十三夜
九月。
長かった夏休みが終わり、大学には再び学生たちの活気が戻ってきた。
朝夕には、ほんの少しだけ涼しい風が吹き始めている。
青空はまだ夏の名残を残しているものの、雲の形や空気の匂いは確かに秋へと向かっていた。
大学構内では、夏休み中に会えなかった友人同士が近況を話し合い、新学期の講義へ向かって足早に歩いている。
そんな賑わいの中でも、図書館だけは変わらず静かだった。
昼休み。
海斗はいつもの窓際の席に座り、一冊の分厚い専門書を開いていた。
表紙には『Algebraic Number Theory』と書かれている。
日本語の参考書ではなく、英語で書かれた大学院向けの専門書だ。
ページには定理、補題、証明が隙間なく並び、余白には海斗自身が書き込んだ数式やメモがびっしりと残されている。
ペンを走らせながら、小さく呟く。
「この補題を使えば……。」
ノートへ式を書く。
しばらく考え込み、首を横に振る。
「いや、まだ足りないか。」
証明の途中で手が止まる。
ここ数週間、新しく考えている問題がどうしても最後までまとまらない。
あと一歩。
本当にあと一歩なのに、その最後の扉だけが開かない。
海斗は目を閉じ、小さく息を吐いた。
すると。
静かな図書館に、聞き慣れた足音が近づいてきた。
コツ、コツ、と軽やかなリズム。
「海斗君。」
優しい声が聞こえる。
海斗が顔を上げると、そこには制服姿の玲が立っていた。
白いブラウスに紺色のスカート。
肩まで伸びた髪を風に揺らしながら、いつものように明るく笑っている。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
海斗も自然と笑顔になる。
玲は椅子を引き、向かい側へ腰を下ろした。
「あー、今日も難しそうな本読んでる。」
机の上の専門書を覗き込みながら苦笑する。
「今日は整数論。」
「整数論?」
「整数の性質を研究する分野だ。」
「素数とか?」
「そう。」
「あと約数とか合同式とか、いろいろ。」
玲はページを覗き込む。
そこには英語の文章と数式が延々と続いていた。
「……。」
数秒眺めたあと、小さく首を振る。
「うん、何も分からない。」
海斗は思わず笑った。
「玲ちゃんにはまだ少し早いかな。」
「むー。」
玲は頬を膨らませる。
「最近ちゃんと勉強してるのに。」
「知ってる。」
海斗は微笑みながら頷いた。
「この前送ってきた問題。」
「全部正解だった。」
玲の表情がぱっと明るくなる。
「本当?」
「ああ。」
「途中式まできちんと書けてた。」
「えへへ。」
照れくさそうに笑う玲。
「実はね。」
バッグをごそごそ探り、一冊の大学ノートを取り出した。
「これ。」
「この前教えてもらった証明、自分でも書いてみたの。」
海斗はノートを受け取る。
丁寧な字で書かれた証明。
途中には何度も消しゴムを使った跡があり、考え直した様子が伝わってくる。
海斗は一行ずつ読み進めた。
玲は緊張した様子で、その様子を見守っている。
「……。」
静かな時間が流れる。
数分後。
海斗はノートを閉じた。
「すごいな。」
玲が目を丸くする。
「え?」
「ここまで一人で考えたのか。」
「う、うん。」
玲は少し恥ずかしそうに笑う。
「分からないところは参考書で調べた。」
「あと、図書館で似た問題も探した。」
海斗は感心して頷いた。
「努力した跡がよく分かる。」
「本当?」
「ああ。」
「考え方はちゃんと理解できてる。」
玲はほっと胸をなで下ろした。
「よかったぁ。」
海斗は赤ペンを取り出し、数か所だけ印をつける。
「ここ。」
「符号が一つ逆になってる。」
「あ、本当だ。」
「あと、この式変形。」
「一行飛ばしてるから、もう一段書いた方がいい。」
玲は真剣な表情でメモを取っていく。
「なるほど。」
