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第5話 帰り道

 翌朝。


「……眠い」


 立花舞彩は、自分の席に座るなり机に突っ伏した。


「おはよ、舞彩。珍しく元気ないね」


 小鳥遊陽菜が、隣から顔を覗き込んでくる。


「……フッ。昨夜は少々、魔界との交信に手間取ってね」


「また夜更かし?」


「……違うわ。これは世界の均衡を保つための――」


「何時に寝たの?」


「……一時」


「夜更かしじゃん!」


 陽菜は呆れたように笑った。


 実際のところ、舞彩が夜更かしした理由は魔界との交信でも何でもない。


 昨日、生徒会で渡された資料を何となく読み返していたら、いつの間にか日付が変わっていたのだ。


(……何で家に帰ってまで仕事してるの、私……)


 思い出すだけで腹が立つ。


 あの生徒会長の、余裕たっぷりな笑顔が脳裏に浮かんだ。


『頼りにしてるよ』


「……ぐぬぬ」


「舞彩?」


「……何でもないわ」


 陽菜は首を傾げたあと、思い出したように手を叩いた。


「あ、そうだ。今日の数学、小テストあるよ」


「…………」


 舞彩の動きが止まった。


「……何ですって?」


「昨日、先生言ってたじゃん」


「…………」


(……聞いてない)


(……そんなの聞いてないぃぃ!!)


「ま、舞彩? 大丈夫?」


「……フッ。愚問ね。この程度の試練、我が漆黒の魔眼をもってすれば……」


「じゃあ、昨日の範囲は復習した?」


「…………」


「舞彩?」


「……陽菜」


「ん?」


「……少しだけ、教えて」


「最初からそう言えばいいのに!」


 陽菜は笑いながらノートを開いた。


「ほら、ここ。昨日やった公式、覚えてる?」


「……当然よ」


「じゃあ、この問題は?」


「…………」


「舞彩?」


「……この問題には、邪悪な術式が仕込まれているわ」


「ただの二次方程式だよ!」


 陽菜は笑いながら、途中式を指差した。


「まず、ここを移項して……」


「……なるほど」


「それで、こっちに代入するの」


「……ふむ」


「分かった?」


「……フッ。完全に理解したわ」


「じゃあ、もう一問!」


「……えっ」


「ほら、早く!」


 舞彩は渋々シャープペンシルを握った。


 陽菜は、そんな舞彩の手元を覗き込みながら、丁寧に教えてくれた。


 いつもの朝。


 いつもの教室。


 いつもの二人だった。


「……陽菜」


「ん?」


「……この公式、もう一度見せなさい」


「いいよ。あ、そうだ」


 陽菜はノートを閉じると、そのまま舞彩へ差し出した。


「これ、貸してあげる」


「……え?」


「私の数学ノート。今日の範囲、ちゃんとまとめてあるから」


「……よいの?」


「もちろん! 家で見直しなよ」


 舞彩は、少しだけ目を丸くした。


「……フッ。ならば特別に、我が預かってあげるわ」


「はいはい。ちゃんと返してよね?」


「……当然よ」


 舞彩はノートを鞄にしまった。


「……感謝してあげなくもないわ」


「そこは普通にありがとうでいいでしょ!」


 陽菜は笑った。


 舞彩も、ほんの少しだけ笑った。


◇ ◇ ◇


 三時間目、数学。


「それじゃあ、小テストを始めるぞ」


 教師の声とともに、プリントが配られていく。


 舞彩は問題用紙を裏返し、そっと息を吸った。


(……大丈夫)


(……陽菜に教えてもらったところは、ちゃんと覚えてる)


 一問目。


 解ける。


 二問目。


 これも分かる。


 三問目。


「…………」


(……誰?)


(……あなた、誰なの……?)


 見覚えのない数式が、紙の上で不敵に笑っているように見えた。


 舞彩は眉間に皺を寄せる。


(……落ち着いて)


(……こういうときこそ、冷静に……)


 隣の席では、陽菜がすらすらと鉛筆を動かしていた。


(……裏切り者ぉ……)


 もちろん、陽菜は何も悪くない。


 舞彩は問題をもう一度読み直した。


 そして、ようやく気づく。


(……あ、これ、さっき教えてもらったやつだ)


