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君と契りて 言はで思ふ心の理  作者: はまちゃん
東京旅行編

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14/42

東京旅行③

書泉グランデを出る頃には、空は少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。


西日がビルの窓ガラスに反射し、神保町の街を柔らかな橙色に染めている。


玲は購入した数学の本を大事そうに抱えて歩いていた。


新品の紙の匂いが、ふわりと漂う。


「重くないか?」


海斗が尋ねる。


玲は首を横に振った。


「全然。」


「むしろ嬉しい。」


「こんなに本を持って歩く日が来るなんて思わなかったから。」


そう言って、本を抱き締める腕に少しだけ力を込める。


その何気ない仕草を見て、海斗は胸の奥が静かに締めつけられた。


玲にとって、この一冊はただの参考書ではない。


病室では手に入れられなかった日常。


「また今度」があるという証。


未来へ向かって開くことのできる一冊だった。


海斗は優しく微笑む。


「その本なら、最初は整数の章から読むといい。」


「いきなり全部読もうとすると大変だからな。」


玲は目を輝かせる。


「宿題みたい。」


「宿題じゃない。」


「楽しむための本だ。」


「じゃあ安心。」


玲はくすっと笑った。


「海斗君。」


「ん?」


「この本、ちゃんと読むね。」


「ああ。」


「分からないところがあったら?」


海斗は少しだけ考えたあと答える。


「質問してくれ。」


玲は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、先生だね。」


「先生?」


「うん。」


「数学の先生。」


海斗は苦笑する。


「俺はまだ大学院生だ。」


「学生に先生なんて呼ばれる資格はない。」


玲は小さく首を振る。


「あるよ。」


「私にとっては先生。」


その真っすぐな言葉に、海斗は思わず視線を逸らした。


「……そうか。」


照れくさい。


だが、不思議と嫌ではなかった。


二人はゆっくりと神保町の街を歩く。


古書店の軒先には年代物の本が積み上げられ、店先には手書きの札が並んでいる。


古びた喫茶店からはコーヒーの香りが漂い、細い路地の奥には小さな出版社の看板も見えた。


玲は周囲を見渡しながら感心したように呟く。


「本当に本ばっかり。」


「街全体が図書館みたい。」


「研究者にとっては宝の山だ。」


海斗は答える。


「古い絶版本が見つかることもある。」


「欲しかった本が、ここで偶然見つかることも珍しくない。」


玲は楽しそうに辺りを見回した。


「数学って、大学だけでするものだと思ってた。」


「でも、本屋さんにも歴史があるんだね。」


「数学は人が作ってきたものだからな。」


海斗は静かに言う。


「本がある場所には、誰かの考えた時間も残っている。」


玲は歩みを止め、一軒の古書店を見つめた。


ショーウインドーには、何十年も前に出版された本が並んでいる。


黄ばんだ紙。


色あせた表紙。


それでも、大切に保存されてきたことが伝わってくる。


「ねえ。」


玲がぽつりと呟く。


「どうした?」


「こういう本って。」


「昔の人が読んでたんだよね。」


「ああ。」


「じゃあ。」


玲はガラス越しに本を見つめながら続ける。


「その人の夢とか。」


「悩んだこととか。」


「頑張った時間も、この本のどこかに残ってるのかな。」


海斗は少し驚いた。


普通なら、「古い本だね」で終わる話だった。


しかし玲は、その本を書いた人だけではなく、それを読んできた人々にまで思いを巡らせていた。


海斗は穏やかに笑う。


「玲ちゃんらしいな。」


「そう?」


「ああ。」


「研究者は、本を見ると内容ばかり気にする。」


「証明が正しいか。」


「新しい結果があるか。」


「でも玲ちゃんは、その本を読んだ人を見てる。」


玲は照れくさそうに笑った。


「だって。」


「本って、人と人をつなぐものなんじゃないかなって。」


