東京旅行③
書泉グランデを出る頃には、空は少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
西日がビルの窓ガラスに反射し、神保町の街を柔らかな橙色に染めている。
玲は購入した数学の本を大事そうに抱えて歩いていた。
新品の紙の匂いが、ふわりと漂う。
「重くないか?」
海斗が尋ねる。
玲は首を横に振った。
「全然。」
「むしろ嬉しい。」
「こんなに本を持って歩く日が来るなんて思わなかったから。」
そう言って、本を抱き締める腕に少しだけ力を込める。
その何気ない仕草を見て、海斗は胸の奥が静かに締めつけられた。
玲にとって、この一冊はただの参考書ではない。
病室では手に入れられなかった日常。
「また今度」があるという証。
未来へ向かって開くことのできる一冊だった。
海斗は優しく微笑む。
「その本なら、最初は整数の章から読むといい。」
「いきなり全部読もうとすると大変だからな。」
玲は目を輝かせる。
「宿題みたい。」
「宿題じゃない。」
「楽しむための本だ。」
「じゃあ安心。」
玲はくすっと笑った。
「海斗君。」
「ん?」
「この本、ちゃんと読むね。」
「ああ。」
「分からないところがあったら?」
海斗は少しだけ考えたあと答える。
「質問してくれ。」
玲は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、先生だね。」
「先生?」
「うん。」
「数学の先生。」
海斗は苦笑する。
「俺はまだ大学院生だ。」
「学生に先生なんて呼ばれる資格はない。」
玲は小さく首を振る。
「あるよ。」
「私にとっては先生。」
その真っすぐな言葉に、海斗は思わず視線を逸らした。
「……そうか。」
照れくさい。
だが、不思議と嫌ではなかった。
二人はゆっくりと神保町の街を歩く。
古書店の軒先には年代物の本が積み上げられ、店先には手書きの札が並んでいる。
古びた喫茶店からはコーヒーの香りが漂い、細い路地の奥には小さな出版社の看板も見えた。
玲は周囲を見渡しながら感心したように呟く。
「本当に本ばっかり。」
「街全体が図書館みたい。」
「研究者にとっては宝の山だ。」
海斗は答える。
「古い絶版本が見つかることもある。」
「欲しかった本が、ここで偶然見つかることも珍しくない。」
玲は楽しそうに辺りを見回した。
「数学って、大学だけでするものだと思ってた。」
「でも、本屋さんにも歴史があるんだね。」
「数学は人が作ってきたものだからな。」
海斗は静かに言う。
「本がある場所には、誰かの考えた時間も残っている。」
玲は歩みを止め、一軒の古書店を見つめた。
ショーウインドーには、何十年も前に出版された本が並んでいる。
黄ばんだ紙。
色あせた表紙。
それでも、大切に保存されてきたことが伝わってくる。
「ねえ。」
玲がぽつりと呟く。
「どうした?」
「こういう本って。」
「昔の人が読んでたんだよね。」
「ああ。」
「じゃあ。」
玲はガラス越しに本を見つめながら続ける。
「その人の夢とか。」
「悩んだこととか。」
「頑張った時間も、この本のどこかに残ってるのかな。」
海斗は少し驚いた。
普通なら、「古い本だね」で終わる話だった。
しかし玲は、その本を書いた人だけではなく、それを読んできた人々にまで思いを巡らせていた。
海斗は穏やかに笑う。
「玲ちゃんらしいな。」
「そう?」
「ああ。」
「研究者は、本を見ると内容ばかり気にする。」
「証明が正しいか。」
「新しい結果があるか。」
「でも玲ちゃんは、その本を読んだ人を見てる。」
玲は照れくさそうに笑った。
「だって。」
「本って、人と人をつなぐものなんじゃないかなって。」
その言葉に、海斗は静かに頷いた。
「そうかもしれない。」
「数学も同じだ。」
「昔の人が考えたことを、今の俺たちが受け取って。」