 慌てて計算を始める。


 終了の合図が鳴ったとき、舞彩は机に額をつけた。


「……生き延びたわ」


「お疲れ、舞彩」


 陽菜が笑いかける。


「どうだった?」


「……フッ。敵はなかなかの強敵だったわ」


「つまり難しかったんだね」


「……噛み殺すわよ」


「はいはい」


 いつもと変わらない、騒がしい午前中だった。


◇ ◇ ◇


 昼休み。


 二人は教室で弁当を広げていた。


「そういえば舞彩、昨日の生徒会はどうだった?」


「……地獄よ」


「えー、昨日のメッセージだと楽しそうだったのに」


「……あれは敵を油断させるための偽装工作よ」


「誰を油断させるの?」


「……会長」


「本人に送ってないじゃん!」


 陽菜は笑いながら卵焼きを口に運んだ。


「でも、ちょっと羨ましいな。先輩たちと仲良くなれそうだし」


「……仲良くなんてなっていないわ」


「水瀬先輩は優しそうだったよね」


「……それは、まあ」


「会長は?」


「……あれは敵よ」


「即答!」


 舞彩は弁当の唐揚げを頬張った。


 昨日、琴音にもらったチョコレートを思い出す。


 確かに、悪い人たちではない。


 仕事も、思っていたほど退屈ではなかった。


 ただ。


(……会長だけは、何か気に入らないのよね……)


「そうだ、今日も生徒会?」


「……昨日は来なくていいと言われたわ」


「じゃあ一緒に帰れる?」


「……ええ」


「あー、残念! 今日、部活あるんだ」


「……そう」


 陽菜は運動部の手伝いもしている。


 放課後は、時々そちらへ顔を出しているらしい。


「でも、早く終わったら連絡するね!」


「……好きにしなさい」


「舞彩って、そう言いながら待っててくれるよね」


「……待たないわよ!」


 陽菜は楽しそうに笑った。


◇ ◇ ◇


 放課後。


 舞彩は、鞄を肩に掛けて廊下を歩いていた。


(……今日は真っ直ぐ帰れる)


(……帰ったらお菓子食べて、のんびりしよう)


 そんな平和な計画を立てていた、そのとき。


「立花さーん!」


「…………」


 聞き覚えのある声。


 嫌な予感。


 振り返ると、水瀬琴音が小走りで近づいてきた。


「よかった、まだ帰ってなかった!」


「……帰るところよ」


「ちょっとだけ生徒会室、来てもらえないかな?」


「……嫌な予感しかしないわ」


「本当にちょっとだけ! お願い!」


 琴音が両手を合わせる。


「…………」


(……その顔は反則ぅ……)


「……十分だけよ」


「ありがとう!」


 そして十分後。


「……話が違うじゃない!!」


 舞彩は、生徒会室で大量の封筒を前にしていた。


「ごめんね! 思ったより数が多くて!」


 琴音が申し訳なさそうに笑う。


 机の上には、文化交流祭に参加する団体へ配布する案内状が山積みになっていた。


 宛名と中身を確認し、封をする。


 ただそれだけの作業。


 ただそれだけのはずなのに、終わりが見えない。


「……これは労働力の搾取よ」


「お菓子もあるよ?」


「……買収する気ね」


「今日はクッキー!」


「……いただくわ」


 舞彩は一枚受け取った。


 さくり。


(……美味しい……)


「立花さん、これも確認お願いできる?」


 副会長の篠宮紗月が、書類の束を差し出してくる。


「……私の手は二本しかないのだけれど」


「知ってるわ」


「……ならば何故」


「仕事が早いからよ」


「…………」


 舞彩は、返す言葉を失った。


(……ほ、褒められた……?)


「昨日の配置案も助かったわ。あれで先生への説明がずいぶん楽になったの」


「……そ、そう」


「今日も頼りにしてるわね」


「……フッ。仕方ないわね」


 舞彩は、新しい書類を受け取った。


 その様子を、会長が少し離れた席から眺めていた。


「立花さんって、褒めると頑張ってくれるんだね」


「……っ!?」


 舞彩の手が止まる。


「……今、何か言ったかしら」


「いや。素直でいいなと思って」


「……噛み殺すわよ!」


「怖い怖い」


 会長は笑いながら、手元の書類に判を押した。


「でも、無理はしなくていいからね。疲れたら休んで」


「……だったら帰してちょうだい!」


「あと十五分で終わりそうだよ」


「……本当に?」


「うん」


 舞彩は、じっと会長を見つめた。


 会長も笑顔で見つめ返してくる。


「…………」


(……信用ならない……)


