第6話 トビラヒラキ
かちり。
何かが、開く音がした。
それは鍵の音に似ていた。
ずっと昔に閉ざされた、重く、冷たい扉。
その鍵が、今、外れた。
◇
痛い。
息ができない。
胸の奥が焼けるように熱くて、指先は氷みたいに冷たかった。
立花舞彩は、薄暗い路地の地面に倒れていた。
身体を動かそうとした瞬間、脇腹に鋭い痛みが走る。
「っ……あ、ぐ……!」
思わず声が漏れた。
右腕はまともに上がらない。左脚にも力が入らない。制服は裂け、全身が血と泥にまみれていた。
けれど。
そんなことは、どうでもよかった。
「……ひ、な……?」
掠れた声で、名前を呼ぶ。
返事はない。
「陽菜……?」
すぐそばに、見慣れた制服があった。
朝まで一緒に笑っていた。
数学の問題を教えてくれた。
くだらない冗談を言って、舞彩の中二病をからかって、それでもいつも隣にいてくれた。
小鳥遊陽菜。
その姿が、そこにあった。
けれど、もう動かない。
「……ねえ」
舞彩は震える手を伸ばした。
「起きてよ……」
返事はない。
「……冗談、なんでしょ?」
いつものように笑ってほしかった。
『舞彩、また変なこと言ってるー!』
そんな声が聞こえてくる気がした。
「……やだ」
喉がひきつる。
「やだよ……陽菜……」
あの小さな女の子も。
陽菜も。
自分の目の前で、奪われた。
助けようとした。
必死に手を伸ばした。
なのに。
何一つ、守れなかった。
「……どうして」
涙が地面に落ちた。
「どうして……私だけ……」
そのときだった。
ずるり。
湿った音が、頭上から響いた。
「……ッ!」
舞彩は顔を上げる。
そこに、いた。
顔のない怪物。
人間に似ているのに、どこまでも人間からかけ離れた、歪な身体。
顔の中央には裂けた口。
指の先にも、小さな口がいくつも開いている。
その口が、笑っていた。
「……ア……アァ……」
怪物は首を傾ける。
まるで、舞彩がまだ生きていることを確かめるように。
そして、ゆっくりと腕を伸ばした。
「……来ないで」
舞彩は後ずさろうとした。
けれど、脚が動かない。
「来ないでよ……!」
怪物の指が迫る。
逃げられない。
もう、何もできない。
そのはずだった。
「……嫌」
舞彩の唇が震えた。
「……もう、嫌……!」
陽菜の笑顔が浮かぶ。
小さな女の子の声が蘇る。
『おねえちゃぁぁん!!』
そして。
『舞彩ぃぃぃぃぃ!!』
陽菜の、最後の叫び。
届かなかった手。
離れてしまった手。
守れなかった命。
「……もう、誰も……」
舞彩は歯を食いしばった。
「奪わせない……!」
その瞬間。
かちり。
再び、音がした。
◇
右目が、熱い。
「……え?」
眼帯の奥で、何かが脈打った。
心臓とは違う鼓動。
ずっと眠っていた何かが、目を覚ます。
「っ……あああああッ!!」
舞彩は右目を押さえた。
青白い光が、指の隙間から漏れ出す。
次の瞬間。
ぱきんっ!
眼帯を留めていた金具が弾けた。
黒い布が地面に落ちる。
露わになった右目は、深い青色に輝いていた。
それは生まれつき父から受け継いだ、青い瞳。
けれど今、その奥には、人間のものとは思えない光が宿っていた。
「……な、に……これ……」
舞彩自身にも、分からなかった。
ただ、身体の奥底から、膨大な何かが溢れてくる。
風が吹いた。
路地の埃が舞い上がる。
制服の裾が、光の粒になってほどけていく。
「……え……?」
裂けた布が消え、代わりに黒と銀の光が舞彩の身体を包んだ。
幾重にも重なる黒い布。
銀糸の模様が走る袖。
胸元には、小さな青い宝石。
膝まで広がる、夜空のようなドレス。
足元には、銀の装飾を施した黒い靴。
まるで、絵本に描かれた魔法少女のような姿だった。
けれど。
そこにいる少女の顔に、笑顔はなかった。
「……魔法……?」
呆然と呟く。
普段の舞彩なら、喜んだかもしれない。
自分のことを『漆黒の魔眼を持つ者』などと呼び、存在しない力を語っていたのだから。
けれど、今は違う。
こんな力があるのなら。
どうして。
「……どうして、もっと早く……!」
陽菜が死ぬ前に。
あの子が飲み込まれる前に。
どうして、目覚めてくれなかったのか。
舞彩は唇を噛んだ。
その目の前で、怪物が動いた。
「……アァァァァッ!」
巨大な腕が振り下ろされる。
避けられない。
舞彩は反射的に目を閉じた。
――守って。
そう願った。
ごおんっ!!
