プロローグ
よろしくお願いします。
夕暮れの光が、静かな病室をやさしく茜色に染めていた。
窓の外では冬の空がゆっくりと夜へ溶け始めている。
部屋の中には人工呼吸器の規則正しい音と、心電図が刻む電子音だけが静かに響いていた。
無機質な音だけが、まだ時間が流れていることを教えてくれる。
海斗はベッドの横に座り、玲の手を両手で包んでいた。
その手は細く、小さく、少し冷たい。
それでも海斗は、温もりが少しでも長く残るように、そっと包み続けていた。
玲はもう言葉を話すことができなかった。
数日前から発声を完全に失われた。
医師は、無理に話そうとしないようにと言っていた。
だから二人は、言葉ではなく視線で会話をしていた。
海斗が「今日は寒かった」と言えば、玲は少しだけ目を細める。
「研究室で後輩が面白い質問をしてきた。」
そう話せば、玲は楽しそうにまばたきをする。
笑いたいときは、口元が少しだけ緩む。
心配するときは、眉がほんの少し寄る。
ありがとうと言いたいときは、ゆっくり一度だけ頷く。
たったそれだけで、海斗には全部伝わった。
初めて図書館で出会った頃よりも、ずっと多くのことが分かるようになっていた。
「玲。」
海斗は静かに呼びかけた。
玲はゆっくりと目を向ける。
その瞳は少し疲れていた。
それでも、海斗を見つめる眼差しだけは、以前と何一つ変わらない。
まっすぐだった。
海斗は微笑む。
「今日はな。」
「論文を少し書き直した。」
玲の瞳が少しだけ輝く。
「交互完全数の証明。」
「もう少しでまとまりそうなんだ。」
玲は安心したようにゆっくりと目を閉じ、また開いた。
その動きはまるで、
やるじゃん!
そう言っているようだった。
海斗は小さく笑う。
「ありがとう。」
「完成したら、一番最初に見せる約束だったよな。」
玲はほんの少しだけ首を動かした。
その瞳が優しく揺れる。
海斗には分かった。
もちろん。
楽しみにしてる。
そう答えている。
しばらく二人は黙ったまま夕焼けを眺めていた。
沈黙は苦しくなかった。
むしろ心地よかった。
言葉がなくても、隣にいるだけで十分だった。
海斗はふと机の上に置かれたノートへ目を向けた。
数ヶ月という暫時の中で、二人で使い続けた研究ノート。
表紙は少し色あせ、角も擦り切れている。
何度も開き、何度も閉じた証だった。
海斗は静かにページをめくった。
最初のページには、図書館で書いた簡単な計算。
その横には玲の丸い字で、
「面白い!」
と書いてある。
思わず笑みがこぼれる。
さらにページをめくる。
完全数。
結婚数。
証明の下書き。
失敗した計算。
二人で笑いながら書き直した跡。
そこには、研究だけではなく、一緒に過ごした時間そのものが閉じ込められていた。
やがて見慣れた数字が現れる。
60
728
60512
海斗はその数字を指でなぞる。
「あの日。」
「玲が一番最初に『きれい』って言った数だ。」
玲はゆっくりと目を細める。
思い出しているのだろう。
そのあと、ページをめくる。
168 ↔ 248
交互友愛数。
いや。
二人だけが冗談交じりに呼んでいた名前。
「結婚数。」
海斗は苦笑する。
「懐かしいな。」
玲の目尻が少し下がる。
笑っている。
声は出ない。
それでも確かに笑っていた。
海斗はその笑顔を見つめた。
「俺。」
「あの名前、結構好きだった。」
玲はゆっくりと何度もうなずく。
その瞳には、どこか誇らしさが宿っていた。
ページは最後へ近づいていく。
そして、最後の一枚。
そこには震えた文字が残されていた。
『数学は、人を支え幸せにできる。』
海斗はその文字を見つめたまま動けなかった。
インクは少しかすれている。
筆圧も弱い。
きっと。
もう思うように手が動かなかった頃に書いたのだろう。
それでも最後まで書き切っている。
その一文字一文字に、玲らしさがあった。
海斗はページをそっと撫でる。
涙が一滴、紙の上へ落ちた。
玲はその様子を静かに見つめていた。
心配そうに。
少しだけ悲しそうに。
そして、
笑顔を忘れないで。
そう伝えるように、ゆっくり首を横へ動かした。
海斗は慌てて涙を拭く。
「悪い。」
「約束したのにな。」
玲は優しく目を細める。
その笑顔は、
大丈夫、明日はきっといい日になるよ。
そう言っていた。
海斗はもう一度玲の手を握る。
そのときだった。
玲の指先が、ほんの少しだけ動いた。
海斗の手を探すように。
握ろうとするように。
海斗はすぐ両手で包み込む。
「ここにいるからな。」
玲の瞳が安心したように揺れる。
ありがとう。
そう言っているようだった。
ゆっくりと、玲は窓の外へ視線を向ける。
夕日が沈みかけている。
海斗も同じ景色を見る。
東京旅行で見た夕焼け。
病院の屋上で見た空。
図書館へ向かう帰り道。
二人で眺めた夕暮れが、次々と思い出された。
玲はもう一度海斗を見る。
その瞳が静かに潤む。
言葉はない。
けれど海斗には分かった。
幸せだった。
ありがとう。
あなたに会えてよかった。
そんな思いが、その瞳の中にあふれていた。
海斗はゆっくり頷く。
「俺も。」
「玲に会えて、本当に幸せだった。」
玲はゆっくりと目を閉じる。
そしてもう一度開く。
その瞳は穏やかだった。
海斗は静かに語りかける。
「数学はさ。」
「正しいか、間違っているか。」
「存在するか、存在しないか。」
「全部証明しようとする。」
「でも。」
「玲と出会って分かった。」
「証明できないものにも、本物はある。」
玲は静かに見つめる。
海斗は微笑んだ。
「愛も。」
「優しさも。」
「幸せも。」
「全部そうだった。」
玲の目から、一筋だけ涙が流れた。
それは悲しみではなく。
安堵にも似た、穏やかな涙だった。
海斗はその涙をそっと拭う。
「玲。」
「君が信じた数学を。」
「君と一緒に歩いた証明を。」
「俺は必ず世界へ届ける。」
玲はゆっくりと、一度だけ頷いた。
それは、二人が交わした最後の約束だった。
病室には、もう言葉はいらなかった。
夕日は静かに沈み、冬の夜が訪れる。
人工呼吸器の音は変わらず時を刻み続ける。
海斗は最後まで玲の手を握り続けた。
その温もりを、一秒でも長く忘れないように。
数学は、美しい論理の学問である。
しかし、それだけではない。
誰かと考え。
誰かと喜び。
誰かと同じ景色を見て。
一つの発見を分かち合う。
その時間があるからこそ、数学は人の心を照らす。
海斗にとって数学は、もはや数式だけではなかった。
それは玲と生きた日々そのものだった。
そして彼は生涯をかけて、そのことを証明し続ける。
数式では書き表せない、世界でたった一つの証明を胸に抱きながら。