 それでも、十五分後。


 最後の封筒が箱に収まった。


「終わったー!」


 琴音が両手を上げる。


「立花さん、ありがとう!」


「……フッ。これで貸しが一つできたわね」


「うん! 今度ジュース奢るね!」


「……えっ」


 舞彩は少しだけ目を丸くした。


「……そ、そこまでしなくても」


「遠慮しないで!」


 琴音が笑う。


 舞彩は、何となく照れくさくなって顔をそらした。


 その向こうで、会長が壁の時計を見る。


「もうこんな時間か。今日はここまでにしよう」


「……ようやく解放されるのね」


「また明日ね、立花さん」


「……明日は来ないわよ!」


 生徒会室に笑い声が広がった。


◇ ◇ ◇


 校舎を出ると、夕日が校庭を赤く染めていた。


「……はぁ」


 舞彩は大きく伸びをした。


(……疲れた)


(……でも、今日は昨日より早く終わったし……)


 校門へ向かって歩いていると、後ろから聞き慣れた声がした。


「あれっ、舞彩!」


「……陽菜?」


 振り返ると、スポーツバッグを肩に掛けた陽菜が手を振っていた。


「今帰り?」


「……ええ。そちらは部活帰り?」


「うん! ちょうど終わったところ!」


 陽菜が隣に並ぶ。


「一緒に帰ろ!」


「……フッ。仕方ないわね」


「やった!」


 並んで校門を出る。


「そういえば、生徒会は?」


「……また捕まったわ」


「えっ、今日来なくていいって言われたんじゃなかった?」


「……世の中には、信じてはいけない言葉があるのよ」


「何それ!」


 二人の笑い声が、夕暮れの通学路に響いた。


 帰り道は、いつもより賑やかだった。


 陽菜は部活で起きた失敗談を話し、舞彩は生徒会への不満を並べ立てる。


 もっとも、舞彩の話は途中から、琴音にもらったクッキーが美味しかったことや、紗月に褒められたことへ変わっていた。


「……で、会長がまた余計なことを言ってきたのよ」


「うんうん」


「……まったく、何を考えているのかしら」


「でも舞彩、結構楽しそう」


「……聞いていたの!?」


「聞いてたから言ってるんだよ!」


 陽菜が笑う。


 舞彩は頬を膨らませた。


「……噛み殺すわよ」


「はいはい」


 そんなやり取りをしているうちに、見覚えのある住宅街へ差しかかった。


 昨日と同じ道。


 昨日と同じ、細い路地。


 舞彩は何となく視線を向けた。


(……あ)


 路地の入口で、小さな女の子が赤いボールをついていた。


 昨日、ボールを拾ってあげた子だ。


 女の子も舞彩に気づいたらしく、ぱっと顔を輝かせた。


「あっ! 昨日のお姉ちゃん!」


「……あら」


 女の子が駆け寄ってくる。


「こんにちは!」


「……ええ。こんにちは」


 舞彩は、少しだけ屈んだ。


「知り合い?」


 陽菜が不思議そうに尋ねる。


「……昨日、落とし物を拾ったのよ」


「そうなんだ!」


 陽菜もしゃがみ、女の子と目線を合わせた。


「こんにちは! 一人で遊んでるの?」


「うん!」


「そっか。でも、もう暗くなっちゃうよ?」


 女の子は空を見上げた。


 夕日は建物の向こうに沈みかけている。


「……まだ、だいじょうぶ」


「……駄目よ」


 舞彩が静かに言った。


 女の子が首を傾げる。


「……こんな時間に、一人で遊んでいたら危ないわ」


「……でも」


「……お家は近いの?」


「うん! あっち!」


 女の子は、住宅街の向こうを指差した。


「おかあさん、おしごとから帰ってくるの待ってるの」


「そっかぁ。じゃあ、お母さんが帰ってくる前にお家に戻らないとね」


 陽菜が優しく笑う。


「……でも、おうち、つまんない」


 女の子はボールを抱きしめた。


「おかあさん、まだ帰ってこないもん」


 その言葉に、舞彩は少しだけ胸が痛くなった。


「……寂しいのね」


 女の子は、小さく頷いた。


 舞彩は言葉を探した。


 知らない子供と話すのは、正直得意ではない。


 けれど。


「……フッ。ならば、我が特別に一つ、忠告してあげるわ」


「ちゅうこく?」


「……暗くなってからの外出は、魔物に狙われる危険があるのよ」


「まもの!?」


 女の子が目を丸くした。


「ちょっと舞彩、怖がらせちゃ駄目だよ!」


「……あっ」


(……しまったぁぁ!!)


