東京旅行④
ホテルの部屋には、穏やかな夜の時間がゆっくりと流れていた。
窓の外には、東京の夜景が広がっている。
無数の光。
走り続ける車の列。
遠くに見える高層ビルの明かり。
昼間とは全く違う街の姿だった。
玲はベッドの上から、その景色を眺めていた。
「綺麗……。」
小さく呟く。
海斗は窓際に立ちながら頷いた。
「ああ。」
「東京の夜景を見ることって、そんなに珍しくないはずなのにな。」
「でもさ。」
玲は振り返る。
「今日見る景色は、たぶん一生忘れないと思う。」
その言葉に、海斗は少し黙った。
玲にとって。
今日一日のすべてが特別なのだ。
浄輪寺で見た歴史。
神保町で見つけた本。
喫茶店で話した時間。
全部が記憶に残るものになっている。
「海斗君は?」
「ん?」
「今日、一番楽しかったこと。」
海斗は少し考えた。
関孝和の石碑。
神保町の本屋。
玲が数学書を選んでいる姿。
どれも大切だった。
しかし。
一番印象に残っているものは。
「……玲ちゃんが本を選んでいた時かな。」
「え?」
玲は意外そうな顔をする。
「そんなところ?」
「ああ。」
海斗は笑う。
「本を持って、嬉しそうにしていただろ。」
「その顔を見て、来てよかったと思った。」
玲は少し照れたように視線を逸らした。
「……ずるい。」
「何が?」
「そういうこと、普通に言うところ。」
海斗は首をかしげる。
「本当のことを言っただけだ。」
玲は小さく笑った。
「やっぱり海斗君って数学者だね。」
「どういう意味だ?」
「答えをまっすぐ言うところ。」
海斗は苦笑する。
「褒められているのか分からないな。」
「褒めてるよ。」
玲は笑顔で答えた。
しばらく二人は窓の外を眺めていた。
静かな時間。
病室では聞こえなかった街の音。
遠くから聞こえる車の音。
誰かの話し声。
東京という大きな街の中で。
二人だけの小さな時間が流れていた。
「ねえ、海斗君。」
「ん?」
「もしさ。」
玲は少し迷うように言葉を探す。
「もし病気じゃなかったら。」
海斗は黙って聞く。
「私、普通の高校生活を送ってたのかな。」
少しだけ寂しそうな声。
海斗はすぐには答えなかった。
簡単な慰めは言いたくなかった。
だから。
思ったことをそのまま伝える。
「分からない。」
玲は少し驚く。
「分からないんだ。」
「ああ。」
海斗は続ける。
「未来のことは、誰にも証明できないから。」
「でも。」
玲を見る。
「今ここにいる玲ちゃんは、本物だ。」
「数学が好きで。」
「新しい発想をして。」
「俺と一緒に交互完全数を見つけた。」
「それは病気があっても、なくても変わらない。」
玲は静かに聞いていた。
そして。
少しだけ笑う。
「海斗君らしい答え。」
「数式みたい。」
「そうか?」
「うん。」
「でも。」
玲は胸元に手を当てる。
「嬉しい。」
「ありがとう。」
海斗は小さく頷いた。
その後。
玲は昼間買った数学の本を手に取った。
「少し読んでみようかな。」
「疲れてないか?」
「大丈夫。」
「それに。」
玲は本を開く。
「せっかく買ったから。」
ページをめくる音が、部屋に響く。
しばらくすると。
「……難しい。」
玲が小さく呟いた。
海斗は笑う。
「最初から全部理解する必要はない。」
「数学は、一歩ずつ進むものだ。」
「一歩ずつ。」
玲はその言葉を繰り返す。
「じゃあ、人生も?」
海斗は少し驚いた。
玲は本を見ながら続ける。
「数学ってさ。」
「難しい問題でも、一つずつ式を書いていくじゃん。」
「人生も同じなのかなって。」
海斗は静かに頷いた。
「……そうかもしれない。」
玲は嬉しそうに笑った。
「じゃあ今日も一つ進んだね。」
「東京旅行。」
「新しい本。」
「海斗君との思い出。」
海斗はその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなる。
時計を見る。
もう遅い時間だった。
「そろそろ寝た方がいい。」
「明日も予定がある。」
玲は少し残念そうな顔をする。
「もう終わり?」
「ああ。」
「明日もある。」
その言葉を聞いて。
玲は笑った。
「そっか。」
「明日もあるんだ。」
その一言が。
海斗の胸に深く残った。
明日がある。
それは当たり前のようで。
決して当たり前ではない。
玲にとって。
その言葉は何より大切なものだった。
「おやすみ、海斗君。」
「おやすみ、玲ちゃん。」
照明が消える。
暗くなった部屋の中。
東京の光だけが、カーテンの隙間から差し込んでいた。
海斗はベッドの横の椅子に座りながら、静かに目を閉じる。
今日一日。
どれだけ数学の証明を書いただろう。
どれだけ研究を進めただろう。
そんなことより。
今日、玲が笑った回数の方がずっと大切だった。
数学には証明がある。
答えがある。
しかし。
人との時間には、証明できない価値がある。
海斗はそのことを。
初めて理解した気がした。




