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君と契りて 言はで思ふ心の理  作者: はまちゃん
君と信じた不言論

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16/42

信じるべき不言論

その夜。


ホテルの部屋には、静かな時間が流れていた。


窓の外には、東京の街明かりが広がっている。


昼間はあれほど多くの人が歩いていた街も、夜になれば少しだけ静かに見えた。


玲はベッドの中で、ぼんやりと天井を見つめていた。


海斗も隣のベッドで横になっている。


しかし。


二人とも、すぐには眠れなかった。


今日一日。


浅草を歩いた。


仲見世で笑った。


東京スカイツリーから街を眺めた。


写真を撮った。


お土産を選んだ。


どれも普通の旅行だった。


普通の。


その言葉を、玲は心の中で何度も繰り返していた。


「普通って……。」


玲が小さく呟く。


「どうした?」


海斗が返事をする。


玲は少し迷ったあと、言葉を続けた。


「昔はさ。」


「普通の日って、何とも思わなかった。」


「学校に行って。」


「友達と話して。」


「帰って寝る。」


「そんな毎日がずっと続くと思ってたんだ。」


海斗は黙って聞いていた。


「でもね。」


玲は天井を見る。


「病気になってから。」


「普通の日常って、すごく特別なんだなって思った。」


「今日だって。」


「朝起きて。」


「海斗君と歩いて。」


「笑って。」


「それだけなのに。」


少し声が震える。


「すごく幸せ…だった。」


海斗は静かに目を閉じた。


玲が感じているもの。


それはきっと、自分が簡単に想像できるものではない。


健康な人間にとって。


明日が来ることは当たり前だ。


来月の予定を立てることも。


来年の話をすることも。


けれど。


玲にとって未来というものは。


時々、手を伸ばしても届かない場所にあるものだった。


「……怖いんだ。」


玲の声が響く。


海斗は目を開ける。


「何が?」


「未来。」


短い答え。


けれど、その一言にすべてが詰まっていた。


「病院の先生の話を聞いた時。」


「頭では分かったの。」


「病気のことも。」


「これから起こることも。」


「でも。」


玲は布団を少し握る。


「夜になると考えちゃう。」


「もし明日、声が出なくなったら。」


「もし、大切な人に何も伝えられなくなったら。」


「もし……。」


そこで言葉が止まった。


海斗は静かに待つ。


無理に続きを求めなかった。


しばらくして。


玲は小さな声で言った。


「死ぬことより。」


「何も伝えられなくなることが怖い。」


その言葉が、海斗の胸に刺さった。


玲はずっと明るかった。


図書館で出会った時も。


交互完全数を見つけた時も。


病室で数学を話していた時も。


いつも笑っていた。


だから。


海斗は時々忘れていた。


その笑顔の裏側で。


玲がどれほどの不安と向き合っているのか。


「玲ちゃん。」


海斗は静かに呼ぶ。


「うん。」


「俺は……。」


一瞬、言葉に詰まる。


簡単な励ましはしたくなかった。


「大丈夫。」


そんな根拠のない言葉では届かないと思った。


だから。


正直に伝える。


「俺には、玲ちゃんの怖さを全部理解することはできない。」


玲は少し驚いたように目を開く。


「でも。」


海斗は続ける。


「分からないからって、隣にいられないわけじゃない。」


「数学だってそうだ。」


「難しい問題は、最初から答えが分かっているわけじゃない。」


「分からないから、考える。」


「一緒に考える。」


玲は静かに聞いている。


「だから。」


海斗は言った。


「怖いなら、怖いって言っていい。」


「泣きたいなら、泣いていい。」


「無理に笑わなくてもいい。」


「玲ちゃんが一人で証明しなくていいんだ。」


その言葉に。


玲の目から、また涙がこぼれた。


「……証明。」


玲は小さく笑う。


「やっぱり海斗君、数学者だね。」


海斗も少し笑う。


「悪いか?」


「ううん。」


玲は涙を拭う。


「嬉しい。」


「私の人生も。」


「まだ途中の問題なんだって思えるから。」


海斗は頷いた。


「そうだ。」


「途中だ。」


「答えはまだ出ていない。」


玲は目を閉じる。


「じゃあ。」


「これからも一緒に考えてくれる?」


その問いに。


海斗は迷わなかった。


「ああ。」


「もちろん。」


「交互完全数の証明も。」


「東京旅行の思い出も。」


「これから作るものも。」


「全部。」


玲は静かに笑った。


「約束だよ。」


「ああ。」


「約束する。」


しばらく二人は何も話さなかった。


ただ。


同じ部屋で。


同じ時間を過ごしていた。


それだけで十分だった。


やがて玲の呼吸が少しずつ穏やかになる。


眠りについたのだ。


海斗は天井を見ながら考える。


数学には完全な証明がある。


正しいか。


間違っているか。


明確な答えが存在する。


しかし。


人の人生には。


証明できないものがある。


誰かを大切に思う気持ち。


一緒に過ごした時間の価値。


明日も会いたいと思う願い。


それらには数式はない。


けれど。


確かに存在する。


海斗は眠る玲を見る。


そして心の中で静かに誓った。


玲が笑える時間を。


一日でも多く作る。


それは数学者としての証明ではない。


一人の人間としての約束だった。


翌朝。


カーテンの隙間から光が差し込む。


玲が目を覚ます。


「……おはよう。」


「おはよう。」


海斗は笑う。


東京最後の朝。


帰る日。


少し寂しい。


けれど。


悲しくはなかった。


「また来ようね。」


玲が言う。


海斗は頷く。


「ああ。」


「また来よう。」


その言葉は未来への小さな証明だった。


二人は荷物をまとめる。


東京で作った思い出を抱えて。


そして。


まだ続く日々へ向かって。


愛知へ帰る準備を始めた。

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