 舞彩が慌てていると、女の子は目を輝かせた。


「お姉ちゃん、まほうつかいなの!?」


「…………」


 舞彩は固まった。


 陽菜が隣で笑いをこらえている。


「……フッ。よくぞ見抜いたわね」


「すごーい!」


「……私の右目には、漆黒の魔眼が封印されているのよ」


 舞彩は眼帯にそっと触れた。


「……その力が解放されれば、あらゆる邪悪を滅ぼすことができるわ」


「かっこいい!」


「……当然よ」


(……えへへ)


 素直に褒められて、少し嬉しくなってしまった。


「舞彩、子供相手だといつも以上にノリノリだね」


「……うるさいわよ」


 陽菜がくすくす笑う。


 女の子もつられて笑った。


 ほんの少し前まで寂しそうだった顔が、すっかり明るくなっていた。


「……さて」


 舞彩は立ち上がった。


「……そろそろ帰りなさい」


「えー」


「……駄目よ。お母さんが心配するわ」


「……わかった」


 女の子は渋々頷いた。


「じゃあ、お姉ちゃんたち、ばいばい!」


「ばいばーい! 気をつけてね!」


 陽菜が手を振る。


 舞彩も、小さく手を上げた。


「……ええ。またね」


 女の子は赤いボールを抱え、路地の奥へ走り出した。


 そのときだった。


 かん。


 乾いた音がした。


 女の子が足を止める。


 抱えていたボールが手から滑り落ち、路地の奥へ転がっていった。


「あっ!」


 女の子は慌てて追いかけようとした。


「……待ちなさい!」


 舞彩が声を上げる。


 女の子が振り返った。


「……暗いところへ一人で入っては駄目よ。私が拾うわ」


「ほんと?」


「……ええ」


 舞彩は陽菜を見た。


「……少し待っていて」


「うん。私も行くよ」


「……いいわよ、すぐだから」


「何言ってるの。二人の方が早いでしょ?」


 陽菜は笑って、舞彩の隣に並んだ。


 三人は路地へ足を踏み入れた。


◇ ◇ ◇


 路地は、表通りよりもずっと薄暗かった。


 両側には古い建物が並び、夕日の光を遮っている。


 奥には、小さな駐車場があった。


「ボール、どこまで行っちゃったんだろうね」


 陽菜が辺りを見回す。


「……あそこじゃない?」


 舞彩が指差した先。


 駐車場の隅に、赤いボールが転がっていた。


「あった!」


 女の子が嬉しそうに駆け出す。


「……走らないで!」


 舞彩が追いかけようとした、その瞬間。


 がしゃん。


 駐車場の奥で、金属が倒れる音がした。


 三人の足が止まる。


「……え?」


 陽菜が声を漏らした。


 薄暗い建物の陰。


 そこに、誰かが立っていた。


 背の高い男だった。


 いや。


 男のように見えた。


 異様に長い腕。


 不自然に曲がった首。


 何より、その顔には目も鼻もなかった。


 ただ、口だけがあった。


 耳元まで裂けた、大きな口。


「…………」


 舞彩は息を呑んだ。


(……何、あれ)


 男のようなものが、ゆっくりと首を動かす。


 ぎち。


 骨が軋むような音がした。


「……舞彩」


 陽菜が震える声で呼んだ。


「……あれ、何?」


「……分からないわ」


 冗談を言う余裕などなかった。


 男の口が、ゆっくりと開く。


 その内側で、何かが動いた。


 細長い指だった。


 口の中から、何本もの指が這い出してくる。


「ひっ……!」


 陽菜が悲鳴を漏らした。


 女の子は、その場に立ち尽くしている。


 男のようなものが、一歩踏み出した。


 べちゃり。


 濡れたような足音。


 舞彩の背筋に、冷たいものが走った。


「……陽菜」


 声が震えた。


 それでも、何とか言葉を絞り出す。


「……その子を連れて、逃げて」


「で、でも舞彩は!?」


「……いいから!」


 自分でも驚くほど、大きな声が出た。


 陽菜が女の子の手を掴んだ。


「走って!」


「う、うん!」


 二人が路地の出口へ向かって駆け出す。


 舞彩は、その背中を見送った。


(……お願い)


(……そのまま逃げて……!)


 しかし。


 怪物の首が、ぐるりと回った。


 目も鼻もない顔が、逃げる二人を向く。


「……アァ」


 次の瞬間、怪物の姿が消えた。


「……え?」


 舞彩が瞬きをしたときには、もう遅かった。


 どんっ!