「先生みたい。」
海斗は少し笑った。
「研究室でも後輩には教えてるからな。」
「じゃあ。」
玲は悪戯っぽく笑う。
「私は一番弟子?」
海斗は腕を組んで考えるふりをした。
「うーん。」
「まだ弟子というほどじゃない。」
玲は頬を膨らませる。
「えー!」
「でも。」
海斗は笑った。
「このまま頑張れば、一番弟子になれる。」
玲は目を輝かせた。
「本当に?」
「ああ。」
「まずは高校数学を完璧にして。」
「その次に大学数学。」
「さらにその先。」
玲は勢いよく頷く。
「頑張る!」
「海斗君みたいな数学者になる!」
その瞬間。
思わず立ち上がり、小さくガッツポーズをした。
「あっ!」
すぐ近くにいた司書と目が合う。
司書は口には出さず、優しく人差し指を唇へ当てた。
「静かに。」
そんな合図だった。
玲は慌てて頭を下げる。
「ご、ごめんなさい……。」
席へ座り直し、小さく縮こまる。
その姿がおかしくて、海斗は肩を震わせた。
「ふっ……。」
「笑わないでよ。」
玲も笑いをこらえている。
「だって。」
「嬉しかったんだもん。」
「分かるけど。」
「図書館だからな。」
「うん……。」
それでも二人とも笑いが止まらない。
声を出さないよう必死に我慢しながら肩だけが震える。
その様子を見て、司書も少しだけ口元を緩めていた。
ようやく落ち着くと、玲は机に肘をつき、小さくため息をつく。
「海斗君と話してるとさ。」
「ん?」
「数学って難しいけど、面白いなって思える。」
海斗は少し驚いた。
「そうか。」
「うん。」
玲は窓の外を見ながら続ける。
「前は公式を覚えるだけだった。」
「でも今は。」
「どうしてそうなるのかな、とか。」
「昔の人はどうやって見つけたんだろう、とか。」
「そういうことを考えるようになった。」
海斗は嬉しかった。
数学を教えることはあっても、「数学を見る目」が変わったと言われたのは初めてだった。
「玲ちゃん。」
「なに?」
「それが一番大事なんだ。」
「え?」
「数学は答えを覚える学問じゃない。」
「どうしてそうなるのかを考え続ける学問なんだ。」
玲は静かに頷く。
「だから。」
「分からないことがあるのも悪くない。」
「むしろ、その『分からない』から研究は始まる。」
玲はにっこり笑った。
「じゃあ。」
「私も少しだけ研究者に近づいた?」
海斗は優しく笑う。
「もう入り口には立ってる。」
その一言だけで、玲は花が咲くような笑顔になった。
窓の外では、風が木々を優しく揺らしている。
セミの声はいつの間にか少なくなり、代わりに秋の虫たちの音色が聞こえ始めていた。
季節は少しずつ変わっていく。
大学院での研究も、一歩ずつ前へ進んでいる。
そして海斗自身も、少しずつ変わっていた。
以前なら、昼休みも専門書だけを読み続けていただろう。
誰とも話さず、数式だけを追いかけていた。
しかし今は違う。
玲が来る時間を、どこか楽しみにしている自分がいる。
数学の話をして。
笑って。
時には真面目に考え込んで。
そんな何気ない時間が、一日の中で最も穏やかな時間になっていた。
海斗は専門書を閉じ、玲が大切そうに抱えるノートへ目を向ける。
そこには赤ペンで直した跡が残っていた。
玲はそのページを何度も見返しながら、嬉しそうに微笑んでいる。
その姿を見ているだけで、不思議と研究への意欲も湧いてくる。
数学は、一人で追いかけるものだと思っていた。
誰にも理解されなくても、自分だけが証明できればいいと思っていた。
けれど今は違う。
考えたことを伝えたい相手がいる。
新しい発見を一番最初に話したい人がいる。
その存在が、海斗の研究を前へ進める力になっていた。
そんな穏やかな昼休みが、これからもずっと続いていく。
海斗は、この時はまだ疑いもせずに、そう信じていた。