重い金属音が路地に響いた。
「……え?」
恐る恐る目を開ける。
そこには。
扉が、あった。
黒銀の金属で造られた、巨大な両開きの扉。
表面には複雑な紋様が刻まれ、中央には青い宝石が埋め込まれている。
左右の扉をつなぐように、何本もの銀色の鎖が巻きついていた。
壁に取り付けられているわけではない。
ただ、何もない空間に、扉だけが浮かんでいた。
「……とびら……?」
怪物の腕は、その扉に遮られていた。
衝撃で空気が震える。
それでも扉は、びくともしない。
舞彩は、理解できない光景を見つめた。
自分が願ったから、現れた。
そうとしか思えなかった。
「……私の……?」
指を動かす。
すると、扉がわずかに傾いた。
「……動く……」
もう一度、手を動かす。
扉は舞彩の意思に従うように、怪物との間へ滑っていった。
怪物が吠える。
何度も腕を振り下ろす。
そのたびに、重い音が響いた。
だが、扉は砕けない。
舞彩の胸に、小さな希望が生まれた。
これなら。
これなら、あいつを止められる。
「……お願い」
舞彩は扉に向かって、手を伸ばした。
「……あいつを、どこかへ……!」
すると。
がしゃん。
銀色の鎖が、ひとりでに緩み始めた。
「……え?」
がしゃん。
がしゃん。
鎖が一本ずつ外れていく。
そして。
ぎぎぎぎぎ……。
扉が、開いた。
◇
最初に聞こえたのは、風の音だった。
ひゅう、と。
小さな隙間から、冷たい風が漏れる。
けれど、それは普通の風ではなかった。
路地に落ちていた紙くずが、扉へ向かって滑り始める。
割れたガラスが、地面を跳ねた。
小石が浮き上がる。
「……なに……?」
扉の向こうは、真っ暗だった。
夜よりも暗い。
光が存在しない、底の見えない闇。
その闇が、周囲のすべてを引き寄せていた。
ごおおおおおおっ!!
「きゃあっ!」
突然、吸い込む力が強くなった。
舞彩の髪が激しくなびく。
地面に落ちていた空き缶が飛び、壁に貼られた古い広告が剥がれた。
赤いボールが、ころころと転がり始める。
あの女の子が持っていた、赤いボール。
「……っ!」
ボールは地面を離れ、吸い寄せられるように扉の隙間へ飛んでいった。
そして、闇の中へ消えた瞬間。
――パンッ!!
「ひっ……!」
乾いた破裂音が響いた。
舞彩は思わず肩を震わせる。
ただのゴムボールが破裂したにしては、あまりにも鋭い音だった。
しかも、破片の一つさえ戻ってこない。
「……な、に……今の……」
扉の奥は、相変わらず真っ暗だった。
何が起きたのか、まったく見えない。
けれど。
あの中に入ってはいけない。
舞彩は、本能的にそう感じた。
次いで、路地の瓦礫が浮かび上がる。
そして。
陽菜の制服の裾が、ふわりと持ち上がった。
「――だめッ!!」
舞彩の血の気が引いた。
「陽菜は……だめっ!!」
扉は、敵だけを選んでいるわけではなかった。
近くにあるものを、何もかも吸い込もうとしている。
舞彩は必死に腕を伸ばした。
「そっちは……違う……!」
扉が揺れる。
吸い込む力が一瞬、弱まった。
けれど止まらない。
「……お願い……!」
舞彩は涙を流しながら叫んだ。
「あいつだけ……!」
青い右目が、さらに強く輝く。
「あいつだけを……連れていって!!」
ごおんっ!!
巨大な扉が回転した。
開いた隙間が、怪物の真正面を向く。
すると、路地全体を乱暴に引き寄せていた力が、一方向へ集中した。
「……ア……?」
怪物の身体が、ぐらりと傾いた。
長い指が地面を引っかく。
爪がアスファルトを削る。
それでも、身体が少しずつ扉へ引き寄せられていく。
「……アァァァァッ!!」
怪物は壁にしがみついた。
その腕に、銀色の鎖が巻きつく。
がしゃんっ!