「きゃあっ!!」


 陽菜の身体が横へ弾き飛ばされた。


 肩からフェンスにぶつかり、金網が大きく揺れる。


「……陽菜!?」


 陽菜は地面に倒れたまま、苦しそうに息をしていた。


「っ……いた……」


 右腕を押さえ、立ち上がろうとする。


 けれど、腕がうまく動かないらしい。


「……舞彩、逃げ……」


 そこまで言って、顔を歪めた。


 怪物は今度は女の子へ向き直った。


「いや……」


 女の子が後ずさる。


「いやぁ……!」


 足がもつれ、その場に尻もちをついた。


 赤いボールが、ころころと転がっていく。


「……やめて」


 舞彩の声が震えた。


「……その子は、何もしてないでしょ……!」


 怪物は答えない。


 長い腕を伸ばし、女の子の服を掴んだ。


「きゃあああっ!!」


 小さな身体が宙に浮く。


 女の子は必死に足をばたつかせた。


「おかあさん! おかあさぁん!!」


「……離しなさい!」


 舞彩は走り出した。


 怖かった。


 足が震えていた。


 それでも、女の子の悲鳴を聞いて、じっとしていられなかった。


「……その子を離せぇっ!!」


 怪物の背中へ、思いきり体当たりする。


 びくともしなかった。


「……え」


 怪物が、ゆっくりと振り返る。


 次の瞬間。


 舞彩の腹部に、長い腕がめり込んだ。


「……がっ……!」


 息が止まった。


 身体が折れ曲がり、足が地面から離れる。


 そのまま背後の壁へ叩きつけられた。


 どんっ!!


「……っ、かは……!」


 背中に激痛が走った。


 舞彩は壁を滑り落ち、地面に崩れた。


 息が吸えない。


 喉の奥から、ひゅうひゅうと嫌な音が漏れる。


(……痛い)


(……何、これ……)


 ただ殴られただけ。


 たった一度、殴られただけなのに。


 身体の中身が、全部壊れてしまったようだった。


「舞彩っ!!」


 陽菜の声が聞こえた。


 顔を上げる。


 怪物は女の子を地面へ放り投げていた。


「きゃっ!」


 女の子は膝を擦りむき、泣きながら後ずさった。


 怪物が、その小さな足首を掴む。


「やだぁっ! 離してぇ!」


 女の子の身体が、ずるずると引きずられていく。


 小さな手が、必死に地面を掻いた。


「……やめ、て……」


 舞彩は腕を伸ばした。


 届かない。


「……やめなさい……!」


 地面に手をつき、身体を起こす。


 膝が震える。


 視界がぐらぐらと揺れていた。


 それでも、立ち上がった。


「……お願い……! その子を離して……!」


 怪物の動きが止まる。


 裂けた口が、ゆっくりと舞彩へ向いた。


「……アァ……」


 怪物は女の子を放し、舞彩へ近づいてきた。


「……っ!」


 逃げなければ。


 頭では分かっていた。


 けれど、足が動かなかった。


 怪物の腕が伸びる。


 舞彩は咄嗟に両腕で顔を庇った。


 鈍い衝撃。


「……あぁっ!!」


 身体が横へ吹き飛び、地面を転がった。


 肘が擦りむける。


 制服が破れる。


 手のひらに、砂利が食い込んだ。


(……無理)


(……こんなの、無理だよ……)


 舞彩は震える指を握りしめた。


 怪物は、また女の子の方へ向かっていく。


「……っ、待って……!」


 舞彩は壁にしがみつき、何とか身体を起こした。


「……こっちを見なさい……!」


 怪物が振り返った。


 そして、再び舞彩へ近づく。


 長い指が、彼女の首に巻きついた。


「……っ!?」


 身体が持ち上がる。


 つま先が地面から離れた。


「……か、は……!」


 息ができない。


 舞彩は怪物の腕を掴み、必死に引き剥がそうとした。


 びくともしない。


 視界の端が、黒く染まっていく。


(……死ぬ)


 初めて、はっきりとそう思った。


(……私、ここで……)


 そのとき。


「舞彩を離してっ!!」


 陽菜の声が響いた。


 怪物の背後から、陽菜が飛びかかっていた。


 無事な方の手で怪物の服を掴み、必死に引っ張っている。


「やめてよ! 舞彩に何するのっ!!」


「……ひ、な……」


 舞彩は、かすれた声を漏らした。


(……駄目)


(……来ちゃ、駄目……!)