「また次の人へ渡していく。」
玲は目を細める。
「なんだかリレーみたい。」
「そうだな。」
海斗は少し空を見上げた。
「俺たちは、その途中を走ってるだけなんだ。」
しばらく歩いていると、玲のお腹が小さく鳴った。
「……。」
玲は真っ赤になった。
海斗は思わず笑う。
「聞こえた。」
「聞かないで!」
「聞こえたものは仕方ない。」
「もう!」
玲は恥ずかしそうに本で顔を隠した。
その姿が可笑しくて、海斗は声を立てて笑ってしまう。
「珍しい。」
玲が驚いたように言う。
「海斗君、そんなふうに笑うんだ。」
海斗は笑いながら答えた。
「俺だって笑う。」
「玲ちゃんのせいだ。」
「えー、私のせい?」
「そう。」
「研究室じゃ、こんなに笑わない。」
玲は嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、ちょっと嬉しい。」
二人はしばらく歩き、一軒の昔ながらの喫茶店へ入ることにした。
木製の扉を開くと、小さなベルが澄んだ音を鳴らす。
店内にはジャズが静かに流れ、落ち着いた空気が広がっていた。
窓際の席へ案内される。
玲は数学の本を机の上へ丁寧に置いた。
まるで宝物を扱うような手つきだった。
「今日一日で。」
玲は窓の外を見ながら言う。
「もう思い出がいっぱいできたね。」
海斗は運ばれてきたコーヒーを一口飲む。
「そうだな。」
「浄輪寺。」
「神保町。」
「書泉グランデ。」
玲は指を折って数え始める。
「それから。」
「美味しいものも食べた。」
「まだ食べたい。」
海斗は苦笑する。
「本当によく食べるな。」
「旅行だから。」
玲は得意そうに笑う。
「カロリーは旅行中だけゼロ!」
「そんな理論は初めて聞いた。」
「今考えた。」
二人は顔を見合わせて笑った。
笑い声が静かな店内へ溶けていく。
その笑顔を見ていると、海斗は思う。
病室で初めて会った頃の玲より、今の方がずっと自然に笑っている。
もちろん病気は消えていない。
明日になれば、また薬を飲み、治療を受ける日常が待っている。
それでも今日だけは、そのことを忘れられる時間だった。
玲は温かい紅茶を両手で包み込みながら、小さく口を開いた。
「海斗君。」
「ん?」
「今日、来てくれてありがとう。」
「何だ、急に。」
玲は少し照れ笑いを浮かべる。
「病気になってからね。」
「未来の予定を考えるのが怖かった。」
海斗は何も言わず、静かに耳を傾ける。
「また入院するかもしれない。」
「また検査があるかもしれない。」
「そんなことばっかり考えてた。」
玲は窓の外へ目を向けた。
夕暮れの街を歩く人たちが、小さく見える。
「でも。」
玲はゆっくり振り返る。
「今は違う。」
「来週は何をしよう。」
「次はどんな本を読もう。」
「また図書館で会おう。」
「そんなことを考えられる。」
海斗は胸の奥が温かくなるのを感じた。
数学には未来がある。
新しい定理。
新しい発見。
しかし、人の未来は数式では測れない。
だからこそ、今日という時間がかけがえのないものになる。
海斗は静かに微笑んだ。
「また一緒に本を読もう。」
「うん。」
「分からないところは教える。」
「先生だから?」
玲が悪戯っぽく笑う。
海斗も笑い返した。
「ああ。」
「玲ちゃん専属の先生だ。」
玲は嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ私は、一番熱心な生徒になる。」
夕暮れの神保町。
本に囲まれた小さな喫茶店。
窓の外では街に灯りがともり始めていた。
向かい側には、数学の本を大切そうに抱えた少女が笑っている。
その景色を眺めながら、海斗は静かに思った。
どんな難しい定理よりも。
どんな新しい発見よりも。
今、自分の目の前にあるこの笑顔こそが、何ものにも代えられない宝物なのだと。




