数の女神様①
新しい数は間違いがあるかもしれません。
「数学から森羅万象は成り立つ。」
それが、肥後海斗の信念だ。
数字は世界を支配している。
自然界に存在する法則も、惑星運動も、音楽の調和も、人の営みさえも、突き詰めれば数学という一つの言語で記述できる。
そう信じて疑わなかった。
幼い頃、祖父からもらった一冊の数学書。
そこに載っていた完全数という存在を知った日から、海斗の人生は数学と共にあった。
六。
二十八。
四百九十六。
八千百二十八。
「自分自身を除いた約数の和が、自分自身になる数。」
その単純な定義の裏に、人間にはまだ見えていない世界が広がっているように思えた。
まるで、一人で何でもできるのだと思わせてくれる。
だからこそ、海斗は数学者を志した。
大学へ進学し、大学院へ進み、数論を専門に研究を続けている。
夢は一つ。
誰も見たことのない定理を発見し、数学史に自分の名前を残すことだった。
しかし、現実は理想とは違う。
研究室の壁には黒板が並び、そこには何週間も消されていない数式が残っている。
机には論文のコピー。
参考書。
ノート。
計算用紙。
コーヒーの空き缶。
それらに囲まれながら、海斗は今日もペンを走らせていた。
「……違う。」
式を一本消す。
「これでもない。」
また書き直す。
三時間。
四時間。
夕方になっても何一つ進展はなかった。
「駄目だ。」
海斗は椅子にもたれ、大きく息を吐く。
ここ数か月、新しい発見が何一つない。
論文は途中で止まり、計算は行き詰まり、指導教員にも「少し視点を変えてみたらどうだ」と言われるばかりだった。
「俺は本当に、新しい定理を見つけられるんだろうか……。」
誰にも聞こえないように呟く。
研究室の窓から見える夕焼けは美しい。
それなのに、その景色を楽しむ余裕さえ今の海斗にはなかった。
夜も更けた頃だった。
疲れ切った海斗は机に突っ伏したまま、いつの間にか眠りへ落ちていった。
「ねえ、セオドロス。」
澄み切った声だった。
まるで鈴が鳴るような、どこか懐かしい響き。
海斗はゆっくり顔を上げる。
「……誰だ?」
見渡すと、研究室ではなかった。
そこは巨大な石柱が並ぶ神殿だった。
白い大理石。
高い天井。
燭台に揺れる炎。
まるで古代ギリシャそのものだった。
その神殿の中央に、一人の少女が立っている。
雪のような白い髪。
深い蒼色の瞳。
白い衣をまとったその姿は、人というより神話に登場する女神のようだった。
彼女は海斗を見ると、柔らかく微笑んだ。
「私よ。」
「アリスモスよ。」
その名前を聞いた瞬間だった。
胸の奥が強く脈打つ。
アリスモス。
どこかで聞いたことがある。
いや、知っていた。
古代ギリシャ語で「数」を意味する言葉だ。
「君は……。」
海斗が問いかけようとすると、少女は一歩近づいた。
「それより、そんな数は本当にあるの?」
「そんな数?」
「あら、あなたが言い出したんじゃない」
彼女は優しく首をかしげる。
「約数の和が、自分自身を除いても、また元へ戻る数。」
その言葉を聞いた瞬間、不思議な感覚が走った。
「完全数……?」
思わず口にすると、アリスモスは少しだけ笑う。
「だけど、私は確信してるわ」
その笑顔には、何かを知っている者だけが見せる静かな自信があった。
「まだ見えていないだけ。」
「数学は、あなたが思っているよりずっと広い。」
神殿の奥から風が吹き抜ける。
白い髪がふわりと揺れた。
「だから一緒に探して。」
「まだ誰も見たことがない未知な数を。」
「まだ誰も知らない世界を。」
彼女がそう囁いた瞬間だった。
神殿全体が白い光に包まれる。
石柱も。
床も。
アリスモスの姿も。
すべてが光の中へ溶けていく。
「待って!」
海斗は思わず手を伸ばした。
しかし、その指先は何も掴めなかった。
「夢なのか……。」
目を開けると、いつもの研究室だった。
窓の外は朝焼けに染まっている。
机には昨夜書きかけた計算式。
コーヒーはすっかり冷めていた。
「変な夢だったな。」
苦笑しながら立ち上がる。
だが、不思議なことに夢の内容は驚くほど鮮明だった。
神殿。
アリスモス。
セオドロスという名前。
そして、「まだ誰も見たことのない数を探して」という言葉。
「……セオドロスって誰なんだ。」
スマートフォンで調べようかとも思ったが、なぜかやめた。
夢は夢だ。
それ以上深く考える必要はない。
そう自分に言い聞かせる。
翌日の昼放課。
海斗は気分転換のため、大学図書館へ足を運んだ。
この図書館には数学の専門書が数多く揃っている。
お気に入りの窓際の席へ座ると、一冊の本を開く。
完全数。
友愛数。
メルセンヌ素数。
古典的な数論が並ぶページを眺める。
どれも美しい。
しかし、そこから新しい発想は生まれない。
「何かきっかけさえあれば……。」
ページを閉じようとした、その時だった。
「ねえ、お兄さん!」
静かな図書館に、場違いなくらい明るい声が響いた。
海斗は思わず顔を上げる。
そこには、一人の少女が立っていた。
肩までのショートヘア。
大きな瞳。
制服姿。
そして、人懐っこい笑顔。
「あ、私、浜辺玲!」
少女は元気よく頭を下げる。
「お兄さんの名前は?」
「……肥後海斗。」
「へぇ!」
玲は目を輝かせる。
「じゃあ海斗君だね!」
「いや、初対面で君付けなのか。」
「だって、その方が話しやすいじゃん。」
「じゃあ、海斗さんの方がいい?」
悪びれる様子もなく笑う。
海斗は肩をすくめた。
「それより。」
時計を見る。
まだ昼過ぎだった。
「なんで中学生がこの時間に図書館にいるんだ?」
玲は一瞬きょとんとした。
次の瞬間、頬をぷくっと膨らませる。
「中学生じゃないもん!」
「私、高校三年生!」
「え?」
海斗は思わず見直した。
童顔という言葉では足りないくらい幼く見える。
「本当に?」
「本当!」
玲は制服の校章を指差した。
「ほら!」
海斗は苦笑するしかなかった。
「悪かった。」
「もう。」
裏話(設定)① 肥後海斗
海斗は幼い頃から神童と呼ばれ、勉強やスポーツなど、どんな分野でも優れた才能を発揮していました。
しかし、幼少期に両親を亡くし、唯一の肉親である祖父に引き取られます。
祖父はアマチュアの数学者で、ある日、一冊の数学書を海斗に渡しました。
その本との出会いが、海斗が数学者を目指すきっかけとなり、物語へと続いていきます。