 怪物が首を回した。


 陽菜の姿を捉える。


 そして、乱暴に腕を振った。


「……あっ!」


 陽菜の身体が、地面へ叩きつけられた。


「う、あぁっ……!」


 短い悲鳴。


 陽菜は背中を丸め、その場で動けなくなった。


「……ひな……?」


 舞彩の目が見開かれる。


「……陽菜……!」


 怪物の手が緩み、舞彩は地面へ落ちた。


 咳き込みながら、陽菜へ這い寄ろうとする。


「……陽菜、返事して……」


「……まい……」


 かすかな声が返ってきた。


 陽菜は目を開け、苦しそうに息をした。


「……大丈夫、だから……」


 どう見ても、大丈夫ではなかった。


 それでも陽菜は、舞彩を安心させるように笑おうとした。


「……ばか……」


 舞彩の目に涙が浮かぶ。


「……何で、戻ってきたのよ……」


「……だって……舞彩が……」


 陽菜の声が途切れる。


 怪物が、再び女の子へ向かった。


「……いや……」


 女の子は壁際にうずくまり、両手で頭を覆っていた。


「……もう、やだ……」


 泣き声は、すっかり弱々しくなっていた。


「……おうち、かえりたい……」


 その声を聞いた瞬間。


 舞彩の胸が、ぎゅっと締めつけられた。


 ほんの少し前まで、あんなに元気だったのに。


 赤いボールを抱えて、笑っていたのに。


『お姉ちゃん、まほうつかいなの!?』


「……待って……」


 舞彩は、地面を這った。


 手のひらが痛い。


 膝が痛い。


 呼吸するたび、胸の奥が軋んだ。


「……お願い……」


 怪物の足元へ、ようやく手が届く。


 舞彩は、その足首にしがみついた。


「……その子を……離して……」


 怪物が、ゆっくりと顔を下げる。


「……怖がってるでしょ……」


 返事はなかった。


 代わりに、長い腕が振り下ろされた。


「……あぐっ!」


 舞彩の身体が地面へ押しつけられる。


 痛みで視界が白く染まった。


 それでも、手を離さなかった。


「……お願い……します……」


 自分が何を言っているのか、もう分からなかった。


 さっきまで、あんなに偉そうなことを言っていたのに。


 魔眼だの、魔法だの。


 全部、嘘だった。


「……やめて……」


 涙が、地面に落ちる。


「……お願いだから……」


 怪物の足を掴む指に、力を込めた。


「……もう、誰も傷つけないで……!」


 怪物は、舞彩の手を振り払った。


 そして。


 女の子へ、ゆっくりと腕を伸ばした。


「……おねえ、ちゃん……」


 女の子が、舞彩を見た。


 涙でぐしゃぐしゃになった顔。


 震える唇。


「……たすけて……」


「…………」


 舞彩は、立ち上がろうとした。


 立てなかった。


 腕が震え、地面に倒れ込む。


「……待って……」


 もう一度、身体を起こそうとする。


 今度は、膝が折れた。


「……待ってよ……!」


 怪物の裂けた口が、ゆっくりと開き始めた。


 耳元まで伸びた口が、さらに大きく広がっていく。


 その奥で、何本もの細い指が蠢いていた。


 女の子が、必死に手を伸ばしていた。


 小さな手だった。


 舞彩は、その手を掴もうとした。


 あと少し。


 ほんの少し、届かない。


「……お願いっ!!」


 怪物の口の中から伸びた指が、女の子の身体を掴んだ。


「いやぁぁぁ!!」


 小さな悲鳴が響く。


 女の子の身体が、怪物の方へ引き寄せられていく。


「……やめてぇぇぇ!!」


 舞彩は、地面を這いながら叫んだ。


 女の子の手が、何かを求めるように宙を掻いた。


