表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君と契りて 言はで思ふ心の理  作者: はまちゃん
君と信じた不言論

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/42

旅行の残響

旅行から数日後。


海斗は、いつものように大学院の研究室へ向かっていた。


朝のキャンパスは、夏の陽射しに包まれている。


学生たちの話し声。


講義へ向かう足音。


研究棟独特の静かな空気。


何も変わらない日常。


……のはずだった。


しかし、海斗自身の中では何かが少しだけ変わっていた。


以前なら、研究室へ向かう道では今日の研究内容や証明のことしか考えていなかった。


だが今は違う。


昨日玲が読んでいた数学書。


旅行中に見せた笑顔。


「また一緒に行こうね」と言った声。


そんな何気ない記憶が、ふとした瞬間に蘇る。


海斗は小さく笑った。


「……集中しないとな。」


そう呟きながら、研究棟の扉を開く。


すると――。


「聞いたぜ!」


入った瞬間、聞き慣れた声が響いた。


「……何をだ。」


海斗が顔を上げると、そこには腕を組んで仁王立ちする海野がいた。


その表情は、研究の話をしている時よりも明らかに楽しそうだった。


「LJKと東京旅行!」


「しかも二泊三日!」


「羨ましいぜ!」


「……二泊三日だ。」


海斗は淡々と訂正する。


海野は一瞬黙った。


そして大きくため息をつく。


「そこじゃねえよ!」


研究室にいた数人の学生が、何事かとこちらを見る。


海野は構わず続けた。


「俺は今、人生最大級の衝撃を受けている。」


「高校時代のお前を知っている俺からすると、信じられないんだよ。」


海斗は椅子に荷物を置きながら聞き流す。


「大げさだ。」


「大げさじゃない!」


海野は机に手を置く。


「昔のお前を覚えているか?」


「女子から話しかけられただけで、顔を赤くして逃げていた肥後海斗だぞ?」


「そんなことはない。」


「ある。」


即答だった。


「文化祭で女子に写真撮ってくださいって言われた時。」


「お前、五秒くらい固まったあと、『証明の途中だから』って逃げたからな。」


海斗は視線を逸らした。


「……研究を優先しただけだ。」


「それを世間では逃げたと言う。」


研究室から小さな笑い声が漏れる。


海斗は苦笑した。


「それで?」


「何が聞きたいんだ。」


海野はニヤリと笑う。


「東京で告白したのか?」


「してない。」


即答。


「早いな。」


「事実だからな。」


「じゃあ手は?」


「手?」


「繋いだのか?」


海斗は少し考える。


東京の人混み。


浅草の仲見世。


駅の中。


迷わないように握った玲の手。


「ああ。」


海野の目が輝く。


「おお!」


「人混みではぐれないようにしただけだ。」


「……。」


海野はしばらく黙った。


そして首を振る。


「惜しい。」


「何がだ。」


「その状況で恋愛イベントが発生しないとは。」


「そもそも恋愛イベントではない。」


海斗は真顔で答える。


「玲ちゃんは大切な友人だ。」


その言葉を聞いた瞬間。


海野の表情が少しだけ変わった。


からかうような笑顔ではなく、優しい表情になる。


「……そっか。」


「大切な友人か。」


「ああ。」


海斗は頷いた。


海野は椅子へ座りながら、少し遠くを見る。


「でもさ。」


「ん?」


「お前、変わったよな。」


海斗は眉をひそめる。


「そうか?」


「ああ。」


海野は頷く。


「昔のお前は、数学しか見てなかった。」


「新しい定理を見つけること。」


「証明すること。」


「それだけだった。」


海斗は黙って聞いていた。


「でも今のお前は違う。」


「研究はもちろん続けてる。」


「交互完全数だって、本気で向き合ってる。」


「でも。」


海野は笑う。


「誰かと一緒に喜ぶことを覚えた感じがする。」


その言葉に、海斗は少し黙った。


確かに。


以前の自分なら、60という数を見つけた時。


新しい概念を発見した時。


最初に考えるのは論文のことだった。


どう証明するか。


どう発表するか。


どう数学界に認めてもらうか。


そればかりだった。


でも今は違う。


60という数字を見るたびに思い出す。


図書館で笑っていた玲。


「交互完全数」と名前をつけた瞬間。


一緒に喜んだ時間。


数学は、一人で向き合うものだと思っていた。


けれど。


誰かと共有することで、もっと大切なものになることを知った。


「……そうかもしれないな。」


海斗は小さく答えた。


海野は満足そうに笑う。


「だろ?」


「まあ、俺としては少し安心した。」


「安心?」


「ああ。」


海野は腕を組む。


「お前、本当に研究だけして一生終えるんじゃないかと思ってたから。」


「余計なお世話だ。」


「でも。」


海野は真剣な声になる。


「玲ちゃんとの時間、大事にしろよ。」


海斗は少し驚いた顔をする。


海野は続ける。


「数学の証明は、何百年後でもできるかもしれない。」


「でも、人との時間はその瞬間しかない。」


海斗は静かに頷いた。


その言葉が、不思議と胸に残った。


「……分かってる。」


海野は笑う。


「ならいい。」


その時。


研究室の時計が正午を告げる。


学生たちが昼食へ向かい始める。


いつもの研究室の日常。


けれど、海斗には少し違って見えた。


机の上には交互完全数のノート。


その横には、玲と選んだ数学書。


そしてスマートフォンには、昨日届いた一通のメッセージ。


『次の研究、楽しみにしてるね。』


海斗は画面を見て、自然と微笑んだ。


「肥後。」


海野が声をかける。


「何だ。」


「今、笑ったぞ。」


「……そうか?」


「そうだ。」


海斗は慌てて表情を戻す。


「研究に戻る。」


「はいはい。」


海野は笑いながら自分の机へ向かった。


研究室には、いつものように紙をめくる音。


キーボードを叩く音。


静かな時間が流れる。


その中で海斗はノートを開いた。


ページの一番上には、大きく書かれている。


『交互完全数』


その下には、新しい研究途中の式。


海斗はペンを握る。


そして、ふと思う。


この数を証明したい。


数学史に残したい。


それは今でも変わらない。


けれど。


その理由は、以前とは少し違っていた。


自分一人のためではない。


玲と出会った証として。


あの日、図書館で交わした小さな会話が、本当に意味のあるものだったと証明するために。


海斗は静かに計算を始めた。


新しい数学への挑戦は、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