その言葉に、海斗は静かに頷いた。


「そうかもしれない。」


「数学も同じだ。」


「昔の人が考えたことを、今の俺たちが受け取って。」


「また次の人へ渡していく。」


玲は目を細める。


「なんだかリレーみたい。」


「そうだな。」


海斗は少し空を見上げた。


「俺たちは、その途中を走ってるだけなんだ。」


しばらく歩いていると、玲のお腹が小さく鳴った。


「……。」


玲は真っ赤になった。


海斗は思わず笑う。


「聞こえた。」


「聞かないで!」


「聞こえたものは仕方ない。」


「もう!」


玲は恥ずかしそうに本で顔を隠した。


その姿が可笑しくて、海斗は声を立てて笑ってしまう。


「珍しい。」


玲が驚いたように言う。


「海斗君、そんなふうに笑うんだ。」


海斗は笑いながら答えた。


「俺だって笑う。」


「玲ちゃんのせいだ。」


「えー、私のせい?」


「そう。」


「研究室じゃ、こんなに笑わない。」


玲は嬉しそうに微笑んだ。


「それなら、ちょっと嬉しい。」


二人はしばらく歩き、一軒の昔ながらの喫茶店へ入ることにした。


木製の扉を開くと、小さなベルが澄んだ音を鳴らす。


店内にはジャズが静かに流れ、落ち着いた空気が広がっていた。


窓際の席へ案内される。


玲は数学の本を机の上へ丁寧に置いた。


まるで宝物を扱うような手つきだった。


「今日一日で。」


玲は窓の外を見ながら言う。


「もう思い出がいっぱいできたね。」


海斗は運ばれてきたコーヒーを一口飲む。


「そうだな。」


「浄輪寺。」


「神保町。」


「書泉グランデ。」


玲は指を折って数え始める。


「それから。」


「美味しいものも食べた。」


「まだ食べたい。」


海斗は苦笑する。


「本当によく食べるな。」


「旅行だから。」


玲は得意そうに笑う。


「カロリーは旅行中だけゼロ!」


「そんな理論は初めて聞いた。」


「今考えた。」


二人は顔を見合わせて笑った。


笑い声が静かな店内へ溶けていく。


その笑顔を見ていると、海斗は思う。


病室で初めて会った頃の玲より、今の方がずっと自然に笑っている。


もちろん病気は消えていない。


明日になれば、また薬を飲み、治療を受ける日常が待っている。


それでも今日だけは、そのことを忘れられる時間だった。


玲は温かい紅茶を両手で包み込みながら、小さく口を開いた。


「海斗君。」


「ん?」


「今日、来てくれてありがとう。」


「何だ、急に。」


玲は少し照れ笑いを浮かべる。


「病気になってからね。」


「未来の予定を考えるのが怖かった。」


海斗は何も言わず、静かに耳を傾ける。


「また入院するかもしれない。」


「また検査があるかもしれない。」


「そんなことばっかり考えてた。」


玲は窓の外へ目を向けた。


夕暮れの街を歩く人たちが、小さく見える。


「でも。」


玲はゆっくり振り返る。


「今は違う。」


「来週は何をしよう。」


「次はどんな本を読もう。」


「また図書館で会おう。」


「そんなことを考えられる。」


海斗は胸の奥が温かくなるのを感じた。


数学には未来がある。


新しい定理。


新しい発見。


しかし、人の未来は数式では測れない。


だからこそ、今日という時間がかけがえのないものになる。


海斗は静かに微笑んだ。


「また一緒に本を読もう。」


「うん。」


「分からないところは教える。」


「先生だから?」


玲が悪戯っぽく笑う。


海斗も笑い返した。


「ああ。」


「玲ちゃん専属の先生だ。」


玲は嬉しそうに目を細めた。


「じゃあ私は、一番熱心な生徒になる。」


夕暮れの神保町。


本に囲まれた小さな喫茶店。


窓の外では街に灯りがともり始めていた。


向かい側には、数学の本を大切そうに抱えた少女が笑っている。


その景色を眺めながら、海斗は静かに思った。


どんな難しい定理よりも。


どんな新しい発見よりも。


今、自分の目の前にあるこの笑顔こそが、何ものにも代えられない宝物なのだと。

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