「おねえちゃぁぁん!!」


「……待って!!」


 舞彩は、必死に腕を伸ばした。


 指先が、女の子の手に触れた。


 ほんの一瞬。


 確かに、触れた。


 けれど。


 掴むことはできなかった。


 怪物の口が、女の子を呑み込んだ。


 悲鳴が途切れた。


「…………え?」


 舞彩は、動きを止めた。


 目の前から、女の子が消えていた。


 怪物の口が、ゆっくりと閉じていく。


 何事もなかったかのように。


「…………」


 舞彩は、伸ばしたままの手を見つめた。


 ついさっきまで、そこにいた。


 小さな手が、触れた。


 なのに。


「……ねえ……」


 声が震えた。


「……どこ……?」


 返事はない。


「……ねえ……出して……」


 舞彩は、怪物を見上げた。


「……その子を、出してよ……」


 怪物は何も答えない。


「……お願いだから……」


 舞彩の頬を、涙が伝った。


「……返して……」


 声が、次第に大きくなる。


「……返してよ……!」


 舞彩は、地面に手をついた。


「……あの子、まだ小さいんだよ……?」


 喉が震える。


「……お母さん、待ってるんだよ……?」


 怪物は、ただ立っていた。


「……帰らなきゃ、いけないんだよ……!」


 舞彩は、泣きながら叫んだ。


「……返してよぉぉぉ!!」


 何も起こらなかった。


 女の子は、戻ってこなかった。


 舞彩は、地面に崩れ落ちた。


「……ごめん……」


 涙が止まらなかった。


「……ごめんね……」


 昨日、ボールを拾ってあげた。


 今日、少しだけ話をした。


 魔法使いのお姉ちゃんだと、目を輝かせてくれた。


 それなのに。


「……何にも、できなかった……」


 何が漆黒の魔眼だ。


 何が魔法使いだ。


 何が邪悪を滅ぼす力だ。


 そんなもの、どこにもない。


 自分は、ただの弱い女の子だった。


「……助けてあげられなくて……ごめんなさい……!」


 その背後で。


 ずるり。


 怪物が動いた。


 舞彩は、ゆっくりと顔を上げた。


 怪物の裂けた口が、別の方向を向いている。


 その先には。


「…………陽菜?」


 フェンスのそばで、陽菜が身体を起こそうとしていた。


 怪物が、そちらへ歩き始める。


「……やめて……」


 舞彩は掠れた声を漏らした。


「……陽菜には、近づかないで……!」


 怪物は止まらない。


 陽菜も、それに気づいた。


 恐怖に目を見開きながら、後ずさろうとする。


「……舞彩……逃げて……」


「……嫌よ……!」


 舞彩は立ち上がった。


 何度も膝が折れそうになった。


 それでも走った。


「……陽菜っ!!」


 怪物が陽菜へ腕を伸ばす。


 その直前。


 舞彩は、陽菜の手を掴んだ。


「……立って!!」


「……ま、舞彩……!」


「……走るのよ!!」


 陽菜の身体を引き起こす。


 陽菜は痛みに顔を歪めながらも、必死に立ち上がった。


 二人は手を握りしめたまま、路地の出口へ走り出した。


 背後から、怪物の足音が聞こえる。


 べちゃり。


 べちゃり。


 べちゃり。


「……っ、はぁ……!」


 舞彩の肺が悲鳴を上げていた。


 足も、腕も、何もかも痛かった。


 それでも、手を離さなかった。


「……陽菜、もう少し……!」


「……うん……!」


 陽菜が答える。


 まだ声が聞こえる。


 まだ手が繋がっている。


(……大丈夫)


(……今度こそ、助ける)


(……絶対に、離さない……!)