一本。
がしゃんっ!
二本。
鎖は生き物のように伸び、怪物の四肢を拘束していった。
「……逃がさない……」
舞彩の唇から、言葉がこぼれた。
誰かに教わったわけではない。
魔法の使い方なんて、知らない。
それなのに。
この扉の名前だけは、なぜか分かる気がした。
舞彩は震える右手を突き出した。
「――《魔界門・暴食》!!」
瞬間。
闇が、牙を剥いた。
◇
ごおおおおおおおおっ!!
鎖が一斉に引き絞られる。
怪物の巨体が宙に浮いた。
「ギィィィィィッ!!」
初めて、怪物が恐怖に似た声を上げた。
扉の向こうから、何かが押し寄せている。
風でも、炎でもない。
そこに存在するものを、存在した痕跡ごと奪い去ろうとするような、底知れない闇。
怪物の指が、扉の縁に食い込む。
銀の鎖が軋んだ。
その力は凄まじく、扉の開き方がわずかに鈍る。
「……っ、ああ……!」
舞彩の右目に激痛が走った。
全身の傷が、再び開くように痛む。
息を吸うだけで胸が軋む。
それでも、手を下ろさなかった。
「……陽菜を……」
怪物の身体が、半分ほど闇へ沈んだ。
「……あの子を……!」
裂けた口が、大きく開く。
そこから、かすれた声が漏れた。
「……ト……ビラ……?」
舞彩は答えない。
ただ、泣きながら叫んだ。
「返してよぉぉぉぉッ!!」
鎖が、最後の力で怪物を引いた。
ずるり。
巨体が闇に沈む。
伸ばされた指が、扉の縁を掻いた。
そして、その指先までもが闇の中へ消えた。
――ぐしゃり。
「……え?」
扉の奥から、鈍い音が響いた。
ばき、ばきばきっ。
硬い何かが、無理やり折り曲げられていくような音。
続いて、巨大な鉄の塊を押し潰したような、耳障りな軋みが響く。
ぎぎぎ……ぐしゃっ。
「……ア、ギ……」
怪物の声が聞こえた。
先ほどまで舞彩たちを追い詰めていた、あの恐ろしい怪物の声。
それが今、苦痛に歪んでいた。
「ギィィィ――」
悲鳴は、最後まで続かなかった。
ぶつり。
何かが途切れた。
そして、静寂。
舞彩は、開いた扉を見つめたまま動けなかった。
あの中で何が起きたのか。
確かめることはできない。
ただ、一つだけ分かった。
あそこは、何かを閉じ込めるための場所ではない。
入ってしまったものを、二度と帰さない場所なのだ。
ぎぎぎぎ……。
両開きの扉が、ゆっくりと閉じていく。
がしゃん。
銀色の鎖が再び巻きついた。
そして。
かちり。
鍵のかかる音とともに、巨大な扉は空間から消えた。
◇
「……はぁ……はぁ……」
舞彩は、その場に膝をついた。
もう、立っていられなかった。
黒と銀のドレスが、光の粒となってほどけていく。
気がつけば、舞彩は再び、血に汚れた制服を着ていた。
右目の青い光も、少しずつ薄れていく。
「……終わった……?」
誰にともなく呟く。
怪物はいない。
あの恐ろしい声も、もう聞こえない。
けれど。
陽菜は、戻ってこなかった。
「……陽菜……」
舞彩は地面を這うように進んだ。
身体のあちこちが悲鳴を上げる。
それでも、止まらなかった。
「……ねえ……」
陽菜のそばへ、手を伸ばす。
「……勝ったよ……」
声が震えた。
「……あいつ、いなくなったよ……」
返事はない。
「……だから……」
視界が滲む。
「……起きてよ……」
陽菜は動かない。
「……もう、怖くないから……」
舞彩は、震える手を伸ばした。
けれど、その手が届く前に、身体が大きく傾いた。
「……あ……」
目の前が暗くなる。
全身から力が抜けていく。
魔法が消えたことで、それまで押しとどめられていた痛みが、一度に押し寄せてきた。
胸が苦しい。
呼吸が浅い。
右目の奥が、焼けるように痛む。
意識が遠のく。
「……やだ……」
舞彩は、必死に目を開けようとした。
「……まだ……」
陽菜のそばにいたかった。
せめて、もう少しだけ。
「……ひな……」
伸ばした指先が、地面に落ちた。
そして。
立花舞彩は、意識を失った。
◇
どれほどの時間が経ったのだろう。
遠くから、サイレンの音が響いていた。
「こっちです! 人が倒れています!」
「救急隊、急いで!」
「……なんだ、これは……」
駆けつけた警察官たちは、路地の惨状を見て言葉を失った。
壁は大きく砕け、アスファルトには深い爪痕のような傷が残っている。
何か巨大なものが暴れ回ったとしか思えない。
けれど、その『何か』の姿はどこにもなかった。
現場に倒れていたのは、制服姿の少女が二人。
「一人は生きてる! 脈があります!」
「意識は?」
「ありません! 呼吸が弱い!」
舞彩の身体が、慎重に担架へ移される。
制服は血に染まり、全身には深い傷と打撲があった。
骨折や内臓の損傷も疑われる状態だった。
「すぐに搬送するぞ!」
「もう一人は……」
警察官は言葉を詰まらせた。
そして、路地の奥を見回す。
「……ほかに誰かいたのか?」
地面には、小さな靴の跡が残っていた。
けれど、その持ち主の姿はどこにもなかった。
現場に残された傷は、人間が素手でつけられるようなものではない。
刃物とも違う。
大型の動物による襲撃にも見える。
だが、それでは説明できない痕跡が、あまりにも多すぎた。
「……一体、何があったんだ……」
警察官の呟きに、答える者はいなかった。
舞彩は担架の上で、目を閉じたままだった。
その右目の青い瞳も、今は静かに閉ざされている。
救急車の扉が閉まった。
サイレンが鳴り響く。
そして、車は夜の街へと走り去っていった。
◇
同じ頃。
街を見下ろす、高い建物の屋上。
そこに、一つの影が立っていた。
人間によく似た姿。
けれど、その瞳には人間のものとは異なる、不気味な光が宿っていた。
「……なるほど」
影は、小さく笑った。
「やはり、目覚めたか」
眼下には、赤色灯を点滅させる警察車両が見える。
影は、その光を興味深そうに眺めていた。
「随分と時間がかかったものだ」
その背後で、空気が揺れた。
暗がりの中から、別の声が響く。
「……あの娘は、どうなりました?」
「生きている。もっとも、しばらくは目を覚まさないだろうがな」
「……始末する必要は?」
「ない」
影は即座に答えた。
「むしろ、手を出すな。あの娘には、まだやってもらわねばならんことがある」
「……あの娘に、ですか?」
「ああ」
影は小さく笑った。
「九年も待ったのだ。ここで失うわけにはいかん」
「しかし、あの力は我々にとっても危険なのでは……」
「だからこそ、価値がある」
その言葉に、背後の気配が沈黙した。
影はゆっくりと夜空を見上げる。
そこには、何もない。
ただ、暗い空が広がっているだけだった。
「……九年前、あの空に現れた扉」
影は、懐かしむように呟いた。
「ようやく、再び動き始めたか」
「次は、いかがいたしましょう」
「今は何もするな。しばらくは様子を見る」
影は踵を返した。
「ただし、あの娘から目を離すな」
「……承知しました」
「我々の悲願が叶うかどうか……」
そこで言葉を切り、影は不気味に笑った。
「すべては、あの娘次第なのだからな」
冷たい風が吹き抜ける。
次の瞬間、屋上には誰の姿もなかった。
◇
病院の一室。
機械の規則正しい電子音だけが、静かに響いていた。
白いベッドの上に、小柄な少女が眠っている。
身体のあちこちに包帯が巻かれ、点滴の管がつながれていた。
立花舞彩。
十六歳。
私立天星学園、一年二組。
その少女が、何を見たのか。
何と戦ったのか。
そして、何を失ったのか。
まだ、誰も知らない。
ベッドのそばでは、一人の女性が椅子に座っていた。
舞彩の母親だった。
普段は明るく、よく笑う母親。
けれど今、その顔に笑顔はなかった。
「……舞彩」
母親は、娘の手をそっと握った。
「……帰ってきてくれて、ありがとう」
返事はない。
舞彩は、まだ目を覚まさない。
母親は、その小さな手を両手で包み込んだ。
「……お願いだから……」
声が震える。
「……もう一度、目を開けて……」
白い病室に、すすり泣く声が落ちた。
窓の向こうでは、朝が近づいていた。
けれど。
立花舞彩の長い夜は、まだ終わっていなかった。




