来たよ。」
「大丈夫なのか?」
玲は笑って頷く。
「うん。」
「念のためだって。」
「検査が終われば、また帰れると思う。」
「よかった。」
海斗の本音が、そのまま漏れた。
玲は少し嬉しそうに笑う。
「心配してくれたんだ。」
「当たり前だろ。」
その言葉のあと。
海斗は後ろに隠していたものを差し出す。
「これ。」
玲は目を丸くした。
「え……?」
受け取った花束を見る。
「ユリ……!」
表情が一瞬で明るくなる。
「綺麗……。」
玲はそっと花びらへ触れる。
「この花な。」
海斗が言う。
「タモトユリっていうらしい。」
「太陽に向かって真っ直ぐ咲く花なんだって。」
玲は微笑んだ。
「私みたい?」
「……そうかもしれない。」
海斗が答えると、玲は少し照れたように笑う。
しばらく花を見つめたあと。
玲が尋ねる。
「でも。」
「なんで急に花なんて?」
海斗は少し困ったように笑った。
「色々あってな。」
玲はその表情だけで察した。
きっと選ぶ時も。
自分のことを考えてくれていたのだと。
「そっか。」
玲は花束を胸に抱く。
「ありがとう。」
「すごく嬉しい。」
病室に、白いユリの優しい香りが広がる。
海斗はその花を見つめながら思った。
数学の証明には、必ず答えがある。
しかし。
人の気持ちには、数式では表せないものがある。
それでも。
玲と過ごす時間だけは。
どんな証明よりも大切なものになっていた。
窓の外では、秋の風が静かに吹いていた。