 路地の出口が見えた。


 その向こうには、夕暮れの住宅街が広がっている。


 人のいる場所。


 助けを呼べる場所。


 あと少し。


 ほんの数歩。


「……陽菜っ! もうすぐよ!!」


「……舞彩……!」


 陽菜が、何かを言いかけた。


 その瞬間。


 背後で、風が唸った。


 ぐんっ。


 繋いでいた手が、後ろへ強く引かれた。


「……っ!?」


 舞彩は転びそうになりながら、必死に握り直した。


「……陽菜っ!!」


「ま、舞彩っ!! 助け――」


 陽菜の悲鳴が響いた。


 舞彩は振り返った。


 怪物の長い腕が、陽菜の身体を捕らえていた。


 その顔にある巨大な口が、あり得ないほど大きく開いていく。


「……やめて」


 舞彩は、陽菜の手を引いた。


「……陽菜を離して!!」


「舞彩ぃぃぃぃぃ!!」


 陽菜が泣き叫ぶ。


 舞彩も叫んだ。


「陽菜ぁぁぁ!!」


 次の瞬間。


 怪物の口が、陽菜の頭部を覆った。


 がちんっ。


 何かが噛み合う、鈍い音。


 陽菜の悲鳴が、途切れた。


「…………え?」


 舞彩は、手を引き続けていた。


 けれど、陽菜はもう手を握り返してこない。


 怪物が、陽菜の身体を乱暴に引いた。


 ぶつり。


 突然、舞彩の手が軽くなった。


 勢い余って、舞彩は地面に尻もちをついた。


「……陽菜?」


 握りしめた手を見る。


 そこには、陽菜の腕だけが残されていた。


 ゆっくりと顔を上げる。


 怪物の足元に、見覚えのある制服が崩れ落ちた。


 その上にあるはずの、いつも笑っていた陽菜の顔は、もう見えなかった。


「…………」


 舞彩は、声を失った。


 ほんの数秒前まで。


 陽菜は自分の名前を呼んでいた。


 助けを求めていた。


 なのに。


「……ひ、な……?」


 返事はなかった。


 舞彩は、一歩戻った。


「……ねえ……」


 もう一歩。


「……お願い……」


 怪物は、動かない陽菜のそばに立っていた。


 舞彩は、それさえ目に入らないように歩いた。


「……陽菜……」


 膝が折れた。


 その場に崩れ落ちる。


「……何で……?」


 返事はない。


「……何で、返事してくれないの……?」


 陽菜は、いつだって返事をしてくれた。


 舞彩が変なことを言えば笑ってくれた。


 強がれば、からかってくれた。


 困っていれば、当たり前のように助けてくれた。


 それなのに。


「……陽菜ぁ……」


 舞彩は、握りしめた手を胸元へ引き寄せた。


「……私、ちゃんと……」


 喉が詰まる。


「……ちゃんと、掴んでたのに……」


 離さなかった。


 絶対に離さないと決めていた。


 なのに、守れなかった。


「……あと、少しだったのに……!」


 涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。


「……どうして……!」


 舞彩は、声を上げた。


「……どうして、こんなことになるのよぉ……!」


 怪物が、ゆっくりとこちらを向く。


 裂けた口の奥で、無数の指が蠢いていた。


 舞彩は、もう逃げようとしなかった。


 逃げたところで、どうなるというのだろう。


 女の子は、助けられなかった。


 陽菜も、助けられなかった。


 自分だけが生き残って、何になるというのだろう。


「……嫌だ……」


 舞彩は、小さく呟いた。


「……こんなの、嫌だ……」


 今朝の教室が、頭に浮かんだ。


『最初からそう言えばいいのに!』


 笑いながらノートを開いてくれた陽菜。


『舞彩って、そう言いながら待っててくれるよね』


 いつも、自分のことを分かってくれていた陽菜。


『一緒に帰ろ!』


 ほんの少し前まで、隣で笑っていた陽菜。


 もう、その声は聞こえない。


 明日の朝、隣の席から「おはよ」と言ってくれることもない。


「……返して……」


 舞彩は、怪物を見上げた。


「……陽菜を、返して……」


 声が震える。


「……お願いだから……」


 目の前が涙で滲んだ。


「……返してよ……!」


 怪物は答えない。


 ただ、ゆっくりと近づいてくる。


 舞彩は、震える手を握りしめた。


 もう何も残っていない気がした。


 守りたかった。


 ただ、それだけだった。


 誰かを助けたかった。


 大切な友達と、いつもどおり家に帰りたかった。


 それだけのことさえ、叶わなかった。


「……私……」


 舞彩の唇が震える。


「……何にも、できなかった……」


 女の子の悲鳴。


 陽菜の最後の声。


 繋いだ手が軽くなった、あの感覚。


 何度も、何度も、頭の中で繰り返される。


「……もう、嫌だよ……」


 怪物が目の前に立つ。


 長い腕が持ち上がる。


 舞彩は顔を上げた。


 眼帯の下が、涙で濡れていた。


「……誰か……」


 もう、強がることさえできなかった。


「……誰か、助けてよ……!」


 そのとき。


 かちり。


 小さな音がした。


「…………?」


 舞彩は、涙に濡れた顔を上げた。


 どこから聞こえたのか、分からない。


 ただ、確かに聞こえた。


 そして。


 眼帯の下で、右目が熱を帯び始めた。


「……あ……?」


 青白い光が、黒い布の隙間から漏れ出す。


 怪物の足が止まった。


 裂けた口が、ゆっくりと開く。


「……ト……ビラ……?」


 舞彩には、その言葉の意味が分からなかった。


 ただ一つだけ。


 胸の奥に、強い願いが残っていた。


(……もう)


(……誰も、死なせたくない……!)


 かちり。


 再び、小さな音がした。


         